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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ14「WW2(8)支那戦線3」-2

 4月15日に開始された戦闘は、基本的に守る連合軍、攻める中華民国軍の図式になった。

 そして連合軍は下がる場所が殆ど無いので、塹壕や野戦築城を用いた防御陣地での防戦となった。

 

 現地日本軍の指揮官は、日本側に方面軍司令部が開設されていなかったため軍(軍団)規模でしか設置されていなかった。

 第四軍の今村均将軍(当時中将)と第六軍の本間雅晴将軍(当時中将)が日本軍指揮官で、これにアメリカ軍のウェインライト少将が加わる。

 二人の陸軍中将しかも同期の者が並び立った形になるので、日本陸軍では慌てて方面軍司令部を作ろうとしたが、中華民国の攻勢初期は間に合わなかった。

 しかし両将軍は親友同士で付き合いも深かったため、意志疎通など特に問題は無かった。

 むしろ両将軍はウェインライト少将との関係に心を砕いており、階級はともかく実質的には同格の扱いを行った。

 

 また日本軍が方面軍(司令官)を立てる前に、日本とアメリカの間で協議が行われ、ちょうど上海に滞在していたダグラス・マッカーサー将軍が、大将待遇で臨時に上海方面軍司令官に就く事となった。

 日米の政治的妥協の産物と言えるが、当時の日本陸軍は日本本土で中華民国への本格的侵攻の準備と序列を決める真っ最中で、誰が上海方面の方面軍司令官に立つかでもめていたので、日本陸軍にとっては不安も強かったが渡りに船という心境もあった。

 だからこそ、軍の多い方が指揮をとる原則に外れた人事が通ったのだった。

 

 連合軍初の日米合同軍となった上海軍(方面軍)で、しかも大軍を前にしての苦しい防戦だったが、基本的に司令部の関係は良好だった。

 本間将軍は当時の日本陸軍一と言われたほど英語が堪能で、今村将軍は人格者で知られる人物だった。

 ウェインライト少将は階級は低かったが、二人の日本軍の将軍よりも年長者だったため日本側が年長者を敬うという形で立て、ウェインライト少将も日本側との円滑な関係を心がけた。

 その上に立つマッカーサー将軍は、色々と言われる人物ではあったが、少なくともこの時は配下にした将軍達との関係は良好で、賞賛する言葉を多く残している。

 その後のマッカーサー将軍の行動を見ても、これが表面的でないことは確かだろう。

 日本の二人の将軍も、マッカーサー将軍の指揮には賞賛の言葉が多かった。

 


 しかし司令部が良好でも、当初の戦況は厳しかった。

 

 とにかく中華民国軍は数が多く、焦りがあったので攻撃も激しかった。

 イギリスから武器弾薬もかなり供与されていたので、機動力と火力も侮れ無かった。

 新旧の巡航戦車(主力の「Mk-IV」と「Mk-V カビナンター」、「クルセイダー」)と「マチルダI」歩兵戦車に混ざり小数ながら戦場に姿を見せた「マチルダII」歩兵戦車は、当時としては破格の重装甲で当時の連合軍の戦車では撃破がほとんど不可能だった。

 

 日本の「九七式戦車」も前面60mmの装甲があるので、イギリス軍戦車の2ポンド砲(40mm砲)に撃破されることは正面からだと無かったが、それ以上に日本側の貧弱すぎる戦車砲(57mm短砲身榴弾砲、37mm速射(戦車)砲)が役に立たなかった。

 撃破はほとんどの場合航空攻撃の結果で、それ以外も野砲による近接射撃か、歩兵の肉弾(手榴弾)攻撃によってだった。

 日本側の損害がハード面の差のため広がらなかったのは、先のロシア製兵器との戦いで戦車と歩兵などの兵科の混成、共同作戦がうまくいったからに過ぎない。

 とにかく、火砲の力不足は明らかだった。

 

