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佐渡ヶ島から始まる戦国乱世  作者: たらい舟
「佐渡守」

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第八十五話 ~羽州侵攻~

<天文七年(1538年)三月 出羽国(でわのくに) 田川(たがわ)郡 水沢平(みずさわだいら)



「見えましたぞ!」


弓隊長捧正義(ささげまさよし)が声を上げた。斥候の報告通りだ。山道を抜けた平野に着いた途端、大宝寺(だいほうじ)軍が待ち構えていた。野戦か。望むところだ。


三月に入り、俺は佐渡軍八百名と揚北(あがきた)衆五百名を率いて出羽国南部に侵攻を開始した。

海岸沿いの細い道を行軍し続け、途中にいくつかあった小さな村は、反抗しなければ恭順(きょうじゅん)させて乱取りせず通過した。だが、少しでも抵抗した村や小城には非情なまでに壊滅的な打撃を加えた。今後の攻め易さに繋がるため、やるからには灰になるくらいに徹底的にやった。口コミの広がりは早く、おかげですんなりと庄内平野入口、水沢平に到着したというところだった。



大宝寺氏当主従五位下(じゅごいげ)大宝寺左京大夫(さきょうのだいぶ)晴時(はるとき)は、俺が呼んだ新年の挨拶に来なかった。そして、先月の「服従しなかったら攻め込みますよ」という手紙も無視した。それどころか陸奥国の巨人伊達稙宗(だてたねむね)に報告されて面倒なことになっている。侵攻に手間取れば「羽茂本間を迎え討て!」と伊達家を中心として反羽茂本間勢力が結成されかねん。早めに叩くに限る。


大宝寺氏を攻めるのには3つの理由がある。

一つ目は、我が羽茂本間家に敵対的であること。

三百年前から庄内平野を治めてきた自負があるようで、ぽっと出の羽茂本間が気に入らないらしい。さらに俺を「官職を金で買った」と非難している。自分だって従五位下と左京大夫(さきょうのだいぶ)を金で買って大事に抱えているくせに。歴史が長いから強いという理論は通用しない。遠慮なく潰させてもらう。


二つ目は、石高を増やすためだ。

この時代は一万石で大体300人を動かせる計算と聞く。石高はそのまま財政力であるし人口との相関関係も大きい。


俺が治める前までの佐渡の総石高は、僅かに一万三千石ほど。石高は米の年貢が主な収入だが、商売や津料(港の使用料)なんかも含まれている。現時点の佐渡ヶ島の石高は海産物やら特産品やらで五万石くらいに跳ね上がっている。だが、まだまだ足らない。


ちなみに、為景の治める越後国中南部は、合わせて三十万石ほどもある。直江津の辺りで米が穫れるのもあるが、青苧の収入で八千石、海産物で一千六百石、津料で五千石等。そら豊かで軍事もできるし朝廷や将軍家に献金もできるわな。


今の羽茂本間なら、佐渡ヶ島で五万石、もらった蒲原郡西部は二万石ちょいで合わせて七万石くらいか? 大宝寺の治める出羽国田川郡付近は十万石ほどある。庄内平野の米を手中に修めることができれば大きいに決まっている。


三つ目は、地政学的な理由だ。

北日本海制覇を目指す俺にとって、酒田津(酒田港)を押さえることは利益以上に意味がある。佐渡や空海屋を通して直江津を押さえていたとしても、酒田津を使って素通りされては魅力半減だ。酒田ー小木ー直江津のトライアングルを押さえれば、どこを通っても俺に利益が転がり込んでくる。さらに流通効率の上昇、情報や地域特性の把握という面においても大きい。ドミナント戦略に近いな。

また、防衛上の観点から見ても、佐渡に近いこの地を押さえておくことは重要だ。


「かなりおりますな。『()目結(めゆい)』の武藤(むとう)(大宝寺)軍が一千以上。『足利(あしかが)(ふた)(ひき)』の最上(もがみ)軍が五百ほどですかな」

軍略方筆頭の山本勘助が戦力分析する。なるほど、一千五百人以上か。


砂越(さごし)軍と出羽清水(でわしみず)軍、寒河江(さがえ)軍は、予定通り参加しておらぬな?」

「ですな」


出羽国国人衆の砂越氏と出羽清水氏は大宝寺氏と、寒河江氏は最上氏と仲が悪い。

砂越氏が 天文元年(1532年)に大宝寺氏の本城大宝寺城を焼いたり、大永元年(1521年)に寒河江氏と最上氏が一か月以上対峙したりとか。兎に角いざこざが絶えない地域だ。今回の侵攻は、大宝寺氏と最上氏(伊達家の傀儡(かいらい)であるが)に攻められた砂越氏、出羽清水氏、寒河江氏を救う、という建前も存在する。今の所は領地の城に立てこもっているが、城攻めのときは参加してもらうことになっている。


「いかがしますか?」

「攻める。それ以外ない。軍議を開くぞ」

知れたことだ。



_______________



<天文七年(1538年)三月 出羽国 田川郡 水沢平 羽茂本間揚北連合軍 本陣>



「兵数では若干、相手方が多そうです」

「一筋縄ではいかぬやもしれませぬな」

揚北衆の新発田綱貞(しばたつなさだ)本庄房長(ほんじょうふさなが)は難しがっている。普通に考えたらそうなのだろうな。相手の膝元だし、兵数も相手の方が多い。


「問題ない。兵の精強さに加えて軍備でも我が軍が圧倒的に有利だ。粉砕するぞ」

「!?」

「誠ですか!?」


揚北衆の面々は驚きの表情で俺を見た。そんなに不思議か?


