第二百四十九話 ~朝~
<天文十七年(1548年)十二月 佐渡国 羽茂郡 羽茂城 城主館内>
綾の出産は、極めて難産になっていた。
昨日破水した時には「ようやくですわ」と心を弾ませ、予定通り出産の準備をしてある産小屋へと向かった綾。にこやかで嬉しそうな綾の顔に俺も顔を綻ばせた。産小屋にはノンノの時と同様に妙恵おばさんや医術の達人赤燕婆さんもいる。布や湯もたくさんある。人も設備も万全だ。
だが。
陣痛が始まってから様相は変わった。
初めは四半刻程だった陣痛の間隔が、次第に短く。
初めは軽く圧し掛かるようだった痛みが、次第に骨盤が割れるくらいの激しい痛みに。
「あああ、痛い! 痛いッ!!」
「綾ッ!」
俺は綾の手をきつくずっと握っている。綾も俺の手を握り返している。
痛みを分かち合いたい。だが綾の痛みは一向に収まる気配がない。
「あぐ…… 痛い!! あ゛あ゛ぁああああッ!!!」
「綾!!!」
天女のように嫋やかな綾の顔が苦痛に歪む。もう数刻もこの状態だ。
「赤燕ッ! まだ生まれないのか!?」
「…… 長年赤子を取り上げているけど、こんなに激しいのは初めてさね……」
医術達人赤燕婆にもこれ程の状況は初めてのようだ。
痛みの激しさに絹のように長く艶やかな綾の髪は汗と脂で縮れ乱れた。
苦痛を逃がそうと固く握った俺達の手から血が滲む。だがこの苦しみは終わる気配がない。
「あ、ああ゛あ゛あッ!!! あ、あ、あ…… 」
ついに綾の顔色が血の気が引くように白く変わってきた。大きな痛みに耐えかねて綾は小刻みに震えてきた。握り返す手の強さが弱まってきた……
がくがくと震える綾が、俺の目を見てゆっくりと声を絞り出した。
「あぐっ……、と、殿…… しょ、照詮さ ま……」
「綾! 何だ?! ここにいるぞ!!」
「あ、綾は、もう…… 駄目、かも、しれませぬ……」
「!?」
何てことを言うんだ。
消え入りそうな綾の言葉。綾の切れ長の瞳は涙で潤み長く美しい睫毛は大粒の涙で濡れている。俺は完全に取り乱していた。
「何を言うか! まだ行っていない場所が山ほどある! 楽しみや幸せは、これから始まるんだぞ?! 綾は俺と添い遂げるんだッ!! 」
「も、申し訳ありま せぬ …… 」
「綾?! 駄目だッッ!!」
痛みに震える綾は消え入りそうな声で俺に言葉を伝えた。
「…… 『世』に」
「?!」
綾は震えている。
「お、『同じ世』に、いられなく、なったら…… 」
「綾?」
「ごめ、んな…… 」
「…… 綾?」
「さ、い……」
「…… 綾? 綾ッ!?
…… …… ぁ、綾ああぁあああーーーッ!!!」
……
……
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それからのことはあまり覚えていない。
騒ぐ俺は小屋から押し出されて。環塵叔父とか剣聖様とかに体を抑えられて。
泣き叫ぶ俺を皆が止めていた気がする。
…… 秘術を使うとかで小屋の戸は堅く閉められた。
俺は城の暗く遠い部屋で待つように言われた。
昼なのか夜なのか分からない。
俺ができることはただ待つことだけだった。
ふと手元を見ると、綾の手記帳があった。
開くと、普段のことや俺との思い出がたくさん書かれてきた。
絵のこと。大野亀の飛島萱草のこと。琴浦の竜王洞、青の洞窟のこと。一緒にお参りにいった菅原神社のこと……
これからのこともたくさん書かれていた。
綾。無事でいてくれ。
誰か綾を救ってくれ。その為だったら何でもする。
綾……
あや……
……
……
…… …… ……
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光?