 このため日本陸軍では、急ぎ火力の大きな戦車の製作と既存車両の改造に取りかかることになる。

 また37mm対戦車砲も、他の戦車はともかく「マチルダII」戦車相手には歯が立たず、平行して大口径対戦車砲の開発も行われることとなった。

 加えて、慌てるようにほとんど試作だった「九九式重戦車」の部隊が実戦化され、前線に送られた。

 この時の日本軍は、連隊砲兵に配備されていた90式機動砲(ゴムタイヤ式の75mm野砲)、高射砲大隊の九八式速射砲(75mm高射砲)が、陣地防御で大活躍した。

 双方ともに念のため貫通力の高い砲弾(元々は対トーチカ用で対戦車砲弾ではない)が開発、装備されていたが、これが功を奏した形だった。

 中華民国兵が操るイギリス製の戦車は、日本軍陣地の前に瓦礫の山を積み上げることになる。

 

 だが中華民国軍は、戦車以外でもドイツ軍と違い重砲なども供与されており、火力が豊富だと中華民国軍の士気はかなり高かった。

 このため連合軍の損害もかなりのものに上った。

 中華戦線ではそれまで見られなかった重砲同士による砲撃戦も、かなり一般的に見られた。

 

 その中で連合軍の将軍達はよく防戦に務め、また将兵達も将軍達を信頼して戦い、ねばり強い戦いによって戦線を維持し続けることに成功する。

 

 なおイギリス軍は、中華民国に対して約600両の戦車、300門の重砲など数万トンの武器弾薬を供与し、このうち約80%が日本軍などの通商破壊戦をくぐり抜けて届けられた。

 そしてその兵器の半分をこの時の戦いに投じている。

 このため連合軍も苦戦を強いられ、また欧州枢軸軍の兵器の強力さを身を以て知ることになる。

 ただし中華民国軍の戦術は稚拙な場合が多く、数百両も供与された戦車は歩兵と共にノロノロと平押しするだけで、まともな戦果には全く結びつかなかった。

 


 2ヶ月の防戦後、6月に日本陸軍航空隊が激しい空爆を行い、日本本土から増援として3個師団が杭州湾に上陸して迂回進撃して中華民国軍の側面を突くと、上海を囲んでいた中華民国軍は崩れて上海橋頭堡の戦いは終息した。

 機動戦では、日本軍が完全に上手だった。

 

 そして今度は連合軍の反撃だった。

 

 春から夏にかけての航空撃滅戦で、中華民国空軍はほぼ活動を停止し、各地の爆撃によって中華民国の交通網は大混乱に陥っていた。

 中華民国に派遣されていたイギリス本国空軍部隊も、損害と補給の遅れから活動がほとんど停止していた。

 しかも6月からは、ソ連と睨み合っていた日本軍部隊も中華民国への攻撃に参加するようになったため、連合軍の戦果は大きく拡大した。

 日本本土で動員された師団も、続々と攻勢発起点となる満州北西部や上海橋頭堡に派遣された。

 

 8月4日、準備を終えた日本陸軍を中心とする連合軍は、中華民国に対する作戦「一号作戦」を開始する。

 作戦名の意味合いは、単なる数字ではなく「始まりの作戦」という意味合いがあった。

 これ以後日本陸軍は、「二号作戦」、「三号作戦」と名付けていくようになる。

 

 作戦には、日本陸軍が約20個師団、アメリカ軍が2個師団が用意された。

 また北部では満州国軍が、4個師団を中心にした20万の兵力が用意された。

 自由英連邦軍も1個旅団参加した。

 

 日本軍の中には、まだ一つしかない戦車師団とこちらも一つしかない空挺旅団が参加していた。

 また各師団も自動車化率の高い師団が可能な限り組み込まれ、次の東南アジア侵攻に必要な部隊以外での主力部隊が殆ど参加していた。

 日本陸軍は自らの決意を示すように、機械化師団への改変を終えていた近衛師団まで戦線に投入している。

 近衛師団が前線に出るのは、日露戦争以来の事だった。

 しかし近衛師団の投入には一悶着あり、師団改変の際に大幅な兵員の移動が行われ、従来の兵士の多くが入れ替えられ、実戦向きの精鋭野戦師団へと大きく変貌していた。

 これは日露戦争以後の日本陸軍としては非常に大きな変化であり、陸軍全体としても戦争への決意の高さを見せる変化と言えるだろう。

 

