第二百二十七話 ~蘭奢待~
お待たせいたしました。
<天文十六年(1547年)三月 京 御所 御学問所 >
瀟々と春雨が降り出していた。
パチ パチ
俺は陰鬱な雨音を気にせず本榧作りの将棋盤に駒を並べていた。美しい木目と匂い立つような榧の香気。ただ楽しむだけであればこれ以上の物はないだろう。
その俺の眼前では、面長で切れ長の目をした男が悠然と俺が駒を並べるのを待っている。
「御無理を言って申し訳ありませんな、左代弁殿」
「……」
方仁親王。
帝の第一皇子にして皇位継承権一位。次代の帝に最も近く有力な男。前世では後に「正親町天皇」と呼ばれた男。レンを自分の側室に迎え入れようとしている殿上人だ。
「対局は、二度目でおじゃりますな。あれは確か五年程前でしたかな」
「…… 六年、ですな」
そう。俺は以前この親王と将棋の対局をしている。初めて京御所を訪れた際に、誰とも知らずに。まさか今日このような日が来るとは思ってもいなかった。
「この対局に、含むことはあらしゃいませぬ。最も我らを支えて下さっておられる左代弁殿との交友を深めたいと……」
「早く始めましょう」
一礼。
パチリ
七六歩。先手番の俺は迷わずにあの時と同じ戦型を作るつもりだ。石田流、いや、『佐渡流』三間飛車だ。
この親王には、心底うんざりさせられている。俺が朝廷の為と思い寄進した金子を、舟遊びや香木集めなど己が楽しむ為のことに湯水のように溶かしていったそうだ。公務を下級貴族に任せて自分は放蕩三昧。挙句の果てにはレンを見初めて横恋慕して強引に俺から奪い取ろうとした。それに対する謝罪もない。俺が今自制心を働かせているのは春に柿が実るくらいに奇跡的な事だ……
「…… 向日葵姫の事は、申し訳なかっでおじゃる。知らなかったのだ、左代弁殿の想い人だったとは」
「?!」
パチリ
三四歩。
意外にも親王殿下は俺への謝罪の意を示した。
俺は相手の三四歩からの手筋と同様に親王の意図をいくつも読んだ。従順、騙し、速攻、遅延、いくつもの策のうちの、これはどれだ……?
「誰にでも間違いはありましょう。ですが、よく先を読むことが上に立つ者の務めかと存じます」
パチ パチ
俺はブレずに七五歩、六六歩の後に飛車を七筋に回した。佐渡流三間飛車を貫く。不無との対局ではこの戦型を一番多く研究してきた。相手も同様であろう。ならば自分の得意なもので勝負するのが理想的だ。
「これは手厳しい。…… 確かに、非があれば謝罪が大事なのは麿もよく知っておる。よって、左代弁殿には、従四位上から従三位の参議を贈りしたいと上奏したでおじゃる」
「……」
従三位と言えば正四位下、正四位上の更に上。ここから先は上も下も付かない。公卿と呼ばれる階級だ。帝と無条件で対話ができる名誉ある官位で、『大変名誉なこと』と平伏するのが常人であろう。
だが、俺はとってそんな申し出は何の意味もない。
「『従三位参議』だけに御座いますか」
俺は淡々と駒組を続ける。
肩書の名誉なぞ、西南の海の広さに比べれば小枝一つほどの価値もない。今回のこの男の不始末はそんなもので済むことではありはしない。
「…… ほほほ、常人であれば泣いて喜ぶ官位であらしゃいますのに。左代弁殿は豪胆な御方であらしゃいますな。なれば……」
殿下の目が怪しく輝いた。
「蘭奢待を一欠、切り取って焚くことお許し差し上げましょう!」
「……」
『蘭奢待』
日ノ本において、蘭奢待を越える香木は無い。
権力・権威の象徴。天下人の憧れ。長さは五尺、重さは三貫ほどもあるという巨大な香木。聖武天皇ゆかりの東大寺正倉院に大切に保管されてきた、故に名の中に「東」「大」「寺」が隠されてきたという伝説の逸品。それは香りだけではなく「焚くことを許された」ということ自体が大変な名誉とされ、前世の信長は蘭奢待を焚くことで「天下を掌中に入れた」ことを流布したと言われる程の名木中の名木。
「蘭奢、待…… 」
「ほほほ、然しもの左代弁殿も『蘭奢待』と聞いて心が動きましたな。そう、その『蘭奢待』でおじゃる! 故に、此度の麿の左代弁殿についての全てについては水に流してはくれませぬか?」
「…… 七二金」
?!