部屋の隙間から光が差し込んでいる。
朝、か。
「殿……」
気が付くと重臣達が俺を迎えにきてくれていた。
「……」
俺は押し黙り僅かに首を垂れて部屋を出た。
小屋へと向かうようだ。
一歩が重い。長い。
まだ何も聞いていない。胸が締め付けられる。
「こちらへ……」
辻藤左衛門信俊が俺を招き入れる。朝日が眩しい。
小屋へと入る戸が開けられる……
……
そこには皆がいた。
妙恵おばさん、赤燕、環塵叔父、環塵叔父の娘の杏 ……
?!
杏のそばに、白い綿布に包まれたものが見えた。
赤くて、目をつぶって、歯も生えていなくて。眠っているのか口を開けながらむにゃむにゃと動かしている。
無事に生まれてくれたか。
そして……
「殿……?」
「…… 綾……」
朱鷺布団の中で、綾が声を出した。
顔は蒼白だ。でも、生きていてくれた。俺はただ、ただ無性にうれしかった。綾が生きていてくれることに。今すぐに抱きつきたい衝動に駆られた。が、俺は必死にそれを堪えた。
「…… 照詮坊や。そっとしておいておくれ。一命は取り留めたけど、油断はできないさね」
「冬の間はずっと安静に」
「ああ。 …… ありがとう。本当にありがとう。赤燕婆、妙恵おばさん、みんな……」
俺は一人ひとりと硬く手を握った。九つになる従妹の杏は事情をよく分かっていないようだったが、俺と握手できるのが嬉しいのかぶんぶんと手を握り返した。
綾に微笑みを返したあと、俺は小屋の前で皆に詫びた。
「皆、済まなかった。我を忘れて取り乱してしまった」
「何の何の。おんしにも人の心があると知って安心したっちゃ」
俺の謝罪に環塵叔父はいつも通り返してくれた。
確かに、こんなときに冷静沈着に動けていたらそれはそれで怖い、か。
「生命の生まれる大変さ、過酷さ、ありがたさ。 …… 今日ほど身に染みたことはない」
「大切にして行きましょうぞ。綾姫、そしてご子息を」
「!」
直江津から綾姫出産の報を受けて佐渡へ来ていた元長尾家家臣中条藤資が教えてくれた。かつては「長尾為景の懐刀」と呼ばれていた恰幅の良い男。今は息子景資に家督を譲り故郷沼垂郡で領地を治めている。
「御子息…… 男児か」
「はっ! 為景様もお喜びかと存じます!」
「そうか…… 義父為景殿に、この子を見せてあげたかったな」
「ははっ! ご心配は要りませぬ! きっと、天から見ておられると思いまするぞ! それに、綾様を護られたのも、為景様やもしれませぬな! ぬはっはっは」
太鼓腹を揺らしながら中条藤資は愉快そうに笑った。
俺も釣られて頬を緩めた。
長尾為景。
その名を聞くのは久しぶりだ。
戦国の世を肩で風切るような方だった。俺が戦国の世で生きていく為に時に壁となり、時に追い風となる方だった。敬愛していたと言っても過言ではない。
為景殿……
「…… 照『景』、かな」
俺は何となく呟いた。『景』の字は長尾家嫡流の文字だ。
当主は一字置いて「景」。だから、為「景」で、その父が能「景」。その父が重「景」だったか。
それ以外は「景」の後に一文字。何でも兄弟に差をつける意味があったとか? だから佐越の戦いで腹を斬った嫡男が長尾晴「景」で、その弟とかが「景」房とか「景」康だった。そういや前世の謙信は「景」虎だったな。
「何と! 『景』の一文字を付けるとなれば……?!」
「いや、思いつきだ」
元服してからそれは名付けよう。気が変わるかもしれんしな。
「この子は苦難の後の『朝』に生まれた。そして、朝日と共に希望と喜びを与えてくれた。故に幼名は『朝太郎』と名付ける」
