フェイズ83「WW2(77)カレー上陸作戦3」-1
北フランスに第一歩を記した連合軍将兵は、空挺部隊の将兵だった。
空挺部隊のうちパラシュート降下する空挺兵の精鋭中の精鋭は、英本土南部各地の飛行場から5月8日夜に飛び立った。
米第82空挺師団、米第101空挺師団、英第1空挺旅団のうち、グライダー部隊を除く全てで、主に二手に分かれて降下した。
主力は上陸東側のパ・ド・カレーに近い沿岸部の後方。
一部が砲撃と空襲で破壊できなかった堅固な砲台の破壊をする他は、ドイツ軍増援部隊の沿岸突入を妨害しつつ、沿岸部から友軍が進軍してくるまで現地を守る。
もう一つは、西部のソンム川に架かる橋を全て落として、西方からのドイツ軍の増援阻止を任務としていた。
東側はアメリカ第101空挺師団とイギリス第1空挺旅団が、西側はアメリカ第82空挺師団が担当する。
彼ら以外に救国フランス第一空挺旅団なども、作戦の計画段階では参加を予定していたが、別の作戦がほぼ同時に動くため参加を見合わせていた。
また、ノルウェー作戦に参加した日本海軍の空挺旅団も同様だった。
このため大規模な作戦に対して、空挺部隊が不足するという認識が持たれた為、可能な限り別の面での戦力強化が実施された。
ここで大量に投入されたのが、曰く付きの機体である「中島 四式特型滑空機」だった。
約1年前の南仏上陸作戦でデビューを果たしたドイツのグライダー「Me321 ギガント」のコピー生産品だが、その後連合軍内で、積載量23トンという点などが高く評価されたため本家ドイツよりも大量に生産され、各地の戦場で空挺作戦を行ったりエンジン装備の輸送機型が活躍していた。
ドイツ軍では曳航する大型機が不足していたが、連合軍には十分な性能の大型機があったため、グライダー型も問題なく運用されたが、より贅沢ができる連合軍ではエンジン装備の輸送機型は通常の輸送任務にすら使われるほど生産されていた。
さらに、エンジンを強化して積載量を増やしたタイプも製造されており、この作戦に少数機が参加していた。
本作戦では80機のグライダー型が用意され、「M-24 チャーフィー」軽戦車、「M18 ヘルキャット」対戦車自走砲、105mm榴弾砲などが第二波のグライダー降下の際に投入されることになっていた。
それ以外にも約7トンの積載量を持つ一般的なグライダーも多数投入され、重爆撃機に曳航される事となる。
危険な夜間パラシュート降下は、概ね成功した。
その夜の気象も安定していたし、5月10日が新月のためほぼ闇夜だった。
現地の風も機体が流されるようなことはなく、そしてパラトルーパーを運ぶ輸送機のパイロット達は、今まで何度も空挺作戦を行ってきた熟練者が多かった。
特に先導機は熟練者に操られていたため、ほとんど降下地点を違えることも無かった。
しかし当時の空挺作戦に100%の成功はあり得ず、輸送機から飛び降りるのが遅すぎた兵士は、降下地点を通過して海に出たところで降下してそのまま溺死するなど、10%以上の兵士が無為に戦死している。
またドイツ軍も、連合軍のパラシュート降下は警戒していたため、連合軍の上陸作戦が判明した段階から降下予測地域での夜間の警戒を強化していた。
このため闇夜に降下するパラトルーパー達は、夜目の利くドイツ軍兵士によって発見され迎撃されてしまう。
数千もの落下傘は、当時絹で作られていた上に真っ白のままだったため、闇夜でも数千名も降りてくれば見つからないわけがなかった。
だが、警戒する兵士の数よりも、降下する兵士の数の方がずっと多かった。
何しろ各地で連隊規模、数千名が一斉にパラシュート降下するからだ。
また後方警備しているドイツ兵は、国民擲弾兵など練度などに問題のある兵士が多いため、夜間の戦いに慣れていなかった。
