第八十五話 懇願
前回と今回を少し変更しております。
「今までと変わらない為の可能性を模索する前に、会ったばかりのこんな胡散臭い奴に可愛がっていた娘を託すだと? 雑貨屋の姉さんも私がアシュリーを連れて出ることを反対しなかったが」
今回襲撃を受けたのは、グラインに頼んだ荷物にアシュリーの血が付いていたからだ。
その僅かな血が街をでて森を、峠を、村を巡った。
それを嗅覚の優れた狼どもが追い、更にその狼を追って魔物どもはここへやって来たのだ。逆をいえば、その僅かな血さえ外に出なかったら、また狼のような嗅覚の魔物に遭わなかったら今回の件はなかったのだ。
「狭い範囲でしか漂わないはずの香りだが、同じ屋根の下にいれば、話は別だ。確実に惑い、理性を失い、最終的にあの子を引き裂いて吹き出す血を浴びることしか考えられなくなるだろう。だがそうなるのは、あの悪魔の祝福に惹かれるのは、そう、魔物だけだ」
ここにいる方法が無いとは言い切れないのに、二人は揃いも揃ってジェインがアシュリーを連れ出すことに異を唱えなかった。
それは、なぜか。
「あんたがここから動かない理由、弟を失ったアシュリーに寄り添わない理由、この強烈な匂いで店内を埋め尽くしている理由、アシュリーが何者かを知っている理由」
ひと呼吸置いて。
「そしてあの臭いが消えない理由」
ゴーシュの顔から、さっと色が消えた。
ジェインの表情、視線、口調、投げる言葉、どれもに正解を知っているのだという意味が込められていた。
『本当に?! え、本当?!』
騒ぐカティアに正解を教えるように、おろおろと揺れるゴーシュの瞳と今度こそ見合って、ジェインは言った。
「ゴーシュ、あんたもシェイプシフターだな」
刹那、ゴーシュの顔がしわくちゃに歪んで、悲痛な声が出る。
「ううううう」
だらだらと脂汗を垂れ流し、目からは涙を流すこの目の前の男は、二体目の希少種だった。
「おかしいと思ったんだ。シェイプシフターの核は割ったのに、まだ臭いがするのが」
ゴーシュの体ががたがたと震え、その度に椅子が揺れて擬音そのままの音をだす。
いつの間に立っていたのか、ジェインはゴーシュを見下ろしていた。
『いやはや完っ璧な渡り! ……あれ、ちょっと待って。ならどうしてアシュリーはまだ生きているの? あの祝福に抗える魔物なんているはずがないわ、よね?』
驚嘆し、感想を口にする剣を腰からあっという間に引き抜き、ひらりと台の上に飛び乗ると首元の服を掴んで、ジェインはゴーシュの喉元に突きつけた。
「この匂いはアシュリーの血の匂いを紛らわす為のものだな」
抵抗もできないままだったが、元よりゴーシュにその気はなかったのかも知れない。
と、ゴーシュの座る椅子でも動いたのか、コトコトという鍋の音に小さく木の擦れた音が重なる。
『ジェイン』
何かを伝えたそうなカティアの声には応えなかった。
「ええ……ええ。そうです。そうです、本当に……情けない……。おれは、こうでもしないと、おれはもう……っ」
微かな匂いに我を忘れ、追いかけ、どこででも襲いかかるのがこの存在に対する魔物の常だ。
だというのに、目の前のこの男は濃い匂いにさらされながら、かなりの時間を耐えていた。アシュリーが開花したばかりなのだろうが、それにしてもだ。
『素晴らしい自制心だこと! 最近レアものに遭遇続きだから、この店主もそうなのかもね』
カティアがうんうんと唸りながら考察した。なにがレア物フィーバーだ、とでも言いたげなジェインの碧玉の瞳が、不満そうに一瞬だけ細くなる。
「その屈強な精神力は褒めてやろう。おまえがあの子を大事にしている証拠だ。だから訊いてやる。なにか言い残すことは」
ゴーシュはその姿に見合わない程の泣き顔を、もうジェインに隠すこともなく見せていた。誰かに聞かれないようにか、大きい声を出さないように口を真一文字に結んでいるが、唇から声が漏れ過ぎている。
カティアのきらきらとした刃に、大泣きする男の顔が映る。
「うう……。な、なら、アシュ……アシュリーを、可哀想な……あ、あの子を、どうか、守って……守ってやってく、ください」
「は?」
泣きながら嘆願するゴーシュに、思わず変な声がでる。
「お、おれはもう、あの子の傍にっ……いる、いることが……できなくて。守ってやれな……お願い、お願いします。アシュリーを、娘を守ってくださ……」
首元に突きつけられた鋭い剣先。
ゴーシュはそれが数瞬後にどこを貫くのか知っているはずだった。最期を前に多くのものが吐く言葉は、大概変わらない。
ジェインも数えきれないほどの利己的なそれを聞いた。自身で獲物の命を狩るカティアも同様だ。
この場で初めて聞くともいえるゴーシュのそれは、お喋りなカティアの言葉も詰まらせた。
『ちょっ、こいつ……』
今から自分の命を奪うであろう相手に、泣きながらアシュリーへの守護を懇願し続ける魔物。
ジェインは暫くそのままの体勢で、それを見ていた。




