第二百十七話 ~平野郷へ~
<天文十六年(1547年) 三月 摂津国 堺湊 >
船から糧秣、大砲の積み下ろし、行軍準備を終えて堺湊を出立したのは昼近くになる頃だった。周囲の好奇心と恐怖心の入り混じった視線を気に留めず、俺達の軍は平野勘兵衛利方の招き入れる平野郷へと歩みを進めた。
「殊更に焦る必要はない。隊列を揃えて進軍せよ」
「村民町民への不法行為には厳罰を科す!」
騎馬三百、歩兵三千、鉄砲三百、大砲五十、後方からは輜重隊、現地で雇い入れた小荷駄隊など合わせるとその数五千を越える。上杉謙信、宇佐美定満、不無らが副将らに命じて手際よく編成、出立させていく辺りは壮観だった。
加えて従三位一条右近衛中将兼阿波権守房基率いる土佐兵一千、島津日新斎率いる薩摩兵五百も共に駒を進める。
「中将殿(一条房基)、日新斎殿。いよいよ京へ出立で御座る」
「日も長くなり寒さも和らいできました。戦にはもってこいの日和ですな」
「細川氏綱の軍が待ち構えとうと聞き及んでおいもす。油断せんごとしもんそ」
俺達の京入りを阻むべく、細川氏綱の軍が摂津国まで出向いてきていると聞く。黙って通してもらえばいいのだがどうやらそんなつもりは更々ないらしい。堺湊を焼いた俺達が次は京を焼くと戦々恐々としているそうだ。
「立ち塞がるなら蹴散らすのみだ」
水軍五百はそのまま堺湊に残り南西区画の後片付けだ。「俺もいきたいぞ~」と島津尚久が愚痴をこぼしていたが後でいい女を紹介すると伝えて黙らせた。当てはないが。
平地で活躍する騎馬隊がやや足りないのは馬の運搬量の関係で致し方ない。どこかで馬が手に入れば良いのだが。
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<天文十六年(1547年) 三月 摂津国 住吉郡 平野郷 杭全神社>
目指す平野郷に着いたのは日暮れ前だった。
平野郷。茅渟の海(和泉灘のこと。大阪湾の古称)と京、大和国を結ぶ交通の要衝。環濠都市の一つだ。
周囲を高い土塁と一重、所によっては二重の堀で囲み外敵の侵略を阻んでいる。加えて四方にある「十三口」と呼ばれる数多くの門で侵入する人物を吟味する。一種の城塞都市のようなものだ。
古くは藤原氏の荘園だったと言うから、五百年程の歴史がある。前世で言えばざっと1000年か。壕は平野川とも繋がり、戦国時代の物流動脈と言える川を使い、川船で人とモノを運ぶ。井戸は低湿な土地柄にありがちで濁りが強く水質が悪いようだが、「黄金水」と呼ばれる井戸だけは澄んでいてよく使われているという。周囲が川でも飲めなければ意味がないもんな。
聞けば大和国の今井という場所にも同様の環濠都市が築かれているらしい。外敵の侵入を阻み、水利のいい場所に土塁を囲んで街とする。なるほど理に適った街づくりと言えるな。
「こちらで御座います」
「ほほう、これは素晴らしい」
平野利方とその手代洞玖羽という名の特に特徴の無い男に連れられてきたのは、杭全神社という場所だった。何でも七百年ほど前に時の征夷大将軍坂上田村麻呂の孫が鎮守社を創建したのが始まりとかいう歴史ある神社だと言う。
幹周りが大人十人程に太く幾つか枝分かれした隆々と聳え立つ大きな霊木~巨楠~が静かに俺達を迎え入れた。樹齢五百年というから大先輩だな。本陣となる建物はそのすぐ隣だった。
「逗留地としてこちらをお使いください」
「恩に着るぞ。水と糧秣も補給させて頂くとは有り難いな」
「御入用と考え、十二分のご用意をさせて頂いております」
「手際の良いことだ、気に入ったぞ。それ相応の対価は払わせて頂こう」
「いえ、御代は結構です」
「……?」
平然と答える年若の商人、平野勘兵衛利方。
六千を越える軍の糧秣の支援だ。生半可な量ではない。普通に考えれば大赤字もいいところだ。
「それでは割に合わぬではないか? 何が望みだ?」
