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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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111/140

フェイズ76「WW2(70)ノルウェー侵攻準備」-1

 1945年6月のイギリス本土の「華麗なる変わり身」と揶揄されることもある事実上の寝返りを当初最も喜んだのは、アメリカ陸軍ヘンリー・アーノルド元帥だと言われる事がある。

 


 アーノルド元帥は、アメリカ空軍生みの親であり、たびたび心臓発作を起こすという病身をおして空軍を作るために第二次世界大戦を奔走してきた人物だった。

 しかしアメリカ市民の目から見て、戦争で活躍したのは海軍と陸軍だった。

 空軍、というより航空機こそが第二次世界大戦の立て役者なのだが、支援や事前攻撃などを行っているだけのような印象が強かった。

 しかも大戦初期は、アメリカ、日本共に小規模ながら本土爆撃を受けて、最も批判されたのは航空隊(空軍)だった。

 

 そして空軍単体での目立つ活躍の場となると、相手国の重要拠点や本国に対する大規模な空襲しかなかったのだが、第二次世界大戦でそのような戦場はほとんど無かった。

 1942年初夏から1943年秋にかけての中華民国首都重慶に対する爆撃が一番大規模だが、当時はともかく戦争全体から見れば局地戦程度の規模でしかなかった。

 それに中華民国との戦いは、1941年夏の平原地帯での地上戦がクライマックスで、あとは敗残処理や消化試合的な見方しかされていなかった。

 戦い自体も一方的だったので、アメリカ本国では話題にもならなかった。

 それにアメリカ人の見るところ、極東での戦いはアジア人同士の戦争に過ぎなかった。

 

 1944年半ば以後になるとヨーロッパに対する爆撃が可能となったが、今までの戦争の経緯から連合軍空軍全体の装備体系と兵力が、大規模な戦略爆撃を行える状況ではなかった。

 これまでの戦争では、航空機は戦闘機と戦術攻撃機(爆撃機)が重視され、生産の方も戦略爆撃に必要な重爆撃機の生産は常に控えられていた。

 安価な双発の「B-25」爆撃機が改良型を含めて2万機以上生産されたのに対して、最も生産された4発の重爆撃機「B-24」でも5000機に達していなかった。

 ボーイング社が熱心に売り込んだ「B-17」の生産数は、アメリカとしては少ない3000機程度だった。

 しかも4つのエンジンを搭載する大型機である重爆撃機は生産単価が高いため、各国の財務担当者が大量生産を嫌っていた。

 墜落した時の搭乗員の損失の多さも、政治家からは嫌われた。

 「B-24」の生産数が比較的多いのは、非常に長い航続距離と搭載量を買われて対潜哨戒機、偵察機として使われたからだ。

 それでも次世代機として破格の性能の爆撃機の開発が行われたが、政府や軍全体はともかく市民は期待していなかった。

 


 また、連合軍内にアーノルド将軍の味方も少なかった。

 

 アメリカ陸軍以外に4発の大型機を多数保有するのは、日本海軍航空隊だったが、日本海軍航空隊は洋上作戦を極めて重視する戦術空軍だった。

 能力と装備は戦略爆撃(無差別爆撃)にも適していたのだが、運用する当人達にその気がなかった。

 皆無ではないが乏しかった。

 日本人の一般的感情からも、一般住民の住む都市の無差別爆撃などは受け入れがたく、戦略爆撃(無差別爆撃)は他に手段がない場合に限り目標を絞って行うものだという認識だった。

 その最たる例が、中華民国に対する重慶爆撃だった。

 そして日本海軍航空隊は、重慶爆撃を唯一の例として他では戦術爆撃しか行っていなかった。

 

 日本海軍航空隊にも戦略爆撃論者は皆無では無かったが、軍の中枢に強い支持者はいなかった。

 空軍としての海軍航空隊に理解がある当時の日本海軍の重鎮は、山本五十六提督(※開戦時は聯合艦隊司令長官、1943年秋から軍令部総長、1945年に元帥に昇進。)と井上成美提督(※開戦時は海上護衛艦隊司令、1943年秋から軍令部次官)が代表的とされる。

 だが、山本提督は政治家志向な上に海軍全体の利益を考えていたし、井上提督も空母機動部隊など水上艦隊との連携前提の考えだった。

 前線で日本海軍航空隊を率いた塚原提督、武部提督、大西提督、吉良提督、寺岡提督らのうち、基地航空隊論者は大西提督ぐらいで、彼も戦略爆撃を推していたわけではない。

 武部提督と同期の小沢提督も、合理的な一方的攻撃論は展開していたが、基本的には「海の男」で空母機動部隊の信奉者だ。

 