「御意!」

軍略方山本勘助、弓隊長捧正義、槍隊長白山弥彦、鉄砲隊長水越宗勝は平然と頷いている。


「相手が二町ほどまで近づいたら、フランキ砲二十門を曲射(きょくしゃ)斉射! その後、()()()()()を込めたマスケット銃の二段撃ち! その後は突撃じゃ!」

「ははっ!」


デミ・カルバリン砲を山道を長く運ぶのは重くて辛い。だが、先日仕入れたフランキ砲ならば二人一組で運ぶのにそれほど苦はない。二十門の斉射であれば、デミカルバリン砲四門ほどの火力は出るだろう。

マスケット銃から出た弾は、とにかく曲がる。ライフリングされていない長く強力な銃は扱いにくい。それを半分解決したのが、俺がバドミントンのシャトルをイメージして考え、勘助が開発した、鉛の弾丸の先を重くして弾の横に斜め溝を掘った「スラッグ弾」だ。先を重くした分安定し、溝によるジャイロ効果で直進性は格段に向上した。問題点は、重くした分飛距離は短くなり、さらに手作業での溝掘りのためかなりのコストがかかっていること。更に、銃身内部をガリガリ削るため銃の寿命が半分以下になったであろうこと。だが、当たらない銃なぞ鳴らぬ鈴ほどに意味を為さない。しばらくはこれで運用だ。


「理解を越えておるのですが、『雷』が三回鳴ったあとは突撃、でよろしいですかな?」

勇将加地春綱は手勢百名を引きつれて参戦している。理解が早くて助かる。


「大体、そんな感じだ。揚北衆の方々は、右翼をお頼み申す。大砲隊を率いた本陣は中央、鉄砲隊は最右翼、最左翼からの十字射撃、弥彦、正義は左翼から攻めかかれ!」

「御意!」

「はっ!!」


鉄砲は、正面からだけでなくクロスファイアすることでより標的に与える損害が増す。この辺はゲームの知識だが、思いのほかいける気がしている。


「殿! 某に先陣をお任せください!」

そう言ったのは、本庄秀綱(ひでつな)だった。戦功をあげて領地をもらいたいのだろうな。


「そうだな。左翼槍隊五十を任せる。弥彦と歩調を合わせて前に出て、大宝寺兵を蹴散らせっ!」

「有難き幸せっ!!」

「功を焦るなよ。命を落としては元も子もない」

「はっ!」

大砲、鉄砲を撃ちこんで、後は力攻め。実に()な作戦だ。

まあよかろう。白兵戦闘経験を積ませるにはいい機会だ。火器で何とかできなくもないが、何でも鉄砲頼みでは雨の日や夜戦、急な遭遇戦など、いざという時の踏ん張りが利かぬ。



__________________________



<天文七年(1538年)三月 出羽国 田川郡 水沢平>




戦の前には口合戦だ。

俺は最近乗れるようになった小馬に長尾為景から譲られた「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」を装着させ、弥太郎と勘助と共に相手方大将従五位下(じゅごいげ)大宝寺左京大夫(さきょうのだいぶ)晴時と対峙した。



「羽茂本間照詮! 我が出羽国を狙う不届き者め! 我ら大宝寺の刀の錆にしてくれる!」

「ははっ! 大宝寺晴時! 戦下手の権威の塊めっ! 領民のみならず砂越、寒河江など近隣を脅かす不届き者はお主の方だ! 俺がこの地を安寧に導くわっ!」

「何をほざくか僻地(へきち)佐渡の小僧が! 派手な赤い鞍覆なぞ着けおって! 目にものみせてくれるわっ!」

「佐渡を(けな)すお主に、左京大夫の肩書なぞ勿体ないわ! 俺と初めて口合戦したという名誉のみを、冥途で誇るがいい!」

「くっ!」


大宝寺晴時。遠くてはっきりとは見えぬがそれほど年は取ってはいないようだ。三十路くらいか? 

しみったれた顔をして本陣に戻っていった。初の口合戦だったが、思いのほかちゃんとできたかな。


「お見事でしたぞ! 佐渡守様!」

「うむ。ではいくか!」

「西方見聞録」は後にしました(*´Д`*)


出羽国大宝寺との戦闘開始です。

「大宝寺」氏は元々「武藤」氏だったのですが、大泉庄(現在の山形県鶴岡市を中心とした一帯)の中心地が「大宝」寺であり、ここに本拠を構えて勢力を拡大したため「大宝寺」を名乗ったとされています。


石高は詳しい資料がないため、慶長三年(1598年)の太閤検地の石高の八割を1538年の石高とさせていただいております。「古代~明治初期の日本の実質GDP・産業構造の変遷の推定」から、全国の西暦1450年頃の石高が1400万石、1600年頃の石高が2500万石と増えているため、その中間ほどの年であるからという感じです。太閤検地で佐渡が一万七千石くらいなので、8割として一万三千石、といった感じです。より詳しい資料が手に入れば変更するかもです。


一万石で300人動員できるというのは『日本戦史 関原役』(1911年)での通説のようです。司馬遼太郎先生は小説の作中で「四十万石で一万人動員」ということを書かれているそうなので、これだと一万石で250人換算です。やはり、これくらいだったのでしょう。


領内での動員数なら500人ほどまで増えるかもしれませんし、領外への動員数なら領内の守備も必要だし糧秣もかかるので100人ほどだったのかもしれません。


戦力を付ける=力を付けるためには、石高の多い、経済価値の高い所を所有することは大切だったのでしょうね。

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