第百九十一話 ~忠孝~
<天文十三年(1547年) 二月 土佐国 幡多郡 土佐中村城 城主私室>
夜も眠れず、鬱々たる思いで「論語(儒教の経典である経書の一つ)」を読みながら朝を迎えた土佐一条家当主一条房基は、愕然とした。
「なっ?!」
房基が城内がやけに騒がしいと思って外を見れば、皆が戦支度をしているではないか!
「これは!!? 何の戦支度だ! まさか?!」
慌てふためいた房基。そこへやってきたのは、見知った三名の人影だった。
「房基。一人で何をしているのです。早う戦支度をなさい」
「母上!? 某が決めた『津野家討伐』を退けたのは、母上ではありませぬか! 何を今更!」
「……御所様。『羽茂本間軍を迎え撃つ為』に御座います」
「な、な、何だと!!?」
大きな衝撃を受けた房基は、読んでいた論語を書見台からばらりと落としてしまった。
その様子を見た土佐一条家筆頭家老土居宗珊は「やはり」というように目を閉じ、右手で眉間を摘まみ首を横に振った。
「……御母堂様。この宗珊が尋ねた際に『御所様(中村御所の主。一条房基のこと)へは話がついてある』と仰られましたが、あれは偽りですな?」
「おや、そうだったかえ? まあ、どうということはなかろう?」
尼姿の房基の実母夕渓尼は全く動じず、自らの独断で決めたことを隠そうともしなかった。
「何とっ! 御所様はご存知なかったのですか? 申し訳ございませぬ!! この羽生監物、既に下田湊へ柵や防塁を築く令を下してしまいました!」
「……母上。説明してもらいますぞ!」
「何を小さいことを…… だからお前は駄目なのです」
「なっ!!?」
夕渓尼はこれ見よがしに大きな溜息をついた。
「小さいことに右往左往して大義を見ぬ者、これを小人と言います。お主のような器の小さい者が土佐という尊き地を治めていることに、この母は耐えがたい苦しみを受けております。それに引き換え孫の万千代(一条房基の子。後の一条兼定)の愛くるしいこと。お主が早う隠居するなり、無うなればよいものを……」
「母上! 『小さいこと』と申されましたな?! 津野家は我らが手出しをしないと高を括り、五尾村、山出村の領民を虐げたのですぞ! 男は首切り磔! 女は裸に剥かれて恥ずかしめらめた後に生き埋め! 子どもから年寄りまでが骸となった!! それを小さいと申されますか?!!」
「……民など、どうでもよいではないか」
「「なっ……!?」」
その場の者が悪寒を禁じえないほど、ぞっとするような声だった。
「民など草や茸のようなもの。すぐに生えてくるではないか。何を憤っておるのです?」
「民は草ではありませぬ! 人ですぞ!!」
「……聞けばその羽茂本間照詮とかいう者、従四位上にあると聞き下田湊を貸すことを許しました。ですが、元はただの民草だという噂ではありませぬか。そんな者、打ち払うのが当然であるぞえ」
「御母堂様! 恐れながら左大弁殿は……!」
「…… 農民の出で将となる者など傑物以外の何物でもありますまい! それどころか二十にもならぬ若さでありながら佐渡・越後・出羽・能登・対馬などを治めておる者を……」
「黙れッ!! 宗珊! 監物! 家臣の分際でわらわに口答えするつもりかえ!!?」
「「……」」
「『忠』と『孝』! 即ち主君に対する忠誠と、親への孝行! それが人の道です! 死した民草も我が土佐一条家に仕えることができて本望だったでしょうに! それに、先ほどから房基! 母に従わぬとは何事ですか! その『論語』には何と書いてありますか!?」
「……『子曰く、父母に事えては幾く諌め、志の従わざるを見ては、また敬んで違わず、労えても怨みざれ』……」
「『父母に言いたいことがあるときは、言葉を選べ。自分の希望通りにならないのを見ても、それでも親を敬って孝行を続け、よく働いて怨むな』 大成至聖文宣王(孔子の尊称)の教えを疑うのですか?!」
「……」
房基は答えなかった。
確かにこれまで学んできたことは夕渓尼の言う通りだった。「忠孝を尽くす」ことこそ人の道。どの識者も、どの本も同じことを伝えていた。
(だが、果たしてこれが、本当に人の道なのだろうか?!)
房基の脳裏に、数年前に五尾村に立ち寄った際、花を摘んで渡してくれた幼子たちの笑顔が過ぎった。屈託ない笑顔、純朴な仕草。その子らが襤褸切れのように斬殺された。血が噴出さんばかりに嘆いた房基。だが、それを『小さいこと』と言われたことに房基は耐えがたい衝撃を受けた。心を辛うじて繋げていた糸が、何本もプツン、プツンと切れていく。房基はそのような感覚に陥った。
「さあ、わらわに続くのです! 異論はある者は無かろうや!?」
「「…… ははっ」」
「……」
筆頭家老と次席家老の後に、土佐一条家当主は、幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
________________
<天文十三年(1547年) 二月 土佐国 幡多郡 下田湊 岸壁>
「ふうン?」
歓迎、という感じではない、な。
「定満?」
「ははっ、ごたごたが起きたように思いまする」
「ふん。どうせ『農民あがりの左大弁』と、声の大きい母親が侮ったのだろう?」
「…… 仰せの通りかと」
焙烙頭巾が静かに頷いた。
ま、こういう扱いは何度かされている。慣れている。
そして、千名ほどの土佐一条家の兵共が退避ろぐ姿も、手に取る様に分かる。遠巻きに俺達を見ながら生まれたばかりの小鹿のようにビクンビクンと足を震わせておるわ。
あちこちに丸太やら石袋やら木槌などが転がっている。急ごしらえの柵や防塁でも築こうとしたのだろう。 阿呆かッ! そんなもので俺達を防ごうとでもしたのか?!
