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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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99/140

フェイズ65「WW2(59)ツーロン上陸作戦1」

 全世界が英本土北方沖合での決戦の結果起きたイギリス本土での政変に揺れている頃、ヨーロッパの地中海側でも連合軍の大規模な反攻作戦が実施された。

 

 本来ならノースアイルランド上陸作戦よりも政治的インパクトは高くなると予測されていた作戦だけに、作戦を総指揮したダグラス・マッカーサー将軍にとっては、かなり不本意だったと言われることが多い。

 


 作戦名は「ドラグーン(龍騎兵)」。

 

 といっても、空想上の動物であるドラゴンに跨った兵士の事ではなく、16世紀から17世紀頃にあった鉄砲を主武装とした騎兵の事を指す。

 しかし現代では、空想上の兵士をイメージしたと言われることが多い。

 と言うのも、同作戦は1万機以上の航空機が作戦参加した大作戦だったからだ。

 

 作戦決行は1945年6月13日。

 15日に上陸予定で、作戦は進められた。

 

 上記したように、作戦は英本土のノースアイルランド侵攻と連動しており、ドラグーン作戦に連合軍の空軍力を集結することで、英本土方面に欧州枢軸の空軍力を向かわせない役割を持っていた。

 逆に、アイスバーグ作戦によって、南仏に他の欧州枢軸の戦力を向かわせない作戦にもなっていた。

 つまり表裏一体の作戦だったのだ。

 

 だが、作戦開始までにイギリスが急に旗幟を変えてしまったため、自ずと作戦の性質も変化してしまった。

 

 イギリス本土から枢軸軍の増援が来ることはなくなったが、ドラグーン作戦はほとんど単独となってしまったからだ。

 

 しかし作戦自体は、予定通り決行されることになる。

 


 直近の地中海方面の戦況は、1945年4月1日にアンツィオ上陸作戦が行われ、大成功に終わった。

 そしてその影響で同月28日、イタリア王国は進軍してきた連合軍との停戦にサインし、イタリア王国としての戦争は一応は終わりを告げる。

 イタリアでの戦いはその後も続くが、5月半ばまでに戦線は北イタリアの入り口にまで至った。

 サルディニア島、コルシカ島も既に連合軍の手に落ちていたので、欧州大陸本土はもはや丸裸だった。

 イタリア北部にはドイツの傀儡政権が立てられたが、軍事的にはほとんど意味が無かった。

 

 連合軍の問題は、矢継ぎ早に作戦を決行している事だった。

 

 と言っても、兵器、物資などの兵站は、アメリカを始め連合軍各国の兵站がフル回転しているので、大きな問題は無かった。

 後世では、1945年春から初夏は連合軍で特に揚陸艦艇の機材や兵器が不足していることが多いと言われるが、数字の上で見る限りそんな事は無かった。

 確かに、45年に入ってからシチリア島、イタリア本土南部、イタリア本土中部、そして英本土侵攻と大規模な上陸作戦を連続して行っていた。

 しかし最大規模の英本土侵攻は、準備に1年以上かけてきたので、殆ど別枠で物資や揚陸機材の準備が行われていた。

 イタリア方面での作戦は、主に日本が色々と準備していた。

 そしてアメリカは、英本土侵攻の準備をしつつ、さらに別の大規模作戦の準備をするだけの生産力があった。

 しかし、以後の上陸機材の生産は縮小予定だったので、もし一連の作戦が失敗していたら、機材の不足に悩むようになっていたかもしれない。

 

 しかし揚陸機材、物資は十分にあった。

 

 では、各所で攻勢を行っていたので、兵力が不足していたのだろうか。

 