 また少し変わったところで、日本陸軍でも最後となっていた騎兵旅団が戦列に参加していた。

 後方では馬匹による輸送も多く見られたが、既に騎兵の時代が過ぎ去った事を思うと、日本陸軍のノスタルジーを見せる一面と言えるだろう。

 

 総兵力は約80万人で、これを陸海合わせて700機の航空機が支援した。

 

 対する中華民国軍は、数だけは250万いると宣伝され主力は連合軍と対峙する形で布陣していた。

 しかし欧州枢軸や少し前のソ連から供与されていた重火器、機械化車両の殆どを喪失しており、精鋭部隊が既に壊滅している事も重なって、内実は既に壊滅したも同然だった。

 

 北京、天津はほとんど無血で開城された。

 首都だった南京前面には大軍が配備されて抵抗を見せたが、機械化部隊と航空機を多用した電撃戦の前には、ドイツ軍に対するパリ陥落直前のフランス軍以下の状況でしか無かった。

 呆気なく一点が突破されると、一気に瓦解して背中を見せて逃げ出す有様だった。

 

 北部での作戦指揮は、岡村寧次将軍(当時中将)が実質的な指揮を執った。

 同将軍は、日本陸軍の中でも電撃戦、機械化戦に明るく、この時の侵攻作戦でも戦車師団、戦車旅団、機械化師団、自動車化部隊を大いに活用し、航空隊と連携させた。

 後続する補給部隊にも、多くのトラックが動員されていた。

 このため迅速な進撃が行えたと言えるだろう。

 そして進撃する様は、今までの日本陸軍とは大きく違う近代的な軍隊の姿だった。

 


 作戦開始から約二ヶ月で、中華民国の華北、華中の主要な沿岸地域が連合軍の占領下となった。

 連合軍は主要な都市と鉄道沿線を落としただけなのだが、一旦崩れ出すと各地の軍閥が雪崩を打つように降伏した為だった。

 

 あまりの降伏ぶりに、占領地行政と補給の負担をかけることが戦略的目的の作戦なのではと疑われたほどだ。

 だが、軍閥の頭領(名目上は将軍)などに話しを聞いてみると、満州の張作霖が蒋介石に代わる新しい支配者になると考えての行動でしかなかった。

 実際、華北から南下した満州軍は、各地で新たな中華世界の支配者として振る舞っていた。

 この事は日本が慌てて止めたのだが、中華世界の独自性を深く考えていなかった連合軍の失策とも言えるだろう。

 

 いっぽうで重慶に籠もる蒋介石率いる国民党は、徹底抗戦を唱えて欧州枢軸各国に悲鳴のような支援を要請していた。

 欧州枢軸も、中華民国を決して見捨てないと宣伝した。

 

 このため連合軍は、重慶攻略を目指すため揚子江内陸部への侵攻を決意し、年内には航空隊の出撃拠点とする予定の武漢一帯の占領を目指す作戦準備に入ることとなる。

 

 だがその前に、海南島の攻略を行わなくてはならなかった。

 このため秋口に日本軍は本格的に南に向けて動きだしていた。

 


 インドシナにも近い海南島は、海路での欧州枢軸最後の中華民国支援ルートで、無視できない規模の支援物資を依然として届け続けていた。

 さらに敵の手のままだと、インドシナ進駐、東南アジア侵攻の大きな障害ともなる。

 しかも1941年春頃には、東アジアの欧州枢軸海軍は大きく増強されていた。

 

 41年2月にインド洋に進出していたイタリア海軍の大艦隊が、4月にはシンガポールへとさらに駒を進めた。

 そしてイギリス東洋艦隊と共に、香港、海南島へも進出するようになっていたからだ。

 英東洋艦隊と合わせると、戦艦だけで12隻と日本海軍の総数を超える巨大な戦力だった。

 

