第百六十一話 ~とある近習の追憶~
九つの近習の忠平(後の島津義弘)が考え事をしているようです。
言い方が幼かったり、変換がされてなかったりするのは、年齢の為とお察しください。
<天文十二年(1544年)4月 土佐国 浦戸湾沖 「佐渡鷹丸」船上>
殿は不思議なおかただ。
年はおいらの少し上、尚久叔父と大して変わらないのにこんなすんごい艦隊をひっぱっている。
先だては、「日之本一」と呼ばれる村上水軍の目の前をゆうぜんと横切った。手を出してきた船は大砲の雨で木っぱみじんとした。殿はすごいや。
忠将おじとの話のときや大評定のときは、こわいくらいだ。
つよそうな大人や年よりなんかにも、平気でめいれいする。
でも船の上ではレン様に怒られている様子も見られるときもある。不思議なおかただ。レン様と殿の仲は本当に仲がいい。おいらもいつかだれかと二人のような仲になれたらいいな。
できたら「はな」様と夫婦となれればいいのだけど、日新斎じいさまは兄上(島津義久)に嫁がせるおつもりらしいからなぁ。
それと、みかどやほかの大名にみつぎものをどっさりとくばっていた。
「むしがてんよりくるまえ」というなぞかけもつけたらしい。何のことだろう?
あ、堺湊は、どぎもを抜かれるほどにおっきかったなぁ!
殿は「佐渡の小木はここをめざす」とおっしゃられていた。
殿はレン様を京へと送り出した後、「天王寺屋」という商家の茶室で「三好なんとか」って人と会っていた。「堺たいじゅ」やら「細川なんとかをうつ」とか、何やら大きいことを話していたようだけど、おいらには難しくてよく分からなかった。
でも終わりには笑顔で去っていったから、きっと楽しく話をしたんだろうな。
殿はからだのことをいつも気にしている。
暇さえあれば、とにかく歯を磨いている。理由は虫歯が怖いからとのこと。思ったよりふつうだった。
それと、毎朝の弥太郎様との剣術のけいこ、そしてめいそう。
食事はぜいたくな物はほとんど召し上がられず、簡素な物を好まれる。げんまいや麦めしに、みそしる、魚のひもの、それにやさい、さいきんは肉を少し。金持ちななのだから、もっとたくさん、さとう菓子などを山ほどたべてもいいのに。
「何故、ぜいたくな物を召し上がられぬのですか?」とおいらが尋ねたら、「限りが無いからだ」と仰られた。「おきらいなのですか?」とたずねたら、「嫌いではない。むしろ好きだ」と仰られた。
「では、おいしい物を食べとうございます」とおいらが言ったら「はんばーぐ」という物を殿が作ってくださった。牛肉と山くじらの肉を細かく刻んだものを焼いたものだったが、それはもう! 天にも昇るくらいのおいしさだった! ああぁ、今思い出してもよだれが止まらない。はんばーぐ、はんばーぐ……
殿は「そんなに喜ぶのなら、月に一度は作ってやろう」と仰ってくださった。おいらは殿の近習になれて本当に幸せだ。
さとうをたっぷりと使った「ぷりん」というものも作っていただいた。あの舌ざわり、あのあまさ、もう忘れることはできん。ああ、ぷりん、ぷりん……
…… 多分、殿は民のことを思っていらっしゃるのだろう。
民はまずしく、ほとんどの者は食うか食わぬかの日々をおくっている。おいらのいた薩摩では、皆が汗水たらしてはたらいてもなかなか米はとれず、苦しんでいた。「はんばーぐ」など、一生に一度食べられるかどうかのものだ。
殿は、時にはぜいをこらしたものをめしあがるが、毎日心ゆくまで食べるのは罪と思われていらっしゃるのかもしれない。
また、殿はもらった物は決して口にしない。必ず誰かが口にしたものを食べる。だれかにだまされたことがあるのかもしれない。
殿はレン様や弥太郎様、新人様など限られた人にしか本当に心を開いてはおられないのかもしれない。実はごうたんに見えて案外、せんさいなのかもしれないな。