 だが、これでも無い。

 英本土、イタリアは南仏とは別戦区で、それぞれの戦区は事前に兵力を割り当てられている。

 しかも南仏の中部大西洋方面軍は、この時期兵力として浮いていた空挺部隊の過半が移動してきている。

 上陸戦に慣れた日本海軍の陸戦旅団も、半数が移動していた。

 さらに米本土で編成と訓練をしていた、日本陸軍の大西洋方面軍(第11方面軍)が地中海入りしていたので、麾下の第51軍集団は3個軍編成に増強されている。

 

 空軍力も、直轄の米第3航空軍、米第6航空軍、救国フランス空軍(旅団規模)に加えて、日本陸軍第3航空軍、日本海軍第11航空艦隊が編入されていた。

 さらに唯一の戦略空軍である米第8航空軍も作戦参加予定だった。

 合わせると稼働機1万機以上にもなる。

 


 では、問題は何だったのだろうか。

 

 問題は、最初に誰がフランス本土に上陸するか、というある種政治的な問題だった。

 

 この時期、軍団規模に拡大されていた救国フランス軍が上陸するのは確定だった。

 残るは日米だが、最初に上陸できる師団数は上陸場所の問題から4個師団だけ。

 作戦に参加できるのは、その二倍が流石の限界だった。

 実際は、空挺部隊を除くと6個師団に支援部隊という事になる。

 1週間後に第二波が続くが、先陣は誰が行うかの方がずっと重要だった。

 

 作戦計画当初は、日本陸軍大西洋方面軍を率いる本間雅晴大将は、後詰めで構わないと公の場ですら言っていた。

 あまりに控え目な態度なので、総司令のマッカーサー将軍が気にしたほどだった。

 日本陸軍の現場での上位者となる岡村大将もそれを了承していた。

 ヨーロッパでの戦いでは、日本軍は外様であることを理解しての事だった。

 

 そして当初は、アメリカ陸軍のクリューガー大将麾下の部隊が主力となって、救国フランス軍と共に上陸する予定とされた。

 とはいえ、クリューガー大将麾下のアメリカ陸軍部隊には、上陸作戦に慣れた部隊がほとんどいなかった。

 米本土から進んできた米陸軍のうち、上陸作戦に慣れた部隊の多くが英本土作戦に投入予定だったからだ。

 まともに使えるのは、アメリカ海兵隊第2遠征軍の第2海兵師団だが、彼らは海兵隊であって陸軍では無かった。

 しかも日本軍は、アメリカ陸軍の要請、具体的にはマッカーサー将軍の求めによって、海軍の特別陸戦旅団2個を中部大西洋戦域軍に移動していた。

 しかも日本軍全体では、アンツィオ作戦が終わると以後大規模揚陸作戦の予定がないので、揚陸艦艇の多くを南仏作戦に参加させる積もりでいた。

 そのため、4月半ばに各地の出撃拠点に戻ってくると、大車輪で次の作戦準備を行う予定を立て始めていた。

 

 こうした状況から、作戦決行の三ヶ月前に参加部隊の変更という名の決定が行われる。

 


 なお、1945年春の時点での南仏作戦を行う中部大西洋戦域軍は、ウォルター・クリューガー大将を司令官とする第51軍集団の麾下に、アメリカ第6軍、アメリカ第8軍、日本第11方面軍、救国フランス第1軍団、アメリカ海兵隊第2遠征軍が所属していた。

 各軍(方面軍)司令官は、第6軍がジェイコブ・デヴァース中将、第8軍がジョナサン・ウェインライト中将、日本第11方面軍が本間雅晴大将になる。

 日本軍だけが大将で、ある程度独立指揮権も認められていた。

 とはいえ、司令官のクリューガー将軍、ウェインライト将軍は中華戦線から従軍していたので、同じく中華戦線から戦っていた本間将軍との関係は良好だった。

 それ以上に、本間将軍がマッカーサー将軍の麾下となる部隊を指揮するのは、マッカーサー将軍が強く希望したからなので、日本軍が粗略に扱われる可能性はまず無かった。

 そしてアメリカ側から非常に気遣われている事を日本側も強く感じていたため、行動自体も控え目なものとなっていた。

 

