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乳と蜜の流れる場所

 フェニキアとは、言うまでもなくパレスチナ地方の古代の名称である。


 その語源は、フェニキア人が自称した商人を指す『ケナアニ』に由来するとされている。

 また、当時彼らが扱っていた高価な紫の染料が『キナフ』と呼ばれていた事にも関連すると言われている。


「確か、カナンっていうのはケナアニから付けられたって考えられてるのよね?」

「ああ……考古学的にはまだ論争をやってるようだが、キナフという存在が彼らフェニキア人の謎を解く鍵だというのは間違いないだろう」

 

 フェニキアの歴史は古く、旧石器時代には既に定住の痕跡が残されている。

 その後は農耕から都市が発展し、エジプトを中心とした貿易を行う事により高度な文明を築いた。


「フェニキアに関する記載はエジプトのアメンホテプ2世の碑文が最初とされている。創世記にもハムの子カナンの名が記されているのは知っているな?」

「まぁね……カナンはアブラハムとその子孫にとって約束の地とされてるし、サムエル記上だとイスラエル人のカナン侵入後はイスラエルの地と書かれているし、創世記だとヘブライ人の地なんて書かれてるくらいには重要な場所扱いよね」


 ギリシア人がフェニキアと呼んだ地は、こうして信仰上の聖地になったのだ。


「でも……こうしてみるとカナンっていう土地は、重要な拠点ではあるけれど、そんなに言うほど乳と蜜の流れる場所、っていうイメージはないわよね」

「いや、旧約聖書の時代は基本的にあの辺りは全部荒地だからな……一方地中海とヨルダン川と死海に挟まれたカナンの地は湧き水の豊富な緑地であり、家畜もよく育っていたはずだ」


 なるほど、農耕には適さず牧畜を行っていたギリシャの貧しい山岳地帯アルカディアとは逆である。

 あれは後世になってかなり美化されたようだけど。


「……でも、肥沃な土地こそが尊く貴重な存在だっていう当時の状況は分かったけど、貴方達の言っているカナン、つまり約束の地って……世間一般に認識されている実在の土地のカナンではなく……象徴としての……っていうか、言ってしまえば、『実在の土地にカムフラージュされた失われた土地』って事だものね……?」


 法王は頷いた。


「そうだ……正確に言えば、カナンという土地は二つ存在する」

「聖書に記された実在の土地と……それから、その土地の名前で呼ばれていたが当時既地上に存在していない土地である『カナン』の二つ、って事?」


 法王と魔女----二人の意見は、同じものだ。


 フェニキア人の祖先達が暮らしていた土地……失われた大陸を、ペテロ達は『カナン』と呼んだ。

 そう呼ぶ事でその土地に関わる秘密を守るために。


 自分達の来歴を、秘すために。


 失われた文明の知識の火を消さないために。


 その身体に流れる人間とは異質な『血』を絶やさないために----。


「……グラン・ルーメ」


 私は呟く。


「約束の地カナン……いや、アトランティスこそが魔女の揺り籠だった……それを知っていたペテロは魔女達を集めて、アトランティス文明の再興を目指していたのよ」

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