第二百三十一話 ~綾姫~
<天文十六年(1547年)八月 佐渡国 羽茂郡 小木>
久しぶりに会った綾姫は、正に天女だった。
出会った時からその美しさは天女かと錯覚した程だったが、今はもう断言できる。
天女だ。
艶のある黒髪。長く美しい睫毛。白い肌に潤んだ瞳。しなやかにすらりと伸びた体つき。そして、近寄り難い程の気品。
そんな女性と、俺はその伴侶として共に歩いている。
俺は綾と共に再び小木迎賓館を訪れようとしていた。
「月の巡りが参りました。殿におかれましては綾姫様と佐渡領内の散策になど行かれてはいかがでしょうか」
とレンに言われてきた為だ。どうやらだいぶ励んだのだが、俺とレンには今回子は出来なかったようだ。
そもそも、健康な男女が妊娠しやすい時期に正常に性交しても妊娠確率は二割程度だったはず。子が欲しくても、そう簡単にはいかないものだ。こればかりは誰がいいとか悪いとかはない。天運だ。
綾は俺と二人きりになれることが殊の外嬉しかったようで、領国巡りに行くことを伝えたら日には、目に涙を一杯に浮かべていた。
今日、綾の切れ長の瞳の目尻は下がり、口角は上がり、表情は喜色満面といったところだ。この日が来るのを本当に待ち望んでくれていたようだ。
ふと見れば、綾が愛用している扇子にはどこかで見た御守りが三つも四つも連なっている。恋愛成就、妊娠祈願、夫婦円満などなどの御利益があると噂されているやつだ。どうやら旧長尾家の女中達から色々教わったようで、
「殿との御子、殿との御子、殿との御子……」
という心の声がたまに聞こえてくるのが、眉目秀麗な容姿と対極に意外に抜けていて、実に愛らしい。
「綾」
「何ですか? 殿?」
二つ年上の女性。俺が不在の時に佐渡を切り盛りしてくれた頼れる女性。謙信の姉。そして、俺が現世で初めて結婚した女性。だからこそ今回の旅では彼女を精一杯幸せにしたい。
「楽しもうな」
「……ッ はいっ!!」
俺は綾の手を優しく握った。綾も俺の手をしっかりと握り返した。
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<天文十六年(1547年)八月 佐渡国 羽茂郡 小木港 小木迎賓館>
「ウゴカナイデ!!!」
俺はまたM字ハゲのおっさんに怒られていた。
しかも全裸だ。褌一枚付けていない。
六年前から佐渡に逗留している画家でM字ハゲのおっさんことジョルジョは、正式には「ジョルジョ・ヴァザーリ」という名なんだそうだ。しかも、よくよく聞いたら、かの天才芸術家「ミケランジェロ」の弟子の一人だったと聞いたから驚きだ。
ジョルジョがミケランジェロの弟子と聞いて、俺が「ミケランジェロと言ったら、ダビデ像だよな」と聞いたのが間違いだった。懇々とその壮大さ、荘厳さ、美しさを半刻程も聞かされた。イタリア語混じりだから半分ほども理解できなかったし。
更にジョルジョは、
「シショーのstatua di Davideをコえるサクヒンをfareする!」
と髭を怒らせて意気込み始めた。そして俺は、あれよあれよという間に裸一貫にされたという訳だ。
和製イーゼル(キャンバスを載せる台)に向かい一心不乱にデッサンを続けるジョルジョ。その瞳は天才芸術家のそれだ。このデッサンを元に、佐渡の石材を使って俺の像が建てられることになるんだろうな。それはそれで嬉しいが……
「corpo tonico」
「cazzo bello e forte」
俺の身体のことをブツブツ言いながら描かれるのが正直少し気恥ずかしい。多分、下のことを言っていることも容易に想像できる。
…… 精密な絵が描ける力は、武器だ。
それは芸術に留まらない。硬貨の文様は価値を高める力になるし、精密で複製不可な印を作ることで『紙幣』を作れる可能性だってある。正確に言えば「金や銀と引き換えることのできることを佐渡軍が保証する紙」と言ったところだ。
同様に『郵便切手』の発行もあり得る。佐渡軍の武器は火砲だけではない。船を基盤とした圧倒的な運搬力、輸送力の方が遥かに大きいかもしれない。大航海時代、「物を運ぶ力」は時代を切り裂く力だ。佐渡軍が運ぶと言えば運ぶのだ。それを保証する切手には高値がついても買う者は後を絶つまい。あれ、「切手」は「切符手形」の略だったっけ……?