 なお、クリューガー将軍、ウェインライト将軍が各部隊を率いるのも、マッカーサー将軍が望んだものだった。

 クリューガー将軍は一兵卒から大将に昇進した最初の米陸軍軍人だった。

 しかも若干17才で米西戦争に従軍した経験を持ち、近代アメリカ陸軍の歴史そのものとすら言えた。

 この経歴のため、マッカーサー将軍が現役復帰して中華戦線を率いるときに引き抜いてきた人物だった。

 ウェインライト将軍は、長らく満州などアジア各地の米軍部隊に所属しており、マッカーサーとの付き合いの古い将軍だった。

 しかしクリューガー将軍は64才、ウェインライト将軍は62才と、本来なら既に現役を退いてもおかしくない年齢だが、戦時特例で現役に止まる歴戦の将軍達だった。

 (※マッカーサー将軍はさらに年長で当時65才。)


 そうして決められたドラグーン作戦の「陣立て」だが、上陸作戦の総指揮官はダグラス・マッカーサー元帥。

 これは動かない。

 それ以外は、以下のように決められた。

 


 ・上陸第一波(約14万名)

 救国フランス第1師団

 アメリカ第2海兵師団

 アメリカ陸軍第77師団

 海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団、海軍陸戦隊第5特別陸戦旅団

 日本陸軍第3師団(日本第6軍(軍団)所属)

 日本陸軍第16師団(日本第6軍(軍団)所属)

 レンジャー部隊など支援部隊多数


 ・空挺部隊(約2万8000名)

 米第82空挺師団、米第101空挺師団、日本陸軍第一空挺団、

 救国フランス第一空挺旅団、自由オランダ空挺団、自由ポーランド空挺団


 ・上陸第二波以後

 米第11軍団:第32師団、第96師団、他

 米第14軍団:第6師団、第32師団、第38師団、他

 日本第6軍(軍団):第12師団、他

 日本第9軍(軍団):第5機甲師団、第10師団、第11師団、他

 救国フランス第1軍団本隊:第1機甲師団、第2師団、他


 以上の戦力が、一週間以内に南仏に上陸予定だった。

 

 第一波は、見事なまでの全員参加状態で、救国フランス軍はともかく日本、アメリカ双方の他軍に対する対抗心を見ることができる。

 このため、逆に作戦はマッカーサー元帥以外が指揮しえないと言われたほどだった。

 

 第二波には、救国フランス第1軍、米第11軍団、日本第6軍(軍団)の残余と一部支援部隊が上陸予定で、重砲兵など軍団直轄部隊や補給、支援の部隊が多いので、第一波よりも大規模で重装備も多かった。

 

 そしてさらに一ヶ月以内には、クリューガー大将麾下の第51軍集団の殆どを南フランスにねじ込んで、現地軍以外の枢軸軍が押しよせても十分に対応できる戦力を展開し、占領地を確保する予定だった。

 

 この作戦で大切なのは、上陸作戦を成功させるという最低限の事を除くと、フランスに上陸する事、枢軸軍を引き寄せることになる。

 山岳部など複雑な地形が多いので大軍による大規模な突破戦闘が難しいので、まずはそのような事が目指された。

 突破するのは敵が戦力を出し惜しんだ場合や、余程の好機が到来した場合と考えられていた。

 

 上陸箇所は、南フランス東部のプロヴァンス地方にある、ツーロンからニースの間のリヴィエラ海岸。

 コートダジュールとも呼ばれる地域で、この時代から避暑地としても有名だった。

 カンヌやモナコもこの地域に含まれるので、よく耳にする地名が多いと思う。

 またツーロンはフランスにとっては地中海最大の軍港であり、軍事的価値も一定程度あった。

 そして三カ月以内には、もう少し西にあるマルセイユを占領する予定になっていた。

 マルセイユを占領することで円滑な補給体制を整えて、フランスの内陸部に進んでいく予定になっていた。

 