「いえいえ。これでも貰いすぎに御座います。さすれば濠の外に軍馬三百頭、兵卒五百を出させていただきます故、是非にお使いください」
「!?」
「軍馬三百?!」
「おお! 軍馬が更にあれば我が『龍』の力が十二分に発揮できる!」
周囲の者が驚く中、戦闘狂の義弟上杉謙信は嬉しそうに肩を回した。
渡りに船だ。戦を控えている今、軍馬は今何よりほしかった。
だが、出来過ぎだ。無償ほど怖いものはない。
「……はは、参ったな。糧秣の他にも馬と兵も出してもらえるとは。しかも対価は要らぬと言う。…… 種を明かしてもらえぬか?」
「されば……」
長身細身の商人が礼をすると、奥から四人の者が歩み現れた。平野郷を治める自治衆を束ねる七家のうちの四家の代表だと言う。
「今回、佐渡の左代弁様をこちらにお招きしたのは平野郷の総意では御座いませぬ。ですが、私が説得させて頂き…… 四家を口説き落としました」
「ふむ、加えてお主の平野家じゃな?」
「いえ、平野家は割れております」
「ほお?」
平野家の長男隼人正利吉は静観を進言したそうだ。四家と利方を加えて俺への味方を決めた、か。
「佐渡軍の精強さについては存じ上げておりました。敵対するなど滅相もありませぬ」
「ではなぜ意見が割れたのだ?」
「一つは左代弁殿のお人柄を存じ上げぬことにあります。畿内人は人脈を大事に致します。余所者は環濠に入れることはできませぬ。招き入れた者が罪を犯せば、招いた者も連座させられます」
「なるほど」
「故に慎重を期すべき、静観すべきとの意見も数多くありました」
「それを変えたのは?」
「……決め手の一つは、この文に御座います」
利方は銀白の着物の袖から一通の文をスッと取り出した。佐渡の茶人からだと言う。
「宗易殿からの『左代弁殿の為人』を伝えていただき安心した為です。宗易殿は堺湊での私の兄弟子でした。茶の湯の何たるかを学ばせていただいた師の一人で御座います」
「宗易……?」
「殿。田中与四郎殿のことで御座います」
「ああ、与四郎か!」
不無に言われて思い出した。そうか、与四郎ね。なら納得だ。茶の湯仲間の一人だったか。
「もう一つは……」
「もう一つは?」
「佐渡軍の強さ、加えて堺の湊を焼く左代弁様の御姿に恐れを抱いたことに御座います」
「ほう」
堺の湊を焼いた成果があった、か。
「左代弁様の軍は京へ向かわれると聞き及びました。その途中には必ず我らが平野郷を通りましょう。左代弁殿の御心象を害することが万が一でもあれば郷ごと燃やされるやもしれませぬ。そう思った次第に御座います」
「ふむ」
「佐渡軍は負け知らずと聞きます。いずれ我らは左代弁殿の軍門に下りましょう。『ならば静観などせず一刻も早く臣従した方がいい』というのが私の判断に御座います」
「で、堺を平然と焼く俺を見て確信した、か」
「有体に言えばそういう訳です。私は『時代を読む』ことこそ商人にとって肝要と思うております。一時のうまい話に騙されれば身代は潰れます。家が潰れれば困る者が大勢出ます。『取り入る』と言えば聞こえは悪いですが、生きる上の所作と言えば尤もなことかと」
商人は機先を取ることが大事だ。武力に屈して後から与する者より、始めから進んで従う者の方が信用が置けると思ってもらえる、という訳か。
「大砲という稀有なものを使いこなすこと。兵卒一人ひとりに至るまでの精強ぶり。何より軍規を守る様子を見て確信いたしました。微力ながら我ら平野の力をどうかお使いくださいませ」
「なるほど。筋が通っているな」
理路整然と要旨を的確に伝える利方。確か秀吉と家康に取り入り巨万の富を得た商人だったと覚えている。予想通り、中々に切れ者だ。
近習の忠平、弥三郎などは感銘を受けている。
「何と忠義溢れる者でしょう」
「いい人もいるもんですね!」
元服間近の忠平、そして紫苑色の陣羽織を身に付けた鬼和子が嬉しそうに燥いだ。
そうだな、汚れ話は後にしようか。
