第二百二十二話 ~舎利寺の戦い(三)~暗鬼~
<天文十六年(1547年) 三月 摂津国 舎利寺郊外 佐渡軍 右翼前線>
ウワアアアアアアアッ!!
佐渡軍右翼は敵軍の騎馬隊の突撃を受けていた。怒号、絶叫、断末魔が響く。
だがその大半は敵軍の声だった。
安芸軍が誇る「虎穴陣」は少数の騎馬隊による突撃に崩れはしなかった。寧ろ攻撃を諸共せず、騎馬兵に掻盾を押し付け片鎌槍で地へと引き摺り下ろした。その中には巨漢の敵将細川左馬助もいた。
「う、うわあ! 俺は細川左馬之助だぞォ!! こ、高貴な生まれだぞ!」
「やき何だッ!? 死にやーっ!!」
一人の若武者が組打ちでその太い首を討ち取った!!
「敵将細川左馬助! 一圓隼人が討ち取っちゅうぞ!!!!」
「おおおっ!?」
「よし! よおやったぞ!」
佐渡軍右翼に歓喜の声が響き程なく勝鬨が轟いた。
エイ、エイ、オー! エイ、エイ、オー!!
「まっことよおやったぜよ! 隼人!! 流石は安芸国虎が家臣ぜよ!!」
佐渡軍右翼を任された安芸国虎は破顔一笑。敵将首を討ち取った一圓隼人を家老職の有沢重貞と共に大きく褒め称えた!
「佐渡の大将がおらのことを『論功行賞第一』になるとゆうちょったがが、強ち嘘やかもしれんなあ!!」
「ならば国虎様! まだまだ気を休めなさるな! 更に大きな獲物がかかるやもしれませぬぞ!!」
「ははっ! たしかにその通りやか! 楽しみやき!!!」
傷つく兵も少なく、敵軍の将を討ち取った。細川氏綱軍の士気は異様に低い。後続の敵も及び腰のように感じられる。
安芸軍が意気盛んとなるのは当然のことであった。
対して……
____________
<天文十六年(1547年) 三月 摂津国 舎利寺郊外 細川氏綱軍 左翼>
ギリリッ
細川吉兆家当主細川氏綱は、苦虫を潰したような表情で扇子の端を噛んでいた。
「しばらく様子を見るべき」という己の言葉を「弱腰」「臆病」と罵る副将ら。その一人である細川国慶の義弟細川左馬助は「あんな盾を使う臆病者なぞ!」と国虎軍を侮り、でっぷりとした身体を馬上で揺らしながら子飼いの兵らと出陣した。無抵抗な兵を蹂躙することに慣れていた左馬助は、いつものように敵軍を荒らしまくる腹積もりだった。
だが、左馬助の軍は大崩れとなった。
安芸国虎率いる軍の、樺山善久率いる荒武者部隊を沈黙せしめた実力は伊達ではなかった。背を越えるほどの大盾を凹型に並べた「虎穴陣」を展開し、細川左馬助の騎馬隊の突撃を悠然と防ぎ無力化。動かなくなった標的に向かい鋭く長い穂先を突き立てたのだ。
「だから儂は言ったのだ! 『様子を見るべきだ』と!!」
「…… 恐れながら、殿。それは結果を見たから言えることですぞ」
「左様に御座います! ここで佐渡軍を喰い止めることは肝要に御座りまする!」
腹心の遊佐河内守長教、畠山播磨守政国が氏綱の言葉を遮った。この二人は対羽茂本間の強硬派であり、何か強い力を得たように結託して氏綱を佐渡軍へと進めさせようとしていた。
「得体の知れぬ佐渡軍などを京に進めさすれば、民草の安寧が脅かされまするぞ!」
「帝や公達のご心情をお察しいたさねば。既に強く害することになっておるやもしれませぬ…… のう、国慶殿?!」
「全くだァ! 儂の義弟を討ち取った佐渡軍なぞ許してはおけぬぞォ! 殿! ご指示をォ!!」
「ぐ…… ぐぬっ……」
氏綱の陣幕は対佐渡軍への主戦派だらけである。抑々氏綱は、細川高国の残党に担がれて当主となったようなものであり人心掌握の術は十分とは言えなかったのだ。
本来の氏綱の『仇敵』は同じ氏族でありながら互いにいがみ合う者、すなわち『細川晴元』である。
晴元相手なら『全軍攻撃せよ』と下知を飛ばすのは造作もなかった。今回は仕方なく晴元と轡を並べたものの、晴元が近くにいるこの時に兵を減らすことは避けたかった。適当にのらりくらりと佐渡軍と戦っているふりでもしていれば十分だと思っていたのだ。真正面から戦うなど『|以《もっ》ての外』だった。