 なお、南フランスに上陸するなら、もっと西のリヨン湾のローヌ川河口部の方が低地だし上陸後の進撃もしやすいように思える。

 だが、海岸部は湖が多く上陸に全く適さない大きな地形のため、最初から選択肢にすら入っていなかった。

 と言っても、すぐに山並みが迫るリヴィエラ海岸も上陸作戦にはあまり適していない。

 本土決戦となる敵も、連合軍がどこに上陸するかは連合軍以上に熟知しているだろうから、防備も分厚いと考えられた。

 そこに短期間に30万もの兵力を上陸させるのだから、この苦労は並大抵ではないし、準備と兵力も十分に揃えられた。

 

 上陸作戦を展開し支援する兵力の多くは、モロッコ作戦を行った米軍部隊だった。

 これに上陸作戦に非常に熟練する日本軍の揚陸作戦部隊が脇を固める。

 

 上陸作戦の実質指揮は、米第11軍団司令ジョナサン・ウェインライト中将と日本第6軍(軍団)司令の根本博中将が中心だった。

 どちらも中華戦線の序盤から戦ってきているので、お互い気心も知れていた。

 根本将軍は中華方面の専門家でもあるが、戦術指揮が巧みなため日本軍よりもアメリカ軍に気に入られ、その影響で今回の軍団指揮をしていた。

 ウェインライト将軍はフィリピン時代からマッカーサー将軍との付き合いの長い人物で、マッカーサー将軍からの信頼が厚かった。

 このように、南フランス方面は、多分にマッカーサー将軍の意向が人事に反映されていた。

 


 なお、マッカーサー将軍は、地中海方面戦域軍のアイゼンハワー元帥、北大西洋戦域軍のニミッツ元帥と同格であり、作戦中は海軍の全般的指揮の優先権も持っていた。

 そして海軍自体は、基本的には今までイタリア方面の上陸作戦を支援していた部隊が従事する。

 違いは救国フランス海軍の艦隊が加わるぐらいだ。

 

 救国フランス艦隊の具体的な陣容は以下の通りになる。

 


 ・救国フランス海軍・大西洋艦隊(ミュズリー中将)

BB 《リシュリュー》

CG 《シュフラン》 CG 《コルベール》 CG 《デュケーヌ》 CG 《トゥールヴィル》

DD:7隻


 意外に重巡洋艦の数が多く、戦艦は《リシュリュー》だけで、駆逐艦は全てアメリカからの供与艦で占められている。

 高速発揮できるのが、艦隊の特徴の一つだった。

 これが日米どちらかの海軍の艦隊なら、かなりの使い道があっただろう。

 

 そしてこの艦隊が加わる代わりに、イタリア海軍(既に自由イタリアではなくなっている)は作戦には参加しない。

 このため、地中海艦隊はやたらと巡洋艦が目立つ陣容となっている。

 アメリカは巡洋艦の艦隊しか置いていないし、日本も旧式戦艦以外は有力な巡洋艦の半数を展開していた。

 他にも自由オランダ艦隊も、この時点では地中海に展開していた。

 

 対する枢軸側は、ツーロンに撤退したフランス海軍がいるだけだった。

 イタリア海軍の一部はジェノバ方面に後退していたが、既に今までの戦闘で大きく傷ついており、燃料も不足することから活動はほぼ停止していた。

 燃料不足はフランスも同様で、残る燃料の多くは機動力を有する北大西洋方面に集中していた。

 このためツーロンの艦隊は、すでにボイラーの火を落として活動不可能になっている艦艇が少なくなかった。

 活動しているのも、僅かに護衛用の軽艦艇と少数の潜水艦だけだった。

 ツーロンには旧式戦艦の《プロヴァンス》《ロレーヌ》《ブルターニュ》が駐留していたが、防空砲台とは名ばかりの敵を引き寄せるための囮に近い状態だった。

 なお3隻は同型艦で、第一次世界大戦中に就役した旧式の超弩級戦艦に分類される。

 基準排水量は2万2000トン程度。

 主砲は45口径34センチ砲を連装で4または5基装備している。

 1930年頃にかなり大規模な改装をしたが、速力は20ノットとそのままのため、第二次世界大戦では1941年から43年にかけてはベネズエラ航路の船団護衛に活躍していたが、それも連合軍の攻勢で中断。