俺でも親王の声でもない。どこからか声がした。
そして親王はその声に反応して指し手を変えた。この場にいる者と言えば……
ビクッ
若い僧が俺の目を見て震えた。こいつだ。
立会人と称して傍にいる妙満寺の日淵とか言う僧だ。こいつが親王に助言した。石田流崩しの棒金を示した。確かに良い手だ。だが、この勝負に横から口を挟んでいい筈がない。
「そこな僧」
「ヒッ、な、なんで御座いましょう?」
「お主、今、親王に指し手を教えたな?」
「…… 教えて、おりませぬ」
若い僧侶はシラを切ろうとした。
「聞こえたぞ。『七二金』と言った」
「…… 教えてはおりませぬ。『道を示し導びいた』だけに御座います……」
「…… 『導いた』?。それを『教えた』と言うんだ」
「まあまあ、左代弁殿。よいではあらしゃいませぬか。遊び戯れているだけにおじゃりますよ。『遊戯』にございますよ。小さな事に目くじらを立てるのは縁起の悪いことでおじゃります」
「怒るな」と、優男は言ってきた。『この僧からの助言を許せ』と俺に圧力をかけてきたのだ。蘭奢待を焚かせてやるから、高い身分をやるから、という餌をぶら下げて。とんでもない話だ。
俺はこの親王の一言から悟った。
この一局は「謝罪の為のもの」ではない。むしろ「仕組まれたもの」だと。
「そう言えば」
俺の目の前の殿上人は大きく溜めて扇子を優美に開いた。
「幕府を継いだ公方(足利義藤)殿が、上京まで兵を率いてきておる。『左大弁殿が兵を引かぬなら、都を守るが為に一戦交える覚悟』と仰られておいででおじゃる。兵の数は少ないが、公方殿の烏帽子役(後見人)は畿内に知らぬ者はおらぬ六角(定頼)殿。京の都を脅かすことになれば、大いなる禍根を残す事になるであろうのう」
足利氏を将軍とする室町幕府にもう力は残ってはいない。足利義藤と言えば、前世では「剣豪将軍」として名高い足利義輝だが、率いる兵も政治力も俺からすればまるで赤子も同然だ。
だが、六角定頼、か。
近江守護、畿内の裏の支配者と言って良い程の実力者だ。大きな力を持っている。無視するには手強い駒だ。
「左代弁殿も戦続きで疲れておるでおじゃろう? 京の都で戦を起こせば、誹りは逃れますまいて。戦は避けたいところでおじゃろう? そこで、麿ならば、御二方の調停役を務めることが可能でおじゃる! どうじゃろう、ここは麿に任せてはくれぬか?! 左大弁殿?」
…… 圧力だ。
頼んでいるように見えて、これは実質の「命令」だ。
身分、家格、血筋、政治力。あらゆる圧力で俺を意のままに操ろうとしているのだ。「媚びろ」「退け」「屈服しろ」と言っているのだ、この男は。
ほくそ笑む優男の表情から俺の脳裏に一抹の不安が過ぎった。
レンのことだ。
「話の途中で申し訳御座らぬ、殿下。先ほど、向日葵姫の一件について殿下から謝罪がありましたが、向日葵姫の今後については『某にお任せいただく』ということで宜しいですな?」
「おおう、そのことじゃが……」
親王は穏やかに笑った。
千年の重みを感じる、権力者特有の、有無を言わさぬ顔だった。
「既に宣旨が済んでおるのでな。済まぬのう。想い人と添い遂げることができぬことになり、左代弁殿には大変申し訳ない。この通りじゃ!」
パチリ
乾いた駒音が空間に響いた。
……今、何て言った?
想い人と添い遂げることができなくなった???
唖然とする俺の様子を一通り愉しんだ後、親王は俺を説き伏せるように畳み掛けてきた。
「左代弁殿から不運にも向日葵姫を奪うことになってしまったことは、先ほど麿が誠心誠意謝ったでおじゃろう? だから、後は決まったことでおじゃる。麿の臣下である左代弁殿には甘んじて受け入れてもらいたい。麿と手と手を取り合えば日ノ本はよりようなるでおじゃろうて」
「…… 某の正妻は向日葵姫と決めております。亡き義父長尾為景殿にも誓っております」
「長尾為景? ほほほ、子に討たれた『能無き者』と聞いておるぞえ? そんな口上は何の意味もないぞえ。これ、日淵、次の手を早う教えぬか」
「……はっ、八四金が宜しいかと」
パチリ
「あと十年もすれば麿が次の帝じゃ。万世一系の日ノ本の主じゃ。お主は麿の臣下として、一生を麿の為に尽くすがよいぞ。世が落ち着いた暁には、蘭奢待を一欠焚かせてやろう。大変名誉なことであるぞ? よいでおじゃるな?」
僧侶に指し手を聞き自信を持って手を打つ親王。微塵も揺らぐ様子を見せない。絶対的な権力、安全圏、生まれながらに自分は守られることが当然と学んできた男の振る舞いだ。
……
俺は、前世では従うしかなかった。
言えなかった。力に押しつぶされた。怖かった。考えることすらできなかった。
だが、今は違う。
足利義輝?
六角定頼?
一生を尽くせ?
レンを諦めろ?
為景殿が無能?
蘭奢待??!