 日本陸軍航空隊は、どこまで行っても小さくまとまりたがる戦術空軍なので、独自空軍に賛同はしてもアーノルド将軍の同志や支持者にはなり得なかった。

 それに「日本空軍」を作れるほどの政治力を持つ軍人が皆無だった。

 自国の海軍と海兵隊は、組織的には「敵」でしかない。

 

 流浪の身の自由イギリス軍は第一次世界大戦から空軍を有していたが、何かを期待するのは無理だった。

 空軍の一つのテストケースとされた満州帝国空軍は、爆撃機にも理解が深いドーリットル将軍の半ば私物と化していたが、「借り物」の軍隊と戦場でできる事は限られていたし、ロシアの空でやっていることはあくまで戦術空軍だった。

 ベルリンへの奇襲的な爆撃は、ドーリットル将軍個人の考えはともかく例外的な事でしかなかった。

 

 つまりアーノルド将軍と彼の一派は、孤独な戦いを強いられていたと言ってもよいだろう。

 同志としてならば、イギリス本国に残っていたハリス将軍などの方が適任だっただろう。

 加えて言えば、欧州諸国はほぼ全て独自の空軍を有していた。

 アーノルド将軍にとっては、皮肉な状況と言えるだろう。

 

 

 1944年半ば、エジプトのポートサイド郊外に重爆撃機用の長い滑走路を備えた空軍基地が設営され、期待の「ボーイング B-29 スーパーフライングフォートレス」超重爆撃機が作戦行動を行うようになった。

 だが最初の頃は、革新的な新兵器にはよく見られる見るも無惨な稼働率で戦果も少なかった。

 44年秋に行われたルーマニアのプロエシュチ油田への爆撃も、最初は無惨な失敗をした。

 そして何より、費用対効果、犠牲の大きさなどを考えた場合、従来どおりの戦術爆撃で十分というのが連合軍全体、アメリカ全体の総意だった。

 加えて言えば、空軍独立に理解のある人の多くも、前線がヨーロッパにまで進んだとはいえ戦術爆撃を拡大すれば十分だろうと考えていた。

 今まで多くの発注を受けていた航空機メーカーの多くも、自らの利益のために戦術爆撃論を推した。

 

 重爆撃機を一度に何百機も飛ばして相手首都を爆撃するのは、成功すれば政治的効果は見込めるし、実際に多くの損害を与えられる可能性もあるとは考えられていた。

 重工業都市などへの継続的な無差別爆撃も、高い効果は十分に予測された。

 兵器を前線に配備させない状況に敵を追い込む事こそが、効率的な戦争展開でもあった。

 しかし、後方の拠点や都市は敵も十分に防衛することは明白であり、戦場がヨーロッパになると敵が守るべき場所は多いが密度が非常に高まるので、激しい迎撃が予測された。

 実際、何度か行った攻撃では大損害を受けた。

 

 それでもアーノルド将軍ら空軍信奉者、戦略爆撃論者は、前線で敵と戦うよりも敵国の生産力、国力に直接損害を与える方が、最終的には少ない犠牲と高い効率で勝利できると論陣を張った。

 

 そして一部の支持もあって、彼らにとっての中規模、300機程度の編隊を週に1、2度編成し、まずは北イタリアから爆撃を開始した。

 しかしイタリアでの戦いは、連合軍の圧倒的優位で進んだため、戦略爆撃の効果があるのか分からないまま、比較的短期間で決着がついてしまった。

 効果が認められたのは、鉄道路線、運河、道路網に対する継続的な爆撃ぐらいだった。

 しかも連合軍側となったイタリア政府からは、無差別都市爆撃は文化遺産を破壊するだけだと非常に強く非難された。

 

 それでも、続いてドイツ南部への爆撃が開始されたが、どういう経路を通ってもアルプス山脈を越えて進撃しなくてはならないので、山脈を越えるときは中高度の3000メートル以上を飛行する方が望ましく、当然燃費が悪くなり効率という点で不満があった。

 加えてドイツ南部は、高地や山岳地帯という事もあって目標に乏しかった。

 加えてドイツも、泥縄式ながら分厚い防空網を構築して対抗した。

 

 もちろん、効果もあった。

 一番の効果は、欧州枢軸、特にドイツに防空網の整備のために、非常に多くの戦争資材と人的資源を使わせた事だった。

 この点は、連合軍が爆撃のために使った人的資源よりも多いと言われており、目に見えない効果は高かったと結論もされている。

 しかし戦争中には、多くのことまでは分からなかった。

 犠牲も損害も数字上の事と割り切って、爆撃を続けるしかなかった。

 そして一旦始めた以上、許可した戦略爆撃論者以外の者達も止めるわけにはいかなかった。

 