 その後は、カサブランカ方面に展開していた事もあるが、石油事情の悪化によって44年に入る頃からツーロンに留め置かれていた。

 

 以上のように、フランス海軍は事実上の活動不能状態なので、連合軍が日本の旧式戦艦群と巡洋艦ばかりでも、戦力的には十分だった。

 巡洋艦の数が多い事については、搭載する8インチ砲、6インチ砲で途切れることなく艦砲射撃支援が出来ると考えられていた。

 


 「オペレーション・ドラグーン(竜騎兵作戦)」の要は、空軍と空挺部隊だった。

 

 事前空爆で、フランス南部の中心都市リヨンから伸びる鉄道と道路を完全に寸断して増援と補給を絶ち、上陸地点周辺部のフランス軍を中心とする枢軸軍部隊を撃破し、上陸地点からは身動きできないようにしてしまわなければならない。

 また空挺部隊は、敵が内陸部から増援を送り込む鉄道と道路を事前に押さえて、連合軍が海岸部の橋頭堡を固めて内陸部まで進出してくるまで耐えなければならない。

 空軍部隊には、空挺部隊の全面的な支援と補給という役目もあった。

 

 空挺部隊は、上記したように2万8000名も集められた。

 英本土方面の自由英空挺旅団とアメリカの第11空挺師団、日本海軍の空挺団以外(※イタリア作戦従事中)以外の全てをかき集めたもので、連合軍の余剰空挺部隊の全てだった。

 

 降下地点も、海岸から10キロも離れた谷間、敵の拠点であるツーロンに近い場所など大きく4箇所に分かれており、危険度も高かった。

 特に上陸前の降下なので、増援は空以外から来るにはかなりの時間が必要なので、ギリシア作戦よりも空挺の為の作戦だったと言われることもあるほどだった。

 


 これに対してフランス軍を中心とする枢軸軍だが、連合軍の予測よりも戦力は少なかった。

 

 一番の原因は、モロッコ、アルジェリアなどで100万ものフランス軍が、後退する間もなく殲滅、降伏してしまったからだ。

 壊滅したのは空軍も同様で、パイロットの生き残りと整備兵の一部だけが空路で北アフリカを脱出できただけで、多くの基地要員を失っていた。

 

 そして1945年春の時点で、フランス軍には十分な戦力は無くなっていた。

 このため盟主ドイツに対して、ロシア戦線にいまだ1個軍が派遣されているフランス軍部隊の撤退を認めさせた。

 しかしロシア戦線では、主に南部戦線でソ連軍の攻勢が続いているため、45年3月になるまで留め置かれてしまった。

 

 そして1個軍を戻したとしても、それだけで足りないことは明らかだった。

 連合軍が上陸するのは南フランスで決まりと見られていたが、角が2本突きだしたような北西部を丸裸にするわけにもいかなかった。

 全く防衛措置を取らなければ、英本土も伺っている連合軍が奇襲的に上陸してくる可能性が十分にあると見られていたからだ。

 このため北西部にも1個軍程度の部隊と、場合によってはイギリス本国にも支援できる空軍部隊を配備し続けなければならなかった。

 

