2-5 彼の五月下旬頃。
『五月二十九日です。
この前の日記、何か元気がなさそうでした。気のせいだったらごめんなさい。でも、気のせいでなかったら心配です。……貴方は今、どうしていますか?』
日付はもう一週間も前だ。この十日ほどは頼まれていた資料探しに右往左往していたせいで彼女の店にいく時間さえとれないような有り様だった。
そのせいかどうかは知らないが、資料を取りにくる大野に日に日に人相が以前に戻っていると言われてしまう始末だ。
かといって、以前の人相も何も毎朝身支度に覗く鏡の中にある顔はいつもと同じ無表情な自分の顔だった。
まぁ、そう言う大野も大学に泊まりがけだったから人相云々は五十歩百歩だと思っている。
眠気に頭を振りつつ、日記の彼女の文字を何度も目で追う。そうこうしている間に今日の日付が六月の四日から五日に変わってしまった。
この忙殺されそうな毎日のせいでここ最近はカメラにも触っていない。文机の上にいつからそうして横たえてあったのか、臙脂色のもう一冊を引き寄せる。
しかし、そうして並べてはみたもののいざとなると開けない。それに開かずともそこに書かれた内容はほぼ憶えているのだからわざわざ今更開く必要もなかった。
書き出しは確か……そうだ……。
「彼女と、彼女の想い人に捧ぐ―――」
若い書き出しの文章を、喉の奥で笑いと共に噛み砕いて飲み下す。その言葉を贈った人のことを考えながら、自分と彼女はいつまでこうしていられるのかと考え込んでしまう。
するとそんな僕の気弱な心に連動するように手にした万年筆が彼女に嘘をつく。たった一行“大丈夫です”と。
彼女ともっと接したい。そう感じることが心の闇を一層大きく、濃くしていくのだと分かっていても――そうせずにはもう、いられなかった。
以前は平気だったこの夜の静けさが最近は疲れた身体に障る。
彼女に会いたい。
声を聴きたい。
臙脂色の表紙を閉じると表しようのない何かが頭をもたげそうになる。本当はそれが“何か”などというあやふやな物ではなく“不安”と呼ばれる類の物だと理解は出来た。
けれど、理解の先にあるものの正体を僕はまだ目にしたくはない。後はもう何も考えたくなくて、敷きっぱなしの万年床に倒れ込んだ。その途端しばらく陽に当てていなかった布団から舞った埃が視界一杯に舞い散る。
――明日の新幹線の時間を一本ずらそうかと考えたかも知れないが、どうだったか……意識はそこでプツリと途切れた。
***
翌朝、僕は意識が途切れる一瞬前にそう決めたように、出勤の新幹線を一本遅らせて彼女の店の前に立っていた。
――時刻は午前七時。
当然、店のシャッターはまだ閉ざされていた。彼女がこの古くて重そうなシャッターを開けるまではまだあと四時間程もある。
僕は昨夜書いた日記を鞄から取り出していつもそうするようにシャッターの脇にそっと置いた。
ガシャ、と僅かに当たってしまったのかシャッターが鳴る。僕は慌てて音が響かないようにシャッターの蛇腹に触れた。音は指先に震えを残して吸い取られる。
しかしホッと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。今度は店の奥が何か騒がしい。耳を澄ませれば、急ぐようにせわしなく階段をたたく爪先の音が聞こえる。
……どうやら起こしてしまったようだ。
丸めていた背を伸ばして、伸びすぎた前髪が見苦しくないかと気を揉む。いや、そもそも身なりを気にしたところで彼女が出てくるかも定かではないのに……と、そう思っていた時だ。
シャッターの内側から扉の鍵の開けられる音、続いて扉、さらに続いてシャッターの鍵と――次々に解錠されていく気配がする。
ガシャン、と目の前にあったシャッターが持ち上がる気配がしたら、情けない話だが怖じ気づいてその場から一歩後ずさった。
朝早くから顔を合わせるには陰気な自分の顔を彼女に晒すのは多少気がひける。昔、同期の一人にそう言われたからだ。