そして闇夜の遭遇戦となると、武装で勝っていない限りドイツ軍が不利な場合が多かった。
連合軍の空挺降下は概ね成功を収め、グライダーの降下地点、最優先で確保するべき橋などを次々に占領。
連合軍によって最初の村が解放されたのも夜間の事だった。
続いて第二波となるグライダー部隊が到着し、降下の失敗、ドイツ軍の妨害を受けながらも80%以上が目標地点への強行着陸に成功。
軽戦車やジープ、軽量な重火器などを多数の兵士と共に降下させ、一気に大きな戦力となる。
前後して空挺部隊の目標となる地域への夜間爆撃が実施されたが、夜間爆撃の常で攻撃の多くが失敗し、空挺部隊にその負担がのし掛かった。
だが兵士一人一人が精鋭であり、またドイツ軍の国民擲弾兵や張り付け師団の兵士よりも重武装な場合も多いため、連合軍の空挺兵達は夜明けまでに目標をクリアしていった。
そして夜明け頃の午前5時半。
兵士達は、北部沿岸一帯に渡って日々生きていた遠雷が轟くような轟音を聞く。
上陸作戦の開始だ。
これで空挺兵と戦っていたドイツ兵達も、空挺兵ばかりに構っているわけにもいかなくなる。
しかも空からは無数の連合軍機が押しよせて、手当たり次第に攻撃し始めた。
この中には連合軍空挺兵への誤爆も含まれていたが、状況は空挺兵に一気に有利になった。
しかも第三波として、さらなる増援の空挺兵と一部レンジャー兵が降り立った。
加えてパラシュート投下によって大量の兵器と補給物資が届けられ、空挺部隊は一段と強化された。
この時点で2万5000名に及ぶ空挺兵のほぼ全ても敵地に降下し、空挺部隊としては友軍の到着を待てばよいだけになった。
しかしそこは精鋭の空挺兵なので、偵察情報を友軍に送り続け、さらに敵の隙を見つけては攻撃した。
そして少し高い位置にいた空挺部隊の偵察兵は、沖合に並んだ揚陸艇の縦列が一斉に白い航跡を海面に絨毯のように描きながら進軍する様を目撃する。
午前6時30分。
上陸の開始だった。
上陸の第一陣は、半ば揶揄的に「海上機甲部隊」と呼ばれていた。
「M4」戦車を改造した40トンに達する「M11」水陸両用戦車と、各種LVT(水陸両用装甲車)によって編成されているからだ。
しかもどちらも登場から年月を経ているため、改良型が多数を占めるようになっている。
「M11」は、上陸作戦時には重宝する榴弾砲はそのままながら、前面と上面に増加装甲を着けたタイプが増えていた。
それでも大口径の短砲身榴弾砲搭載型や、3インチ速射砲搭載型も若干含まれるようになっていた。
LVTは、短砲身75mm榴弾砲を装備したアムタンクと呼ばれる車両が一定の割合で含まれていた。
特に上陸の第一列は、「M11」とアムタンクだけで占められており、並の機甲部隊よりも強力なほどだった。
しかもアメリカ軍は「M11」の成功に味を占めて、さらに大型の戦車の水陸両用型を開発しており、ギリギリ間に合った一部が実戦参加していた。
「M26-LV」と名付けられた車両で、その名の通り「M26」中戦車の上陸用だった。
もともと42トンもある戦車の外装を一部改造し、その前後にフロートと推進装置を脱着式に付けたものだが、総重量は55トンに達した。
またフロートが大きくなりすぎたため、上陸したらすぐにパージしないといけないなど、戦場での柔軟性にはやや欠けていた。
しかし90mm砲の火力と最大100mmを越える装甲は魅力であり、約20両がこの時の上陸作戦で米陸軍第1師団に配備されていた。
なお、大戦終盤の「M26」戦車の初陣だが、この戦いが系列車両全体での初陣と誤解されやすいが、実際は南仏戦線への投入の方が2ヶ月以上早かった。
そしてカレーの沖合でも「M26」戦車の姿はごく一部に限られ、主力は300両以上揃えられた「M11」で、速射性能の高い75mm砲から榴弾を矢継ぎ早に放って、沿岸陣地を圧迫しつつ強引な前進を行った。