俺は胸の奥底から続々と感情が湧いてくることを感じた。懐かしくも苛立たしい黒く粘り気が強く暗く濁り臭気と毒素を含んだ感情だ。
ふざけるな
俺の心の中で何かが弾けた。
「足りませぬな」
「なっ!? 蘭奢待で足りぬと申すか?」
俺はもう笑っていた。
自らの心の濁りを少しでも和らげる為に笑わざるを得なくなったからに違いない。
「蘭奢待、一欠片どころか! 一本丸ごと頂いたとしても某を動かすことはできませぬな!!」
バシッ!
強気の攻め。角道を開け相手に角交換を強いる。備えてあった銀で捌き相手の無防備な陣を狙う。
「くっ? 勢いだけで麿に刃向かうかっ!?」
「刃向かってなぞおりませぬ。殿下とは戦ってはおりませぬ。というより、殿下は戦いの舞台にも立っておりませぬ」
「何ッ?!」
「自らの非を認めず失態を正そうともせず盤上を他人に任せ自ら戦いもせず血筋を自らの力と勘違いなさっておられます。殿下ご本人の御力は何処にありましょうや?」
「何をっ! 麿に力が無いと申すかっ!? 見よ、この手を!」
「ああっ、殿下、その手はっ!!」
パシッ
男が自ら放った手。日淵が止めようとしたが間に合わなかった手。それは玉を前に動かし危険に晒す悪手中の悪手だった。
それを見て俺は冷酷に角を打つ。王手金取り。防ぐことのできない両取りの角打ち。微差だった盤上の勝敗は一気に決した。
「あっ、なななっ?! ぐぬぅ」
「さあ殿下、お指し為され。自らの御力で!」
「ま、ま、麿は! 麿は親王なるぞ!! 次代の日ノ本の王なるぞ!!」
男は金を逃がした。王を守らなかった。詰みである。
だが、諦めの悪い男は俺に向かって言い放った。
「左代弁如きが麿の王を取れるか? 取れるものなら取ってみるがいい!! 日ノ本全てを敵に回すことになるぞ! よいのかっ?!」
「ええ、一向に構いませぬ」
バシッ!!!
俺は何の躊躇いもなく角で王を取り除いた。
「対局、ありがとうございました」
一礼。
晴れやかな気持ちだ。迷いが消えた。清々しい。
扇子を強く握りしめ憤怒の表情を見せる男を無視して俺は俺の信頼を寄せる部下に命じた。
「謙信! 善久!」
「「ははっ」」
「聞いていたであろう?! 上京でお主らを待ちわびておる者達がおるそうじゃ!!」
「ははは! 腕が鳴ります!」
「命知らずもよかところじゃな!」
「斬り刻めッ! 燃やしても一向に構わん! 徹底的に幕府の残党共を狩ってこい!!」
「「承知ッ!!」」
珍しく激しい俺の命令を受けた上杉謙信、樺山善久の二人の将は、本降りとなった雨を気にせずに喜々として己の責を果たす場所へと向かっていった。
「さて、と」
俺は直垂の衿を正すと、仰向けに倒れている僧と悔しさで細かく震えている男に深々と礼をした。
「先を急ぎます故、失礼致します。帝へ献上する品々をお届けせねばならぬ故」
「み、帝?! おお、お、御上へ?! さ、左代弁殿……」
「何か?」
優男は自分のしでかしたことの重さがようやく分かったようだ。相手の力量を見誤り、自らの力を過信し、人の大切なものを傷つけた。俺の怒りの程度も少しだけ分かったと見える。父親である帝に今回の不始末のことを告げ口されては、とんでもないことになると気がついたようだ。
「お、御上には、この対局の話は、な、な、内密にしてもらえぬであらしゃいませぬか?」
「なるほど、なるほど。口封じ、という訳、ですな?」
「たたた、頼むっ! この通りじゃ! お、御上にだけは……!」
「ははは、これは異なことを」
俺は言い放つ。平然と、悠然と。
「この対局に含むことなぞありはしません。『ただの遊戯』、でしょう?」
「お、おう、そうじゃ。そうじゃった」
喜色満面、安堵した男。
覚えておけ、俺は記憶力はいいんだ。
それに、わざわざ俺が言うまでもない。
道は決まった。
春風に吹かれ漂ってきた高貴な香りを、俺は濁った臭気で掻き消した。
足利義満、足利義教、足利義政、織田信長など時の権力者に切り取られた「蘭奢待」。
その価値は貴重さ、歴史的な意味を含めて天文学的な数字となることでしょう。
石田流三間飛車対策には棒金を使って抑え込むことが有効とされています。それをわずか6年でそれを考案した日淵という僧は極めて有能と言えるでしょう。
ですが、近年はその棒金対策もかなり考えられているとか。本作では主人公がうまく捌いたということでしょうか。
長尾為景との約束については、「第七十一話 ~大器~」参照です。中条藤資の視点から書いていました。ちょこちょこと訂正をしていきたいと思っております。