彼女もそう思うだろうかと考えたが……それでも、会いたい。格好のつかない話だがそうこう迷っている間に持ち上げられたシャッターの向こうから彼女が顔をの覗かせた。
「……やっぱり、貴方だったのね。開けに来て正解だったわ」
眠ってはいなかったのか、彼女からほんの少しコーヒーの香りがする。そんなに長い期間会わなかった訳でもないのに妙に緊張してしまう。
「日記だと、貴方はきっと嘘をつくだろうって気がしていたから」
だからこの数日、僕が現れるのを待ち伏せしていたのだと彼女は笑った。
何も言えずに馬鹿のように立ち尽くす僕の脇をすり抜けて、彼女はシャッターに立てかけられた臙脂色の表紙を開く。するとその笑みは淡いものから華やかなものへと変化する。
「ほら、ね?」
そうどこか勝ち誇ったように開いた頁を僕に見せる彼女の肩の辺りで、まだ束ねられていない髪が踊っている。
「ここで少し待ってもらっても大丈夫?」
ぼうっと彼女を眺めていた僕に彼女がそう言ったので無言で頷くと、彼女はシャッターの奥に再び姿を消して三分程で戻ってきた。
僕にはその三分程が大学の講義一枠分ほどにも感じたくらいだ――と、シャッターの奥から現れた彼女の手には小さな包みがぶら下げられていた。
「いつも何か頂いてばかりでは気が済まないから、良ければお昼にでも。ここ数日は練習みたいな物だったから……」
だから味の方は大丈夫だと彼女は笑う。
穏やかな声と、ゆったりとした仕草。
そんな彼女を前にして――――カメラを持ってこれば良かった、と。
実際目の前でカメラを構えて撮る勇気などないくせに、そう思わずにはいられなかった。
そうして……昼休み。
咄嗟のお礼が喉に張り付いて掠れるような根性なしに彼女が持たせてくれたのは、小さくカードサイズに切り分けられたサンドイッチだった。
梅雨入りが近いのを気遣ってかパンは両面を焼いてあり、具のどれもがしっかり火を通されている。
湯がいて水気を切ったアスパラと潰したゆで卵をマヨネーズとマスタードで和えたサンド。
ブラックペッパーの効いたベーコンとピクルスのサンド。
チーズが良い具合に溶けたチキンのサンド。
どれも目にも舌にも美味しい。机の片側に資料を寄せて食事に没頭するなんていうのは幼い頃以来だ。
――と、横から伸びてきた手を叩く。
しかし相手はめげずに一切れをさっさと取り上げて口に放り込んでしまった。まるで鳶か猿のようなやつだ。
「……人の食事に手を出すな」
「良いだろ一杯あるんだし……って、美味いな、これ。購買の新製品か?」
「まさか。うちの購買がこんな手の込んだ物を作るわけがないだろう」
「だよな」と言いつつもう一つ盗ろうとする大野の手を、今度こそ力を込めて叩き落とす。手の甲をさすりながら「ケチめ」と文句を垂れる大野。
そう言いつつも何か別のことに気を取られているのか、大野の目が泳いでいる。こういう時は大抵予定になかった資料を探してくれと泣きついてくる時だ。
僕は回転椅子の背にもたれ、そのまま身体を大野に向かって反転させた。
「用件は手短に」
まずは前々から頼まれていた今日の午後に使用する資料を机の端から引き寄せて表紙を軽く叩く。
「この他に何を揃えれば良いんだ?」
大野は僕の顔色を伺っているが、こちらとしても彼女の店に行く口実が増えるのならば――さらにそれが人からの頼まれごとであれば尚良い。
齢を重ねるとずるさだけは楽に手に入ると最近感じるようになった。大野はそんな僕の考えなど全く読み取れない、さっぱりとした性格だ。
………彼女には、きっとこういう男が似合うのだろう。
上手く頼み込む言葉を思いつかなかったらしい大野が学生のように頭を下げてくるのを見ながら、ふっと勝手に心が沈むのを感じた。
彼女といればいるほど――彼女を知れば知るほど。僕は温もりを感じて、同時にそれが冷めた時の冷たさを前よりもずっと恐れている。
……だから、凍えを感じる前に、早く、早くと。
今朝彼女が持たせてくれたサンドイッチを視界の端に捉えながらも“夢なら早く醒めるべきだ”と頭の中で警鐘が鳴り響くのだ。