 連合軍はこの大戦力の目的が、上海方面の増援阻止及び補給路遮断と考え、日本海軍を中心にして台湾、フィリピン北部に大艦隊を展開して牽制を続けていた。

 また、香港を取り巻く広東近辺は既に日本軍の占領下だったが、こちらへの補給路維持のために日本軍も守ってばかりもいられなかった。

 

 このため1941年初夏に、俄に東アジアで海上戦闘の機運が高まっていた。

 

 最初の戦いは1941年5月、広東を目指す日本の補給船団を、枢軸艦隊が攻撃した事で発生する。

 


 「香港沖海戦」と呼ばれる戦いには、日本側が軽巡洋艦《長良》《天龍》《竜田》と駆逐艦4隻、海防艦4が参加した。

 このうち海防艦4隻は高速輸送船6隻を護衛していたので、実際戦闘に参加したのは軽巡洋艦3、駆逐艦4隻だった。

 《天龍》《竜田》は戦争がなければ予備役に入っている予定の旧式艦だが、戦争になったため護衛用など二線級用に使用継続が決まり、この時も慌てて即時出撃可能な艦として臨時に組み込まれたものだった。

 対する枢軸艦隊は、イタリアの《ザラ級》重巡洋艦4隻を中心として軽巡洋艦2、駆逐艦6隻と圧倒していた。

 

 戦いは白昼だったが、動きだしたのは日本側が先だった。

 日本艦隊の《天龍》《竜田》は、旧式艦のため当時は実験艦的な扱いも担っており、他艦に先駆けて対空捜索用の21号電探、水上捜索用の22号電探をそれぞれ装備していた。

 このため、目視発見より前に未確認の艦隊を発見することに成功した。

 

 日本側は輸送船団にいち早く転進と後退を行わせ、護衛以外の残りが煙幕を展開しつつ戦場に残った。

 

 先手を取られたイタリア艦隊だったが、相手を見て安心した。

 相手は小規模な水雷戦隊で、自らの戦力が圧倒していたからだ。

 そして展開されつつある煙幕の向こうに、航空偵察で報告された輸送船団がいると考えた。

 

 イタリア艦隊は、もちまえの高速で急接近して距離2万で砲撃を開始したが、日本側はジグザグに航路を取るなどまともに組み合わず、輸送船団が退避する時間だけを稼いだ。

 砲撃を開始するまでにも時間がかかり、日本側の艦隊行動によって進路も輸送船団からはかなり離されていた。

 

 そして日本艦隊の動きに、イタリア側も日本が後方の輸送船団が近いと考えて突撃を開始すると、今度は斜め後方に進路を取りつつイタリア艦隊との距離を保った。

 そして重巡洋艦の8インチ砲だと、距離2万メートルも離れると遠距離射撃となり、相手が回避行動に専念していると命中弾を得ることは非常に難しかった。

 この時もおおむね2万メートル以上離れており、日本側が砲撃せず回避と艦隊運動に専念したので、圧倒的優勢なイタリア艦隊は至近弾以上を得る事ができなかった。

 イタリア艦隊はさらに駆逐戦隊が突撃したが、こちらには日本の軽巡洋艦が距離1万5000メートル辺りから阻止砲撃を実施して混乱を誘い、イタリア駆逐隊の突撃はうまくいかなかった。

 加えて、イタリア駆逐隊の突貫も士気の低さのためか甘かった。

 

 そうして距離を開けて緩慢な砲撃戦をしていると、日本側の陸上攻撃機9機が姿を見せてイタリア艦隊に水平爆撃を仕掛ける。

 この時直撃弾は無かったが、重巡洋艦に至近弾が数発あって多少の損傷をしたが、この時点ではまだイタリア艦隊は戦意を失っていなかった。

 しかし、水平線上に別の複数のマストを確認すると後退を決意し、海戦はイタリア艦隊の後退という形で終幕する。

 日本側が急ぎ送り込んでいた、後方で作戦行動中だった巡洋艦戦隊が間に合ったのだ。

 

