第二百三十四話 ~ノンノ~
<天文十六年(1547年)十月 佐渡国 加茂郡 加茂湖 領主館>
パシャッ
翡翠がまた湖面に飛び込んだ。一瞬の後、嘴に小さな魚を咥えて空へと飛び立った。翡翠が狙いを外したところを見たことがない。見事なものだ。
俺は秋空の下、佐渡中東部にある加茂湖でのんびりと寛いでいる。空に雲が流れる様子、赤く色付いた葉がゆっくりと湖面に落ちる様子、鳥たちの穏やかな日常の様子……
俺は膝枕をしてもらいながら、ここ数年感じたことのない穏やかな時間を過ごしていた。
そんな俺の頭をゆっくりと撫でる女性。俺の妻の一人、内浦アイヌの姫ノンノだ。
いく分か髪は伸びたが、切れ長の美しい奥二重の瞳とツンと高い鼻、細い顎に明褐色の綺麗な肌は変わっていない。ノンノは出会った時から美しかった。だが今は以前よりももっと、素敵な女性へと成長している。
「…… ノンノ」
「なあに? ニㇱパ?」
「こんなにのんびりしてて、いいのかな?」
俺がノンノにこれを尋ねるのは三回目だ。
ただでさえ忙しい毎日を送ってきた俺だ。やらなくてはいけないことは山ほど残っている。佐渡の領民への顔出し、内政書類の数々、南蛮交易への備え、新たな交易品の開発、農業へのテコ入れ、漁業の奨励、山本勘助の容態、援軍に出した斎藤朝信の……
それらを思い出していた俺の険しい眉間と目を、ノンノは細く筋張った手で優しく撫でて塞いだ。
ノンノが言う「ニㇱパ」とは「大事な人」のことだ。俺はノンノの手の、少しひんやりとした温度がとても心地よかった。
「ニㇱパ、がんばりすぎ。ゆっくりするのも、シゴト」
「だが、俺にしか出来ないことがあるんだ。他の者には…… モガッ」
今度は口も軽く塞がれてしまった。
「…… 『カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム』」
「えっ?」
「みんな、それぞれシゴトある。みんなヤクワリ、ある。ヤクワリあたえられてないヒト、イナイ」
ノンノが言ったアイヌ語の意味は殆ど分からない。だが、要は『皆に役割・仕事がある』ってことかな。任せる時は任せる、皆が大事、ってことか、な?。
「そうだな。皆、役割があるもんな。俺の今の役割は、休むこと、か」
「ソウ」
「ノンノも、加茂牧場を見事に広げてくれて、ありがとう。大きな役割だ」
「ウン」
目を塞がれている為にノンノの表情は分からない。だが、素っ気ないノンノ言葉の奥からは大きな喜びが感じられた。
実際、佐渡軍が全力で後押しした加茂湖畔で牛や山鯨、羊に山羊に鶏などを育てる『加茂牧場』は、大きく拡大されていた。
北端近くの貝喰川・長江川、南端の天王川から流れ入る水を使って、家畜に必要な大量の飲み水を確保。生茂る草と、湖のワカサギ・コイ・フナも大切な餌となっている。増えて飼いきれなくなった家畜は、両津湊から船で直江津や酒田湊などに運ばれ、徐々に畜産業が日ノ本全土へと広がりつつある。
アム(牙)とシキテ(爪)のヒョウの家族は、牛舎などで増える鼠などの害獣を食べているらしい。ノンノに育てられたアムやシキテくらい賢ければ、他の家畜を食べず害獣駆除にも一役買ってくれるんだな。
それにヒョウの家族は、湖畔の魚も食べているようだ。先ほども大きなコイを見事に捕え、皆で美味しそうに分け合っていた。家族っていいものだな。
「ノンノのおかげで、日ノ本がより豊かになる礎が築けている。本当に大きな仕事だ。うん、ノンノに褒美を出さないとな。何か、欲しいものはないか?」
「ウーン」
「そうだ。羽茂城にノンノの家を建てるよ。いつでも俺の傍に……」
「ノンノ、ここキニいってる。ノンノのイエ、ここ」
「…… そうか」
『都会暮らしはあまり好きではない』と、前からノンノは言っていた。倭人とアイヌの混血児のノンノは、ただでさえ倭人の好奇の目に晒されるのを嫌っている。動物達に囲まれながら、自然の中で目いっぱい働く、それが彼女の生き方に合っているのだろう。ノンノの一番好きなこの場所から彼女を離しては、鳥から翼を捥ぎ取るようなものかもしれん。
「分かった。無理強いはしない」
「…… ウン」
ノンノの返事を聞いた俺は少しの間の後、ムクリと数刻ぶりに起き上がった。
「じゃあ、何がいい?」
「ン…… ノンノあまりナニも…… アッ!」
ノンノは急に驚いたような声をあげると、何故か俯き恥じらいだした。どうした?
