第八十話 ~泥地新潟~
<天文七年(1538年)1月 越後国 蒲原郡 新潟城>
見渡す限りの湿地。
葦が生茂り、幅広い信濃川と阿賀野川が合流して日本海へと滔々と流れている。NEXT21や万代橋があるとは当然思っていなかったが、まるで釧路湿原だ。新潟じゃなかったのか?
どこかの偉い学者さんが「上杉謙信が直江津ではなくて新潟を中心にしなかったのは失政」とか言ってた気がしたが、無理に決まってんだろ。あっちは五万人都市、ここは果てしなく続く沼地湿地だぞ。
新潟三ケ津と呼ばれた三港、新潟津、蒲原津、沼垂津が合わさった場所。その港を管理するために信濃川西岸の小高い丘に建てられた城。それを山本勘助が二か月間改修して、堅牢な城とした場所。それが新潟城だ。敷地内には白山神社がある。なるほど、この辺りだったのか。
「ここ五年間の蒲原郡西部の米の収穫量になります」
「・・・ひどいな」
吉江宗信からもらった資料に目を通した。宗信は、蒲原郡西部弥彦庄吉江の国人吉江景宗の子で、新潟城の代官をやっている。
3年に一度くらいしか、まともに収穫できていない。泥沼に腰や肩まで水に浸かり、泳ぐようにしながら稲を植える。しかし、大半が信濃川の氾濫による大洪水で流されている。
「二里(8km)進んで三尺(1m)下がるという、極端な平地故。この地は厳しゅう御座います」
「水を何とかせねばならんか・・・ 関屋分水路とか大河津分水路は、そのためにあったんだな・・・」
「はっ?」
「いや、独り言だ」
前世で一時期は毎日のように見た関屋分水路。あれくらいの大工事をする必要があるのか。国家規模の大工事を数年、数十年かける必要がある。そして、それをしたとしてもこの地が落ち着いていなければ意味がない。米が安定して獲れるようになれば、周囲が放ってはおかぬ。
「『稲の多年草化』、くらいかな、手だてとしては。年貢は五公五民、普請役(土木作業の労働)、陣夫役(兵役)も普通に命じる」
「はっ」
これくらい厳しい土地は、他国へ攻め込み乱取りして別収入を稼がねばならん。大公共事業をするには地盤が整わないとできない。佐渡と同様には治められん。「稲の多年草化」は聞いたくらいだが、水が豊富なら、もしかすると・・・
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<天文七年(1538年)1月 越後国 蒲原郡 新潟城 評定の間>
「新年、明けましておめでとう御座います」
「「おめでとう御座います!」」
新年が明けて十日ほど経った頃、揚北衆の色部勝長を中心として、新発田綱定、黒川清実、竹俣昌綱、加地春綱、本庄房長らが新年の挨拶に来ていた。
「新年の挨拶、真に目出度い。お会いできて嬉しく思うぞ」
俺は晴れ着を着て、揚北衆の面々との初の面談を晴れやかな笑顔で迎えた。
後ろもくっつけると長くなりそうなので(*´ω`)切りました。
新潟の歴史については、「水土の礎 [ I s h i z u e ]」様のHP「200年に渡る大地の改良」を参照しました。
https://suido-ishizue.jp/kokuei/hokuriku/nigata/shinkawa/0401.html