神社横の池の畔では、梅の花が純真な美しさを際立たせていた。
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<天文十三年(1547年) 三月 山城国 京都御所>
「ふむぅ……」
一人の男が私室で、非常に重要な文を読んでいた。
何度か読み返し、物思いに耽るのみで何もできはしなかった。したくはなかった。しかし決断の時は近づいていた。
朱色の単衣に雪の様に白い最上質の狩衣。殿上人の地位を極めた従一位・関白・左大臣・内覧の一条房通その人だった。
「左府(左大臣)殿。如何いたしましょうか?」
「何もできはせぬ。静かに待つのみだ」
「…… ははっ」
房通の側近権中納言山科言継は静かに目を伏せた。
二人は、京を支配している細川氏綱の一族の一人、暴れ者の細川国慶が軍費の確保のために強引に京都の市中から地子銭を徴収しようとした際に「武をもってそれを制す」と突き付けて身を引かせた、公家の中では筋の通った者達だった。
「佐渡の左代弁殿は困窮する朝廷に多額の寄進を納め復興させてくれた立役者。できれば勝ってほしいと思うのは麿だけでしょうや?」
「我が愛する甥、土佐房基も同軍しておる。やりおるわ、かの者は」
「では……?」
「いや。肩入れはできぬ。いきり立った氏綱らが何をしでかすか分からぬ」
「…… 京が静かになれば、ですな」
二人が公家として生を受けてから、京が穏やかだったことは一日たりともなかった。応仁の乱以後京の都は荒れに荒れ、支配者が風車の如く入れ替わる目まぐるしさ。将軍である足利家は腰を落ち着けるどころか彼方此方へ出入りする有様。乱世の終わりが見えない地の最たるものが日ノ本の中心である京だった。
「会ってみとう御座いまする。佐渡の麒麟児を。その為人を我が手記に記したく存じます」
「…… 麒麟が『麒麟のまま』となるか、それとも『鬼』と化すか。麿の手にある『この文』が握っておろう……」
内覧(天皇に見せる文書を先に見る役職)として帝に取り次がねばならない文。これがまだ一条房通の手元にあった。
「可愛い甥(一条房基)からの文も手元に届いておる。だが身内の者の声だけを聴くことは公私混同である。左大臣としての麿の沽券にかかわる由々しきことじゃ。一早く受理し帝へ奉上致さねばなるまい。であるが……」
正式な手続きを踏んだはずの、密謀渦巻く文にはこうあった。
『右大臣三条公頼の娘向日葵姫を、方仁親王の典侍へ』
…… 運命の時は確実に、間近に迫っていた。
平野郷についてはたくさんの資料が残っていましたので参考にさせて頂きました。流石は歴史ある土地です。参考文献の一部、
「平野郷について」(白木小三郎他著)https://core.ac.uk/download/pdf/35275124.pdf
「田舎暮らしdeほっ!」様 http://inakade-ho.pya.jp/kisetu/tabi_kan/110623/000.html
奈良県橿原市の「今井環濠」も同様です。自治組織によって独立運営していたようです。中世ヨーロッパに出てくるような城塞都市が日本にも点在していたのですね。他にも幾つかあるかもしれません。
後半に登場する公家、山科言継は非常に有名な人物です。
理由の一つは『言継卿記』(ときつぐきょうき)と呼ばれる50年間にも及ぶ日記の編者であり、信憑性の高い当時の史料を残した人物であること。書には信長が上洛したり、比叡山を焼いたりしたこと等も記述されています。
もう一つは天文2年(1533)に織田信秀と会って蹴鞠を教えたり、弘治2年(1556)9月より翌3年3月までの半年間駿府の今川義元の所に身を寄せて一緒に酒を飲んだりと人脈作り(お金をもらうことも)に努めた人物だからです。作中の剣聖上泉信綱様とも1570年に会っています。凄いですね。
平野郷から、いよいよ……




