蟹とリボン
「……そろそろいいだろう」
いつしか太陽は傾き、目に痛いほどに白かった砂浜は僅かな陰りに覆われ始めていた。
司祭枢機卿は組んでいた腕を解き、犬でも呼ぶように、波打ち際に向かってピューッと口笛を鳴らす。
「……宿に戻るぞ」
「まだいいんじゃない? あの子、あんなに喜んでるのに」
ついそんな事を言ってしまうが、一応、本心だ。
ただし、可哀想に思ったというよりは、初めての海で夢中になってくれている方がありがたいという気持ちの表れではあったけれど。
(だって、ねぇ……あの子が横にいると気温が一度くらいは上がっているような気がするんだもの……)
溜息を吐いて、私は頬に手を当てる。
「何が楽しいんだか……海なんか面白くもなんともないだろう」
「まぁ、泳がない人間ならそうかもしれないわね……」
蝙蝠傘を差したままの私が言えた義理でもないが、司祭服で突っ立っているだけなら、そりゃ飽きるだろうなという感想しかない。
「泳がないの?」
何の興味もないが、社交辞令の練習のつもりで聞いてみる。
「私には泳ぐ必要がない……むしろ泳ぐよりも泳いでいる人間を見る立場だからな」
「なにその上から目線」
呆れた私は蝙蝠傘を畳んだ。
メリッサは波打ち際から全然戻って来ない。
「あぁ、すまんな……そんなつもりはないんだが、自慢みたいになってしまった」
「……そうなの?」
アンソニーは、理解しがたいというような目付きで私を見る。
「私の高貴さが理解できないとは……お前のその変な色の目は只の石ころか?」
「 ……いや、普通に目ですけど……」
もう一度、アンソニーは口笛を吹いた。
メリッサは、今度はやっとこっちに走って来た。
「……人間を石にする魔女は知ってるか?」
「石に? そんなのできるの?」
片手に何かを掴んで、ぶんぶん振りながら少女は走って来る。
「アイリスぅー! 見て見てー!」
もう嫌な予感しかしない。
私は慌てて立ち上がる。
「仲間にはいなかったのか?」
「うーん、あまり話さなかったから知らない……あぁ、石の声が聴けるっていう術を使うのはいたけど」
思い出そうと首を捻るが、もう顔も浮かばない。
なんといっても、かなり昔の話だ。
「お前なぁ、その他人に興味がないのはホント直せよ……使えなさ過ぎるだろ……」
「他人って……単に興味がなかっただけよ」
ムッとして私は言い返す。
「私は、魔女なんか……どうでもいいもの……」
そうだ。
ただ一人の魔女以外、私は興味がない。
あの魔女一人以外は----。
「ねぇー! 見てー! 蟹捕まえたよぉー!」
私の感傷などお構いなく、メリッサは一直線に駆け寄って来た。
「ね!? 可愛いでしょ!?」
「わ……ッ!?」
飛び付くようにして私の鼻先に掲げられた色鮮やかな物体を見て、思わず私は後退る。
蟹だ。
大きなハサミを振り回して、ブクブクと泡を吹いている。
これは怒ってる----完全に。
「ほーら、蟹だぞー!? うりうりうりッ……!」
「うわ! わ、分かったってば! うん、蟹ね!? 蟹だね……ッ!?」
だから言わんこっちゃないと軽く憤慨しながらアンソニーの方を見ると、明後日の方角を見て知らんぷりを決め込んでいる。
「……これ、どうするのよ?」
「飼う!」
少女だけは満面の笑みだ。
息を弾ませ、頬を染めているその様子を見て、私は、この子を陽の光の中で見るのは初めてなのだと不意に気付く。
「ね? いいでしょ……?」
どうせ私がダメだと言ってもホテルに連れて帰るのだろう。
「あのねぇ……」
言いかけて、私は思い直す。
この子にとっては、見るもの触れるものが全て初めてなのだ。
そして---最後になるかもしれないものなのだ。
(そうね……確かに、この島での体験はこの子に大きな影響を与えるのかもしれないわね……)
アンソニーも、もしかしたら同じ思いなのかもしれない。
嬉しくもなんともないが。
(ま、私には、少し遅すぎたようだけど……)
私はメリッサの手の中を覗き込んだ。
「……ホテルに戻るまでそんな風にギュッと掴んでたら弱るんじゃない?」
「あ、そうか……」
少女はしばし考え、髪を結んでいたリボンをおもむろに解く。
「……できた!」
少女は黒くて細いリボンに繋がれた蟹を、砂の上に置く。
なんだか、犬の散歩というのに似ている。
「よし! お部屋に戻るよ!」
だが、蟹だ。
大人しくなどしているはずもなく、蟹はすぐさま海に向かって走り出す。
「違う、こっちだってば!」
慌ててリボンを引っ張るメリッサを見ながら、私はまた溜息を吐いた。
「……着くまで時間がかかりそうね」
「ああ」
いつしか私とアンソニーは歩調を合わせていた。
これでまたしばらくは話の続きができる----いや、本題に入れる。
「それで、さっきの人間を石にする魔女の話だけど……?」
「お前、仲間が近くにいたら気配とかで分かるのか?」
不意に尋ねられて心臓が跳び上がりそうになる。
「どうかしらね……私、そういうのはさっぱりだから……」
「お前がなりそこないなのは承知してるが、相手の能力によっては何か感じたりするんじゃないのか?」
アネモネの事で鎌をかけられたかと思ったが、声色からするにそうでもないらしい。
地下室での一件は本当に知らないようだ。
「……それは……その時になってみないと分からないとしか……」
「そうか」
司祭枢機卿は意外にもあっさりと納得した。
本題は別にあるようだ。
「……どうやら、その石の魔女とやらがこの島に入り込んだらしい」
思いもよらぬ言葉に、私は息を呑んだ。