 そうした上で、連合軍の本命の地中海側の防衛部隊を配備しなければならなかった。

 一応は同盟関係なのでドイツなどに救援を頼むことも出来たが、ドイツに今以上の借りを作る事が躊躇された。

 何を言われるか分からないからだ。

 それにフランス人の感情として、あまりドイツ人にフランスの国土にはいて欲しくなかった。

 ただでさえ、秘密警察ゲシュタポや一般親衛隊の監視と権高な態度に嫌気がさすという次元を越えているのに、軍隊まではまたやって来て欲しくないからだ。

 またドイツも、ただでさえロシア戦線の最後のフランス軍が抜けるのに、これ以上兵力を引き抜きたくは無かった。

 

 だが、半身不随のフランス軍だけで連合軍を阻止できるとは考えられなかったので、ソ連の攻勢が一段落した4月か5月には、ロシア戦線から戻っていた師団を纏めて、1個軍の増援を南仏に送り込むこととなった。

 


 幸い、南フランス地域は守りやすい地形だった。

 

 先述したように、西部のリヨン湾は上陸に適していないので、山がちな東部沿岸を中心に守ればいいからだ。

 それでも守るべきは、マルセイユを起点にして東に100キロメートル近い海岸部に達する。

 十分に敵を撃退できる戦力として、10キロにつき1個師団を水際配置すると仮定すると、それだけで10個師団も必要となってしまう。

 この上、機動防御戦を行う部隊も必要となる。

 しかし現地に割ける事のできる戦力は、ロシアから根こそぎ引き揚げても足りなかった。

 しかも動員された部隊の半数は、戦力に劣り移動力もない予備の国土防衛師団だった。

 兵員も、根こそぎ動員しても50万人ほどだった。

 そしてこの50万人も、連合軍が無防備なところに上陸してきてはいけないので、ある程度は分散配置せざるを得なかった。

 


 ちなみに、この大戦ではフランスは、1940年春の時点で約140個師団、300万人以上の兵士を動員した。

 そして旧態依然とした軍だった事もあり、ドイツに負けて相応の損害を受けた。

 しかし1ヶ月程度で文字通り電撃的に破れたため、損害は全体の一割程度だった。

 その後欧州枢軸として、ロシア戦線に最大で1個軍集団規模を派遣した。

 そして1944年までは、ロシア戦線のフランス軍約80万を維持するために、のべ200万人が派兵された。

 しかし1943年秋以後になると、大西洋が緊迫してきたので多くの戦力をモロッコなど北アフリカ方面に再配置した。

 

 そして北アフリカに配備した戦力を全て失った。

 

 1945年初夏の時点で残されたフランス軍は、数字の上では120万人ほどだった。

 しかしこの数字は、1940年初夏のように対ドイツ戦のような根こそぎ動員をした上での数字なので、ほとんど書類上の数字でしかない。

 近代戦を知らない30代の兵士や、20才に満たない兵士では書類を埋めるぐらいにしか役には立たなかった。

 フランス軍全体では、少数の例外を除いてロシアにいた1個軍を維持するのが精一杯なのが実状だった。

 それでも国家存亡の危機なので、根こそぎ動員は一部で実施され、45年初夏の時点で、北西部に30万、地中海側に50万の兵力を用意した。

 


 空軍の方は、1940年夏に3000機近い機体があったが、ドイツとの戦いで三分の二を失った。

 残された機体も時代遅れなものが多いため、ほとんど一から再建せざるを得なかった。

 このためフランス空軍は、1942年夏まであまり活発な活動はしていない。

 そして戦力再編に際しては、国内の企業や空軍では技術的にも不足するため、ドイツ国内で比較的余裕のあったハインケル社に協力を要請した。

 また非力だったエンジンに関しては、イギリスのマーリンエンジンのライセンス生産で補われた。

 それでも不足する分は、イギリス、ドイツからの供与で補われた。

 スピットファイア、Fw190A、He111などがその代表だった。

 おかげで、機体・機材の方は何とか連合軍に対抗できるようになった。

 