 そこにイギリス本土の、呆気ないほどの降伏という体裁の寝返りが発生する。

 

 これで十分な出撃拠点が得られたと、アーノルド元帥らは非常に喜んだ。

 しかし連合軍として、優先してやらなければならないことは、ドイツ本土に攻め込むことでも、爆撃することでもなかった。

 イギリス本国の国民を食べさせる事だった。

 国家として、連合軍として、そして自由を旗印をする人々にとしては、それこそが何よりも優先するべきだった。

 

 それでも秋ぐらいからの中規模の爆撃を計画したが、今度は秋までに欧州本土北部に大規模な上陸作戦を決行するべきだという日米陸軍の一派が立ちはだかった。

 早期上陸作戦派は、今ならドイツ、フランスの北部沿岸は無防備に等しいので、自分たちが準備不足でも上陸作戦は十分に可能だと熱心に説いた。

 しかも、本来なら秋口にはブリテン島への大規模な上陸作戦の準備が、ずっと前から進められていたので、揚陸機材や物資の多くは既にアメリカ本土の東部沿岸に準備済みだった。

 

 しかし双方ともに、願いは叶わなかった。

 

 イギリス本国の民衆に十分な食糧を届けるという表向きの目的、イギリス本国を戦争に利用するという本当の目的のため、イギリス本土に物資を運び込むことが優先され続けた。

 そして二つの派閥の対立の間隙を突いて、上陸も爆撃もあまり関係のない日米海軍の艦隊派とでも呼ぶべき攻撃的な人々が、欧州北部沿岸、さらにはドイツ北西部沿岸の大規模な攻撃を実施した。

 そして大成功を納めてしまい、派手やかな勝利の報道がさらなる攻撃続行を促した。

 その後イギリス本土からのドイツへの空襲が開始されたが、それは海軍に続いた形でしかなく、しかも戦術爆撃の比率が高いもので、アーノルド将軍らの望んだ形からは大きく外れていた。

 

 しかも勢いを得た海軍の艦隊派は、海兵隊、陸戦隊を巻き込んで、さらなる攻勢を、他よりも先に実施した。

 

 それがノルウェー奪回作戦だった。

 


 ノルウェーは1940年4月8日からちょうど2ヶ月後の6月8日まで行われた戦いで、ドイツ軍の占領下になった。

 ドイツ軍と英仏軍の作戦開始はほぼ同時だったが、ドイツ軍の方が明確な侵攻意図を持ち作戦も戦力も揃えていたのに対して、英仏軍の対応は後手後手にまわり、さらに西欧正面での戦いも始まったため、なし崩しに撤退するしかなかった。

 

 その後イギリスに逃れたノルウェー王室と政府は、7月のイギリス降伏を受けて自らも亡命を止め、ドイツの言うがまま本国にもどった。

 だが王族数人が、イギリスのカナダ脱出の際に同行していた。

 そして連合軍の助けを受けて、有志をつのって自由ノルウェー政府を樹立した。

 その後は、新たな国際機関のメンバーとして活動はするが、軍事力は皆無なので大きな活動はしたくてもできなかった。

 自由軍を作ろうにも、僅かな義勇兵が集まっただけだった。

 

 しかし1945年6月にイギリス本土が連合軍側となり、夏に連合軍海軍が活動するようになると注目されるようになった。

 


 ドイツ軍にとってのノルウェーは、基本的にはスウェーデンで産出される鉄鉱石を運ぶために必要だった。

 本来は、イギリスと戦うに際して北海に封じ込められないための艦艇や潜水艦の出撃拠点を確保する事にあったが、イギリス本土が降伏したのでその必要性もなくなった。

 必要性が出てきたのは、1944年夏頃に連合軍がヨーロッパにまで攻撃してくるようになってからだった。

 北アフリカでの戦いに敗北する頃に、大西洋沿岸防衛のための第5航空艦隊が再建の形で配備され、何度か連合軍の艦隊を攻撃した。

 しかし中途半端な戦力では、強大な連合軍の艦隊相手に消耗するばかりで、大きな働きをする事はできなかった。

 また、一部港湾施設はUボートの出撃拠点として使われるようになって、こちらはかなり有効に機能した。

 

 しかし、1945年8月から始まった連合軍空母機動部隊の激しい攻撃で大損害を受けた。

 その後夏に受けた損害を補充して、さらには増強までしたが、翌年2月までにさらに二回の大規模な攻撃を受けて、損害を積み上げるだけに終わった。

 