ただ黙って立っていて暇なので俺が思案している中、ふと綾の様子が気になった。
綾もジョルジュの弟子なので同様に俺を描いているのだが…… こちらは俺よりももっと恥ずかしがっている。色白く美しい顔が茹蛸のように耳まで真っ赤だ。
「えっ… えっ? こんなに……?!」
初めて見る男の下に興味と恥ずかしさで過重興奮状態になってしまっているようだ。
そんな綾と俺は、きっと今夜……
いやいや! 今は芸術作品を創造中なんだぞ。集中しろ! 集中……ッ!
……
「ウゴカナイデッ!!!!」
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<天文十六年(1547年)八月 佐渡国 羽茂郡 小木港 小木迎賓館 領主館>
俺は綾と二人きりで、迎賓館内にある領主だけに許された館にいた。
「殿…… 綾は、幸せです」
「綾と大野亀の飛島萱草を見たのは十年程も前になるか。…… だいぶ待たせてしまったな」
綾と見た可憐で鮮やかなオレンジ色の飛島萱草。忙しくて今年も見ることは叶わなかった。
俺の言葉に、綾はゆっくりと首を振った。
「いいえ。小木の皆様は、とてもいい表情をされていました。町には物が所狭しと並べられ、港には船が溢れておりました。皆様が安心して暮らされ、人の生を楽しんでおられます。これは、一朝一夕で為せる技ではありませぬ。殿が為されてきたことは、とても、とても大きなことにございます。なれば、この十年はとても大事で、必要な十年だったのです」
「…… だが、俺は。…… 長尾家を、圧し折ってしまった。綾の、為景殿の家を……」
俺は綾の顔を見る度に、長尾家との「佐越の戦い」を思い起こさずにはいられなかった。あの大戦で長尾家は日ノ本から姿を消した。恩ある人と、妻の実家を滅ぼしたことへの自戒の念が、今も俺を……
だが、そんな俺の口を、綾は細く長い指で押しとどめた。
「終わったことでございます。始まるのは、これからです」
「…… そうだな」
そう言うと俺は、下がった瞼を上げた。
「済まぬ。俺はもうこのことで謝らぬ! これから綾を大事にすることでその償いとする!」
「ええ、命尽きるまで、末永くよろしくお願いします。しっかりと償っていただきますよ」
あれ?
綾がにっこりと微笑んだ。
「長尾家に伝わる秘伝の房中術。見せて差し上げます。殿、御覚悟を」
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<天文十六年(1547年)八月 佐渡国 羽茂郡 小木港 迎賓館>
ああ、いい朝だ。
綾も昨日は喜んでくれたし。さあ、今日はどこの村へ行こうかな。
小比叡の塩田の様子を見に行くことも必要だ。赤泊の漁師町へも顔を出したい。西三川へも……
「お、おはようございます……」
「おお、綾! おはよう!」
「ひっ…… し、死んじゃう……」
「?」
綾は俺の顔を見るなり、小刻みに震えた。
おや? 初めてだったから、手加減はしたんだが。
ダビデ像はミケランジェロ・ブオナローティが制作した大理石の石像として余りにも有名です。
実物は517cmとかなり大きいのですが、実際、旧約聖書の「サムエル記」に記載されているダビデは羊飼いの少年で、巨人ゴリアテに向かって石を投げようとしている姿が象られているということです。ダビデが投げた石を額に受けたゴリアテは昏倒し、ダビデは倒れたゴリアテの首を、ゴリアテの剣で斬ったとされています。これは「小さい者が大きい者を倒す」というエピソードとして有名です。
また、ミケランジェロはこのダビデ像を作る際に「簡単だったよ。私は石に埋まっていたこの人物を掘り出しただけなんだ」と言ったとか。
「全て大理石の塊の中には予め像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見する事」「大理石の中には天使が見える、そして彼を自由にさせてあげるまで彫るのだ」。(Every block of stone has a statue inside it and it is the task of the sculptor to discover it. I saw the angel in the marble and carved until I set him free. )
JTB様のサイトから抜粋https://blog.looktour.net/11-3/
カッコイイ言葉ですね。
主人公がダビデ像のように彫刻になるなら、ジョルジョはどんな石材を使うのでしょうか。
ダビデ像のように大理石を選びたいところですが、大理石は佐渡では産出されないようです。周防国あたりで採取できるようですが、できれば佐渡産の石を使いたいところ。花崗岩(御影石)などは墓石として有名ですが、大理石が石材の硬度を示すモース硬度3の所花崗岩は6~7と硬く、大きな彫刻としては難しいかもしれません。御示唆頂けると嬉しいです(*´ω`)
日本における紙幣の始まりは、1600年頃に伊勢商人たちが始めた「山田羽書」というものだったそうです。額面の大きい金貨や銀貨の御釣りの代わりに渡した証書だったとか。これは公用のものではなく、社会全体で使えるものとはいえなかったようです。
(mana@bow様のページより抜粋)https://manabow.com/zatsugaku/column05/




