***閑話 ある男のおはなし***
耳の不自由な方への差別的な表現があります。ご注意ください。
本編とは関係ないお話です。読まなくても大丈夫ですが、読むと分かることもあるかも。
とても優しく、真面目な男が居た。彼は耳が聞こえなかった。
元々聞こえなかったのではない。だんだんと聞こえなくなったり、普段と変わらず聞こえたり。それを繰り返していくうち、大人になる頃には彼は音を失ってしまった。
とても幸運なことに、耳が聞こえなくなってしまった男に同情した近所の花屋の店主が、花の世話係や、土いじりの係として雇ってくれた。花屋の仕事も時々手伝い、簡単な読み書きと簡単な数字の計算ができるようになった。
そんな折、もともと病弱だった母が病に倒れた。父は顔も知らず、物心ついた時から男には母ひとりだけだった。男は看病をするために、貴重な職を辞めた。
その春、彼の看病もむなしく母は息を引き取った。
男は悲しかったが、最後の瞬間まで手を握ってあげられたことが彼の心をほんの少しだけ晴らしてくれた。
母が亡くなったあと、彼は仕事を探すが簡単には見つからない。簡単な読み書き、簡単な計算ができても耳の聞こえない彼に世間の風は決して温かなものではなかった。
そんな折だった。身なりのいい女性に声をかけられたのは。
一日二回食事を運ぶだけで、住む場所と彼の食事を保証してくれるし、少ないながらも給金を出してくれるという。母が亡くなった今、男に身寄りはなかったから喜んで飛びついた。
男は秘密厳守と言われ、仕事場へ行く際に窓を全て覆われた馬車に乗せられた。
がたがたと長いこと揺られていたが、急に道が綺麗になったらしくあまり揺れなくなった。
暗い馬車の中に光が差し込み、男が顔を上げる。外の女性が出てこいと身振りをしていた。
広い庭園のような場所だった。そこからさらに奥に連れていかれ、綺麗な離れの建物へと案内された。その近くに小さな物置小屋のような建物があり、今日からここに住むといいと言われた。
中を見ると狭いが一人で生活する分には十分だった。男が頷いたのを確認して男が町では見たことのないような、立派なお仕着せを着た女性は手招きをする。どうやら綺麗な離れの方へも行ってみていいらしい。
男が案内された離れには厳重に鍵がかけられていた。そのカギを男は渡された。これから仕事の時はこれを使えと言うことらしい。
離れの一番奥の部屋の前で女性は立ち止まった。
どうやら、ここに人がいて出られないから毎日二回食事を運べという。
三回じゃなくていいのかと男が問うと、よく聞き取れなかったらしく首を傾げられたので伝えるのを諦めて頷いた。
男は知るよしもなかったが、女性の雇い主はこの国の宰相で、その宰相は探していたのだ。人々のうわさ話や、閉じ込めた幼い王の助けを呼ぶ声の聞こえない、身寄りのない扱いやすい人間を。
***
その夜、初めて食事を運んで驚いた。
中に居たのは小さな…少年とも言えない子どもだった。
扉を開けて入ってきた男に最初は驚いた様子だったが、何かを諦めた様子でじっとおとなしくしていた。
心配だったが、決して会話をしてはいけないと言われていたので食事だけを置いて帰った。
翌朝、食事を運んで行くと全然手を付けていない夕食が置かれたままになっていた。
また夕方に食事を運ぶと、朝食は食べたらしく少し減っていた。少し嬉しかった。
***
そんな日々が一週間過ぎ、半月が経った頃、立派なお仕着せの女性の指導か監視から外れたらしく、別の建物に男が行って食事をもらい、それをそのまま運ぶという流れになった。信頼されたのか、それともあの子どもに手を割いていられないのかどちらなのかは分からなかった。
出された食事は朝食しか食べない子どもを男は心配していた。このままでは確実に死んでしまう。しかし、話すことは禁じられている…そんな時だった。男の前に老人が現れたのは。