 だが、再建された空軍の半分は、陸軍同様に北アフリカで失われた。

 残りの半分も、連合軍の航空撃滅戦の前に、戦力維持すらおぼつかない状態だった。

 切り札である「He280F ミラージュ」ジェット戦闘機も、数が少ない上に十分な働き場が無かった。

 またミラージュ戦闘機は双発のため、エンジン製造でフランスにとって負担が大きかった。

 そこで、単発で操縦性の高いジェット戦闘機の開発が求められた。

 加えて、できるだけ少ない資源で生産できることも、戦況の逼迫から求められた。

 

 これにドイツ政府からの許可を受けたハインケル社が請け負い、「He162」が急ぎ開発される。

 「サラマンドラ(火とかげ)」と命名された機体は、確かに単発のジェット戦闘機で僅か3ヶ月で試作機が誕生したほど短期間で開発された。

 機体の多くに木製部品も使い、資源の省力化も実現している。

 ジェットエンジンの交換など、整備性もかなり高かった。

 しかし実際飛ばしてみると、操縦性には大いに難点があった。

 熟練者なら十分に飛ばせるかも知れないが、飛行時間の少ない初心者では真っ直ぐ飛ばすことすら難しいと言われた。

 このため訓練中の事故が絶えず、新人殺しと言われたりもした。

 

 だが、追いつめられていたフランス空軍は本機の大量生産を決定し、1945年春からの量産を開始する。

 生産はフランス東部に建設されていたハインケル社の工場でも多数が生産され、エンジンもフランスで生産されていたので、会社がドイツなだけでほとんど国産機のような生産が行われた。

 そうでなければ、十分な生産が不可能だったからだ。

 と言うのも、ドイツも資源の入手や兵器の生産に苦労するようになっていたため、今までのように簡単にはフランスなど同盟国に兵器を供与しなくなっていたからだ。

 兵器を供与しなくなったのはイギリス本国も同様で、フランスは枢軸陣営として自らを守りたければ、自分で何とかしなくてはならなかった。

 

 「He162 サラマンドラ」を装備した飛行隊は、45年5月に最初の隊が発足して以後急速に拡大され、一ヶ月で4個大隊を数えていた。

 「He280F ミラージュ」隊が3個大隊しかないのに比べて、規模の拡大はフランス空軍としては非常に早かった。

 

 ジェット機以外の飛行隊は、艦載機にもされた「アルゼナル VG44」の空軍仕様、強化型の国産マーリン搭載の「ドボアチン D522」が半数近くを占めていた。

 それ以外だと、「スピットファイアMk-IX」、「Fw190A」の数が多かった。

 爆撃機は、新型として「He277」がフランスのオリジナル機体として採用されたが、もうフランスにこの大型機を大量生産する余力は無かった。

 なお「He277」はハインケル社の機体の「He177」の改良型で、「He177」と違ってごく普通のエンジン配置の4発重爆撃機だった。

 カリブの戦いの頃に出現していれば戦局にも大きく寄与できたと言われる優秀な機体だが、少数が生産されて主に北大西洋方面の洋上哨戒に使われていた程度だった。

 ドイツ空軍も注目したが、他に優先すべき機体が多いため導入は見送られた。

 

 そして個々の機体の性能よりも重要なのが数そのものだが、フランス空軍全体で1個航空軍ぐらいの数しか無かった。

 

 書類上は2個航空軍が南北に展開していたが、実働機はフランス空軍全軍で1000機程度だった。

 そして他からの増援、援軍も望めなかった。

 ドイツはロシア戦線とバルカン戦線に加えて、北イタリア戦線も抱えたので、身動きが取れない状態だった。

 象徴的な意味合いでの部隊以外は置いていないのが現状だった。

 イギリスは本国の防衛を固めるため、全ての機体を本国に集めていた。

 イタリアは、戦争から脱落した上に分裂して、傀儡国家が枢軸として戦っていたが、もうまともな戦力として数えられない状態だった。

 

 フランスは、フランスが守らなければならなかったのだ。

 


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