「うん、良い名じゃ」
環塵叔父も納得してくれた。綾もきっと気に入ってくれるだろう。
「さて、朝太郎。共に戦国の世を善くしていくぞ!」
「ふ、ふ、ふにゃあ」
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<天文十七年(1548年)十二月 下野国 河内郡 宇都宮城 屋敷>
そこにあったのは、絶望の朝だった。
「…… ふぅ、陸奥守殿。馳走になり申した」
「気位の高い女子でしたが、そこがまた良き良きにて」
褌を締め直す二人の武者。その奥には襤褸切れのように狼藉された娘が一人。
「ははっ! それは重畳! また味わいに来い! はははっ!!」
下卑た笑いを放つ男。かつて「陸奥守」と呼ばれた男。
それは、かつて奥州に『洞』と呼ばれる血縁の鎖を繋ぎ、『奥州の巨人』と呼ばれた男伊達稙宗だった。今は客将として宇都宮城の一角に屋敷を構えて、来たるべき佐渡軍との戦に向けて鋭気を養っていた。
「佇まいといい気品といい、どこかの姫だったのでは?」
「おう! 聞けば、先に死んだ越後の長尾為景の娘だったそうだ」
「! 何と!」
娘の名は莉奈と言った。
かつて越後国守護代長尾為景の末娘として、羽茂本間照詮への輿入れを考えられていた姫だった。だが、姉の綾姫が嫁いだため、親戚筋の上田長尾政景に嫁いだのだった。
二人の仲は政略婚とは思えない程によく、仲睦まじく暮らしていた。
しかし、風向きは変わってしまった。
上田長尾政景はその後、「佐越の戦い」において父長尾房長と共に顎鬚上条定憲の甘言に乗ってしまい、佐渡軍と反目。大敗の後、居城坂戸城を含めた本拠地魚沼郡上田庄の地を追われ、辛うじて下野国へと流れ着いたのだった。
「こやつの夫の長尾政景とかいう若僧が、こともあろうか宇都宮家の筆頭家老壬生綱房殿に楯突きおってな。その罪を償うが為にこの娘が一年間、儂の元で『奉公』することになった、という訳じゃ。はははっ!!」
「はは! そういうことでしたかっ! はははっ」
「…… ッ! 笑いごとではないっ!!」
莉奈は悔し涙を流しながらも鋭く声を発した。
「…… 何ィ?」
「一年の約定! 必ず守れっ! それに政景様の身と、我が子卯松の無事は保たれておるのだろうなっ!?」
「…… おうおう、騒ぎよるわい」
伊達稙宗はぺろりと舌なめずりをした。
莉奈と上田長尾政景の間には男児が生まれていた。卯松と名を付けたが、政景の失脚後莉奈の元から引き離されていた。
「もちろん? 安全なところに大切にしておる…… ふふふっ」
「本当だろうなっ?!」
すると六十を過ぎた男とは思えぬ底無しの精力をもつ男はゆっくりと腰紐を緩めだした。
「儂とて『陸奥守』、約定は違えぬ……」
「そ、そうか!」
「だから、お主にはしっかりと『勤め』を果たしてもらわねばな…… ?」
「?! ヒ、ヒ、ヒィイイイイイイイイィィ!!」
……
外小屋の端に置き去りにされた小さな黒壺が、微かに動いた気がした。
綾姫の出産は、実体験を元に書かせていただきました。
「愛する人と同じ世にいる喜び」、「生命の生まれる大変さ、過酷さ、ありがたさ」を心から思っています。
本来、綾姫は上田長尾政景に嫁ぎ、卯松を生みました。卯松はそれから長尾顕景と名を改め、その後上杉謙信の後を継ぎ、豊臣秀吉の五大老の一人上杉景勝となりました。本物語では……
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