また、彼らの前には突撃砲艦と呼ばれる小型の砲艦が各所に陣取り、小型ロケットランチャーと無数の機関砲、機銃を、船体が爆発したようになりながら放っていた。
少し後方に陣取る全面ロケットランチャーの支援艦も、爆発するような火力の投射を開始していた。
そして沖合には、1個連隊に1隻と言われるほどの戦艦が群れており、盛んに巨砲を沿岸に送り込んでいた。
戦艦1隻の火力は7個師団に匹敵すると言うが、39隻だと270個師団分という事にもなってしまう。
こうした連合軍の上陸風景は、敵手であるドイツ軍にとっては意外に馴染みが薄かった。
ドイツ軍が体験した大規模な上陸作戦は、実のところ殆ど無かったからだ。
ほとんどはフランス軍とイギリス本国軍が受けたもので、ドイツ軍の場合は経験した兵士がそのまま敵地に残されて帰国していない場合が多かった。
インドから後退を続けに続けたロンメル将軍の部隊が例外といえるが、彼らの生き残りのほとんどが将軍と共にハンガリー方面で戦っていた。
そして連合軍の前に陣取るのは、急速に進歩、大規模化した第二次世界大戦の戦いを知らない老年兵が多かった。
傷病兵の中には経験者もいたが、敵の上陸まで頭を低くして壕に伏せておく以外に手だてはなかった。
だが、連合軍が予測していたよりも、ドイツ軍の沿岸陣地は破壊されていなかった。
一見SF小説に出てくる月面のようだと言われるほど穴だらけの荒廃した大地になっていても、地下、半地下に作られたトーチカなどの陣地は驚くほど強靱だった。
十分な深さに掘られた塹壕だけでも、砲爆撃で破壊するのは難しかった。
この事は第一次世界大戦から変わらない事で、圧倒的物量を有する連合軍の攻撃でも変わりは無かった。
しかし逆に、全く無傷というわけでは無かった。
事前攻撃でも集中的に狙われた大型の沿岸砲台の90%以上、500門以上が連合軍が上陸するまでに破壊されていた。
砲口が外に露出していないといけないので、どうしても撃破されやすかった。
各所のレーダー観測所などは、跡形も無くなっていた。
上空に向けて露出していないと意味のない高射砲陣地も、ほとんどが破壊されていた。
重砲トーチカなどは、大きくなまじ目立つため破壊しやすかったと言えるだろう。
それでも陣地の多くは健在で、兵士達は陣地の奥で耐えつつ連合軍の上陸を待ちかまえていた。
連合軍の上陸正面には、張り付け師団が3個。
そのすぐ脇の東に1個。
少し後方に張り付け師団が2個と、半自動車化されている一般の歩兵師団が2個展開していた。
そして反撃の要となる装甲部隊だが、カレーの西側の装甲師団は実質的に動かせず、東側には2個装甲師団からなる有力な装甲軍団がいたが、ソンム川の西側ですぐには駆けつけられなかった。
またセーヌ川の西側には、機動戦力として装甲師団1個、装甲擲弾兵師団1個、歩兵師団2個が配備されていたが、これはノルマンディー上陸にも備えた配置なので移動には時間がかかる予定だった。
当面は張り付け師団3個、少し東の1個、それに加えて要塞都市化されたブーローニュとパ・ド・カレーの独自の守備隊(共に連隊規模)が上陸してくる連合軍を迎え撃つ全てだった。
だが、張り付け師団と言っても兵士の質は決して低くなく、ドイツ軍がカレー方面の防備を重視していたことは後の実戦からも明らかだった。
ただし、後方の張り付け師団は10キロ以上後方なので、本来なら半日以内に海岸線に到着予定だったが、連合軍の妨害によって到着まで1日以上かかった。
周辺の歩兵師団についても同様だ。
しかも少し後方の部隊のかなりが、降下してきた連合軍の空挺部隊と既に交戦中のため、半分も海岸に移動できそうに無かった。
さらに移動で自らの場所を晒せば、連合軍機の激しい空襲を受けた。