殿はあまり、きびしくない。
おいらは前にうっかり、殿の着物を土の上に落としてしまった。でも「問題ない。服は着れればよい」と言ってそのまま着てくださった。あのときは、手打ちにされるかとどきどきした。
…… だけど、二回目のときは「二度同じ誤りをすることは心の緩みがある。過ちを再びおこさないための方策を『十策』述べよ」と仰られた。おいら泣きベソをかきながら何とか考えて言ったら許してもらえた。これなら怒鳴られて叱られた方がよっぽど楽だ。
そして、日々書物を読まされ、算術というものをさせられている。「役に立つのですか?」とたずねると、「分からん。役に立たぬこともある。だが、大岩をくだいた中にあるわずかな砂金のように、底の方に何かがのこっている」ともおっしゃられていた。そして、山のような書物が……
…… やっぱりきびしいかもしれない。
殿は余暇を何より楽しんでおられる。
将棋はお好きなようで、よく不無様と一緒に指されていらっしゃる。船内では揺れる為、針付きの駒を穴に刺すように工夫されていた。腕前は相当なもののようだ。おいらもやってはいるが、取った駒をもう一度使えるということに慣れずうまくいかない。殿は「俺から一本取れたら元服を許そう」と言っていた。ようし、いつかは必ず取ってやるぞ!
横笛は殿のお好きな物の芸の一つだ。特にこの船に乗ってからは、いつも同じ節を吹かれておられる。「ぼれろ」という歌らしい。大和歌ではないようで、何故そのようなことをご存知なのかは分からない。
あとは書を読むこと。地図を眺めること。
あとはー、ぽかんと遠くを見ていらっしゃることがある。何か考え事をしていらっしゃるのかもしれない。
書は、多分、おいらの方が上手い。正直、殿の字は、読めたものじゃない。
そんな殿だが、一度だけ泣いている姿を見た。
対馬国に立ち寄った時、墓の前で声を出さずに静かに涙を流されていた。
あまりにも意外で、声をかけられなかった。
殿が倭寇を憎むことと関係があるのかもしれない。
おいらは不思議なことがもう一つあった。日ノ本とういつを後回しにしたことだ。
「殿、日ノ本をとういつしてから行ってもおそくはないのでは?」とおいらが言ったら、「…… 遅いな。手遅れとなる」と仰られた。
西南の海の先には琉球や倭寇の島、ぽるとがるやいすぱにあ、その他にもいろいろな国があるらしい。多分、この旅はその国たちを抑えることにつながるのだろう。
たぶん、殿はおいらが知らないことをたくさん知っていて、考えておられるのだろう。本当に不思議なおかただ。
もうすぐ禰寝の湊に着く。
おいらはもう島津の家の人ではないが、故郷に立ち寄れるというのはうれしいことだ。
殿の下でこれからも学んでいこう。
そして、いつかはな様をむかえに……
「堺大樹」について触れていました。
これは1527年から1532年にかけて「堺幕府」を開いた足利義維のことでしょうか。三好元長(三好長慶の父)らに擁立されて兄弟である足利義晴と対立し、「桂川原の戦い」の戦いに勝利し、「堺で幕府を開いた」という記録が残っています。幕府とするのは判断を迷う所ですが、義晴が一人朽木谷へ逃れている状態を幕府と呼ぶのは難しいかもしれませんね。
主人公が会っていた人物、これは「範長」と名乗っていた「三好長慶」かもしれません。長慶という名は1544年6月、石山本願寺に父元長の13回忌のため証如から送られたもの。父を本願寺一向宗に殺されて、そして和睦、共闘。この頃の畿内は「合戦」と「和睦」の連続という魔境だったようです。
「はな」様は、日新斎の末子で島津義久正室となる「花舜夫人」だと思われます。叔母にあたるのですが年齢は義久と同じくらいだったと言われています。故に11歳頃でしょうか。
忠平のほのかな恋心は実るのでしょうか?