 そしてその後日本艦隊は輸送船団が往路へと引き返して無事輸送を成功させたため、戦略的にも日本の勝利に終わった。

 

 この、「戦争中で最も地味な海戦の一つ」と言われた戦闘が、東南アジアを巡る戦いの始まりとされ、同時にイタリア海軍が史上初めてアジアで戦った戦闘となった。

 

 なぜなら日本が広東方面への輸送を成功させた事で、日本側は現地の航空基地を大幅に拡張して、周辺の制空権を確実にしたからだ。

 このため欧州枢軸の香港への接近は夜以外は完全に出来なくなり、その頃上海方面で進んでいた中華民国軍の攻勢を援護することが出来なくなった。

 一度だけ行われた欧州枢軸側の輸送作戦も、日本海軍の航空機によって大損害を受けて失敗した。

 

 しかも6月に日本が上海に大規模な増援を送り込んだときも、日本側が制空権を得た香港近辺まで有力な艦隊を派遣して牽制した為、欧州枢軸の艦隊は戦艦数で圧倒するのに、積極的な行動は封じ込められてしまう。

 欧州枢軸側は大きく損傷した場合に近場で修理できない事が、動きを消極的とさせていた。

 

 そして欧州枢軸側にとっての中華地域の橋頭堡は、残すところ海南島だけとなってしまった。

 

 このためこの時のイタリア艦隊は、自らの損害に構わず徹底的に攻撃するべきだったと言われることが多い。

 しかし日本軍の補給や輸送を阻止続けないと意味がないので、大勢には影響は無かったとも言われている。

 


 そして1941年7月、日本軍を中心とする連合軍が攻勢に転じた。

 

 1940年12月5日の「南シナ海海戦」以来の、日本海軍の大規模な作戦だった。

 またアメリカのアジア艦隊も戦列に参加しているため、アジアで初めての合同艦隊による作戦でもあった。

 

 連合軍は海南島攻略に、欧州枢軸が本格的な阻止に出てくると考えていた。

 針の一穴ではないが、海南島で防がないと欧州枢軸の東南アジア戦略が瓦解する可能性が強まる筈だからだ。

 そしてここで守れないと、オランダ領東インドが生き残りのため連合軍に降伏もしくは合流する可能性が高まり、連鎖的にオーストラリア、ニュージーランドが連合軍側に立つ可能性まで高まってしまうと考えられていた。

 

 また海南島は、フランス領インドシナが枢軸側に属していないため、マレー方面から香港への唯一の中継地で、航空機の傘をかけることの出来る場所だった。

 つまり香港を完全に孤立させない為には、海南島の維持が必要だった。

 

 そうした政治的意図、戦略的意図も含んだ作戦のため欧州枢軸側の激しい抵抗を予測して、可能な限りの戦力が準備されたのだ。

 そして日本海軍は、1940年冬以来の大艦隊を揃えて一気に押しきろうとした。

 

 一方の欧州枢軸側は、既に中華での敗北は避けられず、時間稼ぎ以外は考えていなかった。

 またイギリスは、連合軍の予測とは違ってシンガポールが戦略的な意味合いで陥落しない限り、オーストラリア、ニュージーランド、蘭領東インドの離反や「寝返り」はないと考えていた。

 

 加えて遠隔地への補給の負担が耐えられなくなる前に、次の防衛線、主にイギリスにとっての本当に守るべき線への速やかな撤退と再布陣を企図して動いていた。

 

 このため中華に送られる「予定」で運ばれていた兵器、部隊はインドから東南アジアへと入り、中には軍団規模の大部隊までがマレー、シンガポールへと続々と流れていた。

 

 だが、中華民国が簡単に手を挙げない為にも、インドから中華地域への援助ルート(ビルマ=雲南ルート)の開設が急がれた。

 同時に、日本軍を東南アジアで迎撃するための準備も進められた。

 

 かくして戦争のステージは、中華地域での戦闘を残したまま、東南アジアへと移っていく。

 


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