装甲師団に至っては、内陸部を迂回しないのならば、まずはソンム川の橋を確保する連合軍の空挺部隊を撃破しなければならなかった。
連合軍の上陸部隊の第一列が機関銃や軽迫撃砲の射程距離に入ると、一斉に火蓋が切って落とされた。
既に海岸まで数百メートル。
近い舟艇だと200メートルにまで接近していた。
火を噴いたのは歩兵の火器だけでなく、今までの攻撃を生き残った全ての火砲が火を噴いた。
中には戦艦用の38センチ砲まで含まれており、十分に防備され擬装された沿岸砲台の破壊の難しさを後世にまで伝えた。
そしてドイツ軍の全ての砲火は、沖合の艦艇には目もくれず接近する上陸部隊に向けて榴弾や散弾を放った。
海岸に接近する水陸両用車両や揚陸艇にその砲火が降り注ぎ、各所で爆炎を吹き上げた。
しかし第一列の「M11」は重機関銃程度では歯が立たず、直撃した迫撃砲弾を跳ね返す事すらあった。
そして逆に、75mm砲を撃ちかけて沿岸陣地からの攻撃を妨害し、着実に前進した。
また、後方の艦船からもより激しい砲火が、沿岸陣地や後方の砲兵陣地に降り注ぎ、撃破できないまでもドイツ軍の砲火を沈黙させた。
最後まで奮闘した38cm砲台には、実に10隻もの大型戦艦の集中砲火が浴びせられたと言われており、実際午前7時頃には砲台は瓦礫の山と化していた事が後の記録から判明している。
連合軍の第一列は、一部で隊列に乱れが生じた。
ドイツ軍の反撃によるものではなく、上陸を阻害するため埋められた障害物と敷設された機雷のためだった。
これらは事前に掃海部隊や工作部隊によって排除が進められ、そのほとんどは無害なまでに破壊もしくは除去されていたのだが、全てではないため影響を受けた形だった。
とはいえ全体から見れば限られており、6箇所同時に上陸作戦を進める連合軍の鋼鉄の波を押しとどめるだけの力は無かった。
また、海岸各所に隠れていた多数のSボート(魚雷艇)が、夜明け前ぐらいから各所で攻撃を仕掛けたが、連合軍も反撃は折り込み済みだったため、各地で激しい戦いが行われるが、連合軍は大小30隻程度の艦艇(ほとんどが小型艇)が沈められたに止まっていた。
他にも波打ち際にはコンクリート製の障害物などもあったのだが、多くは既に破壊されていたし、現地ドイツ軍の方針が敵を内陸に引き入れる方向だった為、設置された数そのものが少なかった。
最初に上陸したのは、強固な装甲を有する水陸両用戦車の「M11」と「M26-LV」だった。
そしてどちらも、本来なら上陸してすぐに前と後ろのフロートを強制パージするのだが、ほぼ全ての車両が後ろをパージしただけでそのまま進軍を続けた。
前のフロートを「弾避け」に使うためだった。
どうせ簡単に生産できるものだし、機銃弾を防ぎ、うまくいけば簡易ロケットすら効果を大きく減殺できると言うことで、南仏上陸作戦の頃から連合軍将兵が行いだした現場の戦術だった。
この戦いでも有効に機能し、中には何発ものパンツァーファウストを受けても平然と活動する「M11」もあった。
そして第一波として上陸した水陸両用戦車とアムタンクが、前進できるだけ前進したところで臨時トーチカとなると、すぐにも通常のLVTによる第二列が上陸を敢行し、浜辺に溢れる連合軍兵士が一気に数を増した。
兵士達はLVTなどを盾として果敢に前進し、後方の艦船に連絡したり友軍機を呼び寄せて敵陣地を攻撃させ、着実に橋頭堡を広げていった。
そうして沿岸部のドイツ軍が駆逐され中型艇が接近できるようになると、主にイギリス軍の橋頭堡には変わった形の装甲車両が揚陸されてくるようになる。
元英本国軍だったホバート将軍らが開発した、特殊装甲車両群だ。
主に「チャレンジャー」歩兵戦車を流用、改装して作られた車両が多かった。