白いあごひげを豊かに蓄えた老人は男の手を取り、その手のひらを自分の口に当ててゆっくりと言葉を話した。男の目から涙があふれ出す。ずっと聞かなくなって久しい人間の声が頭に直接響いてきたのだ。
老人は自らを大魔法使いだと名乗った。こんなことをできるのだからそうなのだろうと男は頷いた。
そして、彼が食事を運んでいる相手が王であること。宰相のたくらみ、そして彼が王を助けたいと思っていて協力してほしいということを説明した。男には今まで通り食事を運び、食べたように見せかけてくれるだけで良い、もちろん金は渡すと伝えた。
正直なところ、男にはよく理解できなかった。しかし、あの痩せたかわいそうな子どもが助かるのならと頷こうとして躊躇った。これが明るみに出てしまえば自分は殺されてしまうだろう。そう考えるとすぐに返事はできなかった。
考える男に年老いた魔法使いはさらに教えてくれた。お前の運ぶ夕食には毒が含まれているのだよと。
いつも顔色の悪い子どもは、絶対に朝食しか食べなかった。無意識に気付いていたのだろう。そして、自分は知らなかったとはいえ毎晩彼に毒を運び、もう少し夕食を食べて欲しいなどと思っていたのだ。
この手で、あの子を殺すところだったのだと。男は自分の両掌を見て涙を零した。そして、彼は静かに頷いたのだった。知らぬ間に犯してしまっていた罪を償うため、協力すると。
魔法使いは男の不明瞭な発音も不思議とよく理解していた。男に気持ちだからと無理やりに金を押し付け、子どもを抱き上げて暖炉のあたりをがちゃがちゃといじっていた。しばらくすると隠し通路が現れ、魔法使いは軽く手を上げて消えて行った。
それからも男は変わらず食事を運び続けた。
朝食は少し少なめに減らして、夕食はそのままにして返却した。
いつ明るみに出るだろうかとびくびくしていたが、何事も起きないまま三年の月日が流れ――男は城の騎士に連れていかれた。
子どもの存在確認を騎士たちは行わなかった。きっと男の雇い主の行いが明るみに出たのだと思った。
男は自分がどうなるのかとても不安だったが、知らないこととはいえ、王に毒を運んでいたのは事実だ。覚悟を決めて長い渡り廊下を黙って付いて行った。
どんどんと周りの調度品が見たこともないくらい美しいものになっていったので、男は天国に迷いこんでしまったのかと思った。
そして、一室の前に立たされた。騎士が何かを室内に言い、扉が開かれた。ここから先は一人で行けということなのだろうか。男は首を捻った。
恐る恐る足を進めると、立派な机の前に一人の天使が立っていた。鳶色の瞳に栗色の柔らかい髪の毛の少年だった。天使は男の前にゆっくりと歩いてきてみすぼらしい服にぎゅっと抱き着き、何か言った。
何か話しているが分からない。これほど音が聞こえないことを残念に思ったことはなかった。
その後、男は少年の手配した王宮の高名な医者の治療により少しだけ聴力を取り戻した。
少し聞こえるようになった男のよく聞こえるほうの耳に少年は両手を押し当て、背伸びして大きな声で言った。
「いつも、心配してくれてありがとう。おじさんのこと、心配してたんだよ!」
その声を聴いた男は泣き崩れ、少年―ネスレディア王国の少年王が小さな体でぎゅっと抱きしめた。
***
それから年月が過ぎ、男は老いた。老いたが、適切な処置を受けた耳は完全には聞こえないものの聞こえるままだ。しゃべる際も自分の声が聞こえるからだいぶ鮮明に話せるようになった。ただ、音が小さいから自然と大声で話すようになってしまった。
彼の天使は仕事をくれた。この素晴らしい王宮に花を植えたり、芝生を整えたりする仕事だ。男は一生かけてこの仕事を全うしようと思っていた。
そして彼は今日も叫ぶのだ。彼の天使の為の庭を荒らす不届き者の魔獣と、その友に。
こうして、大魔法使いも第二騎士団団長さえも何も言えなくさせる、王様ラブ! な庭師が出来上がったのでした。
次話、本編に戻ります。美雨のお願いしたもの。