「行くぞッ!!」
「ははっ!」
俺は、怯える小鹿の群れのまん真ん中に向かって、上杉謙信、宇佐美定満、不無らの主将と黒で統一された精強な兵を従えて突き進んだ。小鹿たちの群れは予想通り波を割るが如くに退いていく……
ボトッ
ガチャ、ガチャン!
俺達が通ったその横から、槍やら刀やらが落ちる音がする。
どうやら戦に慣れていない土佐の兵が、俺達の姿を見て戦意を保つことができなくなったようだ。どうやら、危険の匂いを嗅ぎ分ける最低限の感覚は有しているようだ。
俺達が突き進んだ先には…… 白い幔幕に囲まれた本陣らしきものが見えた。
中にいたのは四名。
派手な尼僧、定満のような焙烙頭巾を被った大男、口髭の大きな壮年の男。御母堂様と、土井さんと、家老、か。
そして最奥にいるのが…… 目は大きな隈を作り落ち窪み、肩は落ち頬は痩け、吹けば飛びそうなくらい影の薄く陰鬱な気配を発する男…… これが、土佐一条家当主、従三位一条右近衛中将兼阿波権守房基、か。
狼狽える四名の者達。大方、俺達を打ち払おうとしたがあまりの船の数と大きさにビビリ、攻撃の合図を出せなかったのだろう? それは唯一、賢明な判断だったぞ。
スゥーッ
俺は肺の隅々いっぱいに息を吸った。
そして皆に聞こえるよう腹に力を込めて叫んだ!
「やあやあッ!! 出迎えが遅いので某の方から参りましたぞ!! 羽茂本間照詮で御座る!!」
ビリビリビリッ!!
「ヒィッ!」
「ひぇぇ!!」
少々苛ついているから普段よりも大きな声がでた。ビクついていた土佐兵たちがさらに竦んだ。声の大きさは大事だな。
「ぶ、無礼であろう! 我ら土佐国司、じゅ、従三位土佐一条家を、な、何と心得る!」
老けた尼僧が辛うじて声を出した。やはりこいつが口数の多い房基の母親か。
俺はこの老女を無視した。そして話を続けた。
「土佐一条家当主! 右近衛中将兼阿波権守殿! 我らの寄港をお許し頂き痛み入り申す!!」
俺は枯れ枝のような人物に向かって深々と一礼した。
一つ、二つ、三つ。
三つ数えてからスッと顔を上げた。
すると……
先ほどの枯れ枝の如き男の目に煌々と光が宿り、凛然とした君主がそこに現れた。晦冥に昼光が灯るが如きだ。焙烙頭巾の言うように、やはりこの男は出来る男だ。俺はそう確信した。
「遠き船旅、お疲れに御座……」
「ぶ、無礼者! わらわを差し置いて房基に声をかけるなど!」
房基が声を発したところを、先ほどの老女が慌ててそれを制した。「私を通してから話をせよ」とのことらしい。何言ってんだ、こいつ?! 当主同士の話が何よりも先だろが!
「俺は羽茂本間家当主として、土佐一条家当主に話をしておるッ!! 皆の者! 他に何か聞こえるか?!」
「「聞こえませぬ!!」」
定満、謙信、不無らは声を揃えて答えた。忠義者達を配下に従えることができて俺は幸せ者だ。
俺の考える「忠義」とは、単なる主従関係ではない。また、強制されるものでもない。御恩や奉公は忠義とは言わん。あれは馬とニンジンの関係だ。「忠義」とは心が通じ合った後に互いの信頼関係が為せるものだ。「偉いのだから従え」など、俺は口が裂けても言わんぞ。
「な…… あ゛……」
言葉を失った老婆。一生黙ってろ。
俺は老婆を無視して、話しかける一条房基へ向けてゆっくりと微笑みかけた。
驚いた表情の房基。だがやがてその口角が、ほんの僅かに微かに上がった。
孔子は紀元前500年頃の思想家・哲学者で、儒教の始祖として余りにも有名です。
作中の「論語」は、孔子の死後に弟子が記録した書物としてこれまた有名な書物の一つ。「温故知新」「巧言令色鮮し仁」など多くの逸話が記述されています。意訳も様々あるので、学ぶことがあることは間違いありません。
孔子に向けて中国の時の為政者からは、様々な封号が贈られています。1530年には明の皇帝世宗から「至聖先師孔子」を贈られていますが、土佐にはまだこの呼び方が定着していないと考え、作中では元時代に贈られた「大成至聖文宣王」を用いました。
孔子の思想は、為政者からは、非常に重宝されたように思います。儒教の一派朱子学には「王権の尊重」「長幼尊卑を守り」「身分上下の礼を守る」という考えがあります。これらは家や国の安泰の根幹を為すとして大切にされてきました。
儒教について主人公はどのように考えているか、皆さんならお気づきかと思います(*´ω`)