「ニㇱパ」
「うん」
「アノネ……」
「うん、何でも言ってくれ」
「…… ゴホウビ、ナンデモいい?」
「ああ、何でも」
するとノンノは、上目遣いと小さな声で俺にこう告げた。
「ノンノ、ニㇱパとの、 『アィアィ』が、ほしい、ナ……」
「…… 『アィアィ』……?」
「……」
俺の袖を軽く摘まんだノンノ。胸の結び紐を触りながら、斜め下を向きながら精一杯の声で呟くように俺に言った。
「…… アカチャン」
陽はもう薄暗くなりはじめ、ノンノと俺だけの世界がここにはあった。
俺は、ノンノが触っている胸の結び紐ごと、ノンノの手を強く握った。
「…… ああ」
夜の帳が、秋の空にゆっくりと少しずつ、少しずつ、星を呼び込んだ。
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<天文十六年(1547年)十月 佐渡国 加茂郡 加茂湖 領主館>
ば、ばかなっ!?
こ、こ、この俺が……っ?!
「ニㇱパ、ダラしないヨ。ホラ、オキテ」
急かされるように俺は朱鷺羽根布団から起こされた。
完敗だ。俺はノンノの底知れぬ力に精も根も根こそぎ吸い取られた。
「アサごはんタベテ。ゲンキゲンキ」
「……ウン」
励ますように俺を鼓舞するノンノ。肌が艶っ艶に潤っている。そして、昨晩あれだけしたと言うのにまるでケロっとしている。
「ノンノ、もうウシたちのシゴト、してきたヨ」
「そうか…… 酪農は朝早いもんな……」
前世の記憶では、酪農家は朝五時にはもう一仕事をしていたっけ。これを休みなく一年三百六十五日続ける。凄い仕事だ。
「アサごはんタベたら、ニㇱパのゴホウビ、もっと、ネ?」
「ウ、ウン……」
あ、あれ、まだ足りてないの……?
調子に乗って、すみませんでした……
「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」
アイヌ語で「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」という意味なんだそうです。「誰しもが役割を持って生まれてきている」「要らないものなどない」と捉えることができます。ここから、自然を大切にする、「カムイノミ」(神に祈る。必要なものだけもらう。)の精神を学ぶことができます。
アイヌの女性には「ヌマッ(胸紐)という、夫のほかには手をふれさせない特別なものがあった」そうです。(「北の生活文化(アイヌの人々の家族構成」(北海道文化局文化振興課より抜粋) )。ノンノが胸紐を触っていたのは、主人公にそれを触って欲しかったからかもしれません。
佐渡の加茂湖は今は汽水湖(海水と淡水が混じった湖)ですが、これは明治三十年(一八九七)の豪雨時の洪水被害を契機に、海と繋げられた為なんだそうです。汽水湖は淡水と海水は比重が違う為(海水の方が比重が大きい)に、下は海水、上は淡水となる湖が多いようですが、加茂湖の湖水はほぼ海水になっているようです。現在はカキの養殖が盛んで、年に2,000トン以上の水揚げがあることが有名ですね。