 港と飛行場が何度も攻撃されたので、冬に入ってからの鉄鉱石の輸送効率は前年度と比べると悲惨な状況に追いやられた。

 しかも連合軍の潜水艦が、常時ノルウェー沖で輸送船狩りを行うため、損害はさらに膨れあがった。

 ドイツ軍が洋上に哨戒機を飛ばせば、イギリス本土から戦闘機が飛んだ。

 場合によっては、護衛空母数隻を中核とした小規模な空母部隊が出てきて、商船狩りと哨戒機を追い払う両方をした。

 水雷戦隊が輸送船狩りに現れた事もあった。

 

 ドイツ空軍は洋上での作戦能力を殆ど失っていたので、希にしか反撃できなかった。

 だが一度だけ、誘導ミサイルを搭載した哨戒機数機を飛ばして、連合軍の護衛空母1隻を沈めたため、それ以後は流石の連合軍も貧弱な空母部隊や水雷戦隊を沿岸部にまで派遣しなくなった。

 その代わり、主に日本海軍航空隊の四発重攻撃機がナルビクなど北部まで日常的に飛ぶようになり、状況はより悪化した。

 

 こうして冬の鉄鉱石輸送ルートはまともに使えなくなり、ドイツを始めとした欧州枢軸の鉄鋼生産は大きな影響を受けていた。

 ヨーロッパ各地で鉄鉱石は採掘されていたが、やはりスウェーデンの良質の鉄鉱石が使えないのは大きな痛手だった。

 


 連合軍内でノルウェー作戦が決まったのは、連合軍内の政治力学では主に日米の海軍が自らの存在価値を売り込んだ結果だった。

 だが戦略的には、英本土からドーバー海峡を押し渡るに際して、もう一つステップが欲しいと考えたからだ。

 

 ドーバー海峡を押し渡った先の上陸地点がカレー近辺なのは、誰の目にも確定的だった。

 ドイツ海軍もそこを第一に防備してくると予測された。

 実際、急ピッチで沿岸防御工事が行われ、これの阻止が連合軍空軍部隊の日課となっていた。

 このためノルマンディー海岸などの対案が出て一時は有力視されたが、ロシア人のベルリンへの距離の近さを考えると、多少の危険を冒してでも少しでもベルリンに近い場所に上陸しなければならなかった。

 そしてカレー上陸の危険度を少しでも下げるため、少し先にノルウェー侵攻することが決まる。

 ドイツ軍の目を少しでも北欧に向けさせ、カレー正面の戦力を減らし、注意を逸らすためだ。

 

 だが、反対も多かった。

 カレー正面の戦力を減らす目的と言う点では賛成も多かったが、危険の多い狭く上陸が難しいフィヨルドに上陸することを陸軍が嫌がった。

 それに陸軍は、総力を挙げてカレー上陸の準備を進めたかった。

 空軍(米陸軍航空隊)は、表向きの理由はともかく、これ以上海軍に活躍されたくないという点で反対していた。

 しかしアメリカ海兵隊が海軍に付き、日本海軍は悪く言われることも多い異常なほどの団結を見せて、聯合艦隊、海軍航空隊、陸戦隊が総力を挙げることで結束した。

 もうこれだけで、作戦に必要な全ての兵力が十分に揃う状態だった。

 

 そして夏以後の海軍の活躍もあるし、欧州諸国特に北欧諸国(※と言っても、ノルウェーとデンマーク代表だけだったが)の要望もあるため、可能な限り早期のノルウェー作戦が決まる。

 


 連合軍総司令部のゴーサインが出るが早いか、連合軍海軍共同の作戦案が即座に提示される。

 随分前から作戦は立案されており、あとはいつ作戦を行うのか、どの程度の戦力を参加させるのかを調整するだけだったので非常に早かった。

 作戦を一日でも早く実施するため、日本海軍とアメリカ海軍の事実上のトップ(山本軍令部総長とキング海軍作戦部長)がサンディエゴ、ハワイで何度か会議に及んだほどだった。

 

 上陸支援は連合軍海軍が総力を挙げる。

 英本土からの航空支援は日本海軍航空隊(第十一航空艦隊)が行う。

 地上部隊は陸軍部隊も参加するが、上陸作戦はアメリカ海兵隊と海軍陸戦隊が出せる限りの戦力を出すことになっていた。

 陸軍が懸念とした空挺部隊も、日本海軍陸戦隊の1個旅団(海軍第一空挺団・堀内大佐(連合軍としては准将待遇)指揮)が、遠距離飛行訓練まで既に始めている状態だった。



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