ドーンドーンと先ほどから轟音が佐渡軍の左翼から聞こえてくる。
(大きな音が鳴り止まぬ。細川晴元の軍は大きな打撃を受けているようだ)
ギリギリと扇子の角を齧っていた氏綱。
…… だが、あることに気が付いた。妙案である。
「おお、そうじゃ」
氏綱は扇子から口を離すと、名高き氏族の長らしく襟元を正しゆっくりと副将二人に声をかけた。
「ならば、河内守殿、播磨守。御二方の軍を佐渡軍へと向かわせては如何ですかな?!」
「あっ!? ん-、そ、それは……」
「…… 佐渡軍は怪し気な術を使う。由緒正しき我が畠山の軍を向けるのは些か時期尚早であろう……」
先ほどの大言壮語は何処へやら。遊佐長教、畠山政国の両名は口をもごもごさせた。先ほどから細川晴元軍の方で響き続ける雷の如き爆音は彼らの士気を削ぐのに十分な威力があった。実際には彼らの恐れる『大砲』や『鉄砲』は佐渡軍右翼にはないのだが。
「…… いや、刃を交える程でなくとも構いませぬ。術の届かぬ場所から遠巻きに弓で威嚇すればそれでよろしい。我らの目的は、『佐渡軍を京へ向かわせぬこと』でござろう?」
「む、な、なるほど」
「我らは敵軍の動きに合わせて退くこともありますぞ。それならばよろしいですが……?」
「よろしい。ではお願い致す」
色よい返答に氏綱は目を細めた。
佐渡軍を足止めする。兵の数を減らさない。両得の策である。
遊佐長教、畠山政国が主戦派なのには理由があった。とある位の高い公家から『何が何でも佐渡軍を京へ入れるな』という指示が届いていた為である。二人は渋る氏綱を動かしそれを忠実に遂行しようとしていたのだ。
だが、それは己の命を賭して守る程のものではない。
既に盟約は果たしていた。氏綱を動かし、佐渡軍を足止めしようとした。「本気で戦ったのか」と疑われても、後は野となれ山となれである。
二人は気長に戦支度をすると、兵らにゆるゆると佐渡軍右翼に近づくよう命じた。三町まで近づきバラバラと矢を放つ程度で、恐ろし気な爆音が響けば直ぐに軍を退く腹積もりであった。
副将らが姿を消した後。
気を良くした氏綱はぼろぼろの扇子を優美に開き、羽茂本間照詮から贈られた希少な伽羅木を近くに寄せその芳しい香りを楽しみながら呟いた。
「佐渡軍の主力は左翼のようだ。晴元の軍がいいように削られておる。…… 好々、いいぞ。『佐渡軍は我らにとって恵の雨のようなものじゃ……』」
その言葉を聞いた近習の一人は顔色を変えた。そして、そそくさとその場を離れた。
脱兎の如く駆け出したその男は、真っ直ぐに細川晴元の本陣へと向かった。
氏綱の幔幕には伽羅の甘く華やかな香気が漂っていた……
「舎利寺の戦い」は史実にあった戦です。「応仁の乱以降、畿内最大の戦」とも言われているようです。
本来は細川晴元が細川氏綱と戦い、三好長慶らの活躍により細川晴元軍が勝利。氏綱側についていた将軍足利晴元は六角定頼を仲立ちとして和睦を成立させ、三好長慶は遊佐長教の娘と政略結婚する、ざっくり言うとそういう戦のようです。
舎利寺の戦いで実力を発揮した三好長慶の影響力が増し続け、上司である細川晴元と対峙。後に「江口の戦い」と続く畿内の覇権争いへと発展していきます。
「以っての外」は「真っ平御免」としていたところですが、こちらは江戸時代くらいから意味が変わったようです。
現代では「絶対に嫌だ。やりたくない」という意味で使われているように思っているのですが。本来の意味は「本当に御免なさい」。「真っ平」が「ただひたすらに願うさま」「誠心誠意」という意味だったとか。
いつもお読みいただきありがとうございます。
ブックマーク、評価、いいね、ありがとうございます。