基本的には、車体機銃座に火炎放射器を装備した「クロコダイル」、主砲を臼砲にした戦闘工兵車の「AVRE」だが、戦闘工兵車は他にも地雷原を突破するための新装備を搭載した車両、陣地に接近して爆薬を仕掛ける車両など様々な車両があった。
変わり種だと、「ボビン」という装置で砂浜や湿地など軟弱地に厚手の絨毯を敷いて道を造っている車両まであった。
これらの車両は英第79機甲師団だけでなく、英第50師団、カナダ第3師団も装備しており、もと英本国兵の予想に反して海岸部での進撃、敵陣地の破壊などに大きな威力を発揮した。
米軍の使用する「M11」や「M4」の中にも臼砲搭載型や火炎放射器搭載型もあったが、イギリス軍ほど徹底した改造車両ではなく、相対的に見てアメリカ軍の方が水際では苦戦していた。
一番東側に上陸したアメリカ海兵隊は、間隔を狭めてほぼ横並びで上陸したのだが、これが前面の敵防衛部隊主力を挟み撃ちする形になった。
しかも海兵隊は上陸作戦に最も慣れているうえに、そもそも上陸作戦の専門部隊なので、上陸と海岸部での戦闘は最も優位に運ぶことが出来た。
戦場伝説として、海兵隊の兵士達が海兵隊行進曲や海兵隊賛歌、さらには訓練時の少し卑猥な曲を歌いながら上陸を行ったというものがある。
これが隣の救国フランス軍のライバル心をかき立て、彼らは祖国への第一歩を記すに当たり「ラ・マルセイエーズ」を歌った。
そしてさらには上陸部隊全体に、歌を歌いながらランディングしていく事が波及したと言われている。
しかし、各師団の間隔はキロ単位で離れていたし、砲爆撃の音の砲がはるかに大きな音を立てていたので、隣の舟艇ならともかく数キロも離れた友軍にまで歌声が聞こえたとは考えにくい。
このため、偶然に各上陸部隊が自らを象徴する歌を歌いながら上陸していったと考えられている。
最も困難な上陸地点は、最も東側のカナダ第3師団と考えられていた。
ここはパ・ド・カレーのすぐ西側で、同地域の中で緩やかな半島上に突き出た場所に近く、生き残っている沿岸砲台からの激しい攻撃を受けると考えられていたからだ。
加えて正面には、1個連隊以上の防衛部隊も展開しているのは確実だった。
そして上陸作戦の一番東側にも当たるため、連合軍もイギリス海兵隊のコマンド部隊を増強するなど、非常に気を遣っていた。
艦砲射撃部隊が18インチ砲搭載戦艦の《モンタナ級》、46cm 砲搭載の《大和型》を中核としていたのも、東からのドイツ艦隊の突入に備えるというよりも、生き残った沿岸砲台に備えての事だった。
そして案の定1門取りこぼしていたため、激しい砲撃が行われた。
それ以外にも15cm重砲などかなりが生き残っていたため、各艦艇が危険を冒して距離を詰めての砲撃が行われた。
強固に建設されたドイツ軍の沿岸砲台は、駆逐艦の5インチ砲はもとより、巡洋艦の6インチ砲でも破壊が難しいからだ。
そして戦艦部隊は砲台や強固な陣地を破壊すると、今度は升目に沿って榴弾による規則的な砲撃を開始する。
日米合わせて12隻の大型戦艦による統制射撃は圧巻の一言で、現地を守備するドイツ軍を地下深くの陣地ごと破壊していった。
この砲撃では、榴弾は適切な高度での炸裂ではなく地表炸裂に設定されていた為、各所に大きなクレーターが作られていった。
さらに空からは、重爆撃機から小型単発の艦載機に至るまでが無数に飛来して、次々に目標もしくは目標と思われる場所に爆弾やロケット弾を投じていった。
そしてカナダ第3師団は激しい抵抗を受けながらも順調に橋頭堡を拡大し、カレー側面に部隊を展開させるまでに進出することに成功する。
それでもドイツ軍が頑健に抵抗したため、カナダ第3師団は上陸作戦に参加した師団の中で最も多くの損害を受けた師団となった。
「血染めの第3師団」というニックネームは、彼らにとっての名誉称号だった。





