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第89話 姒臾と姒泌が別れました

建未けんみの月(※グレゴリオ暦6月相当)のある日の朝、妺喜ばっきが鼻歌を歌いながら学園の支度をしていたので、あたしはこっそり忍び寄るように近づいて尋ねました。


「おはようございます、妺喜様。何か楽しいことでもおありでしたか?」

「おう、伊摯いし、おはよう。いや、なんということはない、そのな‥‥友人と書肆しょし(※書店)に行くことになったのじゃ」


妺喜はどこか言いづらそうにもじもじしながら、それでも丁寧に説明してきます。ああこの表情、やっぱり恋ですね、終古しゅうこですねとあたしは直感します。あんの魔法を扱う妺喜がどのようにして終古と仲良くなったか聞き出したいところですが、もう時間もあまりないので後でゆっくり聞きましょう。


なーんて思ってあたしも支度して妺喜と一緒に部屋のドアを開けると、すぐそこに子履しりが立っていました。


「お、おはようございます、様、おまたせしてしまいましたか‥?」

「いいえ、大丈夫です。その‥」


と、子履がまた言葉を濁らせます。妺喜が何か察したのか「わらわは先に行くのじゃ」と言ってきましたが、子履がその袖を2本の指でつまんで止めます。ああこれ、あたしと個人的に話したいけどあたしと2人きりになるのは嫌だという面倒なパターンです。

と思ったら、その場に任仲虺じんちゅうきもやってきました。


◆ ◆ ◆


結局、妺喜は先にいかせて、あたし・及隶きゅうたい・任仲虺・子履の4人で行くことになりました。小さい森のような場所を通って草原に抜けたところで、子履は小声で話しました。


「‥姒泌じひつが別れたのです」

「えっ、どなたと?」

姒臾じきと付き合っていたのですよ」


あ、そういえば2人は付き合っているんでしたね。子履と同室でぜいという国出身の姒泌と、あたしの生まれ育った地でもあるしんの国の姒臾が、学園に入学して早々交際を始めていたのです。でも姒臾といえばやっぱり、あの性格ですよ。独占欲が強く、わがままで、すぐ暴力に訴えるような人です。あたしを殺そうとしましたし、たちが悪くて嫌いです。


「姒臾様が姒泌様を殴ったりしたのでしょうか。姒泌様もよく勇気が出せましたね」

「いいえ、姒臾のほうから振ったようなのです」

「えっ」


あんな性格はどんな女でも願い下げですから、きっと姒泌が振ったに違いない‥‥というあたしの先入観とは真逆の結果です。


「一体何があったのでしょうか?」

「それが‥それが‥‥姒泌から聞いたところ、姒臾はまだ私が好きらしいのです」

「え、重い‥‥」


恐怖です。あの暴力男に求愛されるだけで恐怖です。こうして聞いているあたしも背筋が凍る思いです。でも一番苦しいのは子履です。やはり、いい顔はしていませんでした。あたしから引き離されて、強制的に一緒にいさせられて、そして毎日のように暴力を振るわれていたと鳴ると。

あたし、子履とは距離を置かなければいけないんですが、こればかりはどうにも妥協できません。


「履様、何かあったらすぐあたしを呼んでください」

「わたくしもおりますよ」


任仲虺も声をかけます。そういえば姒臾はの魔法を扱いますが、任仲虺は相克そうこくとなるすいの魔法を扱います。火と相生の関係を持つの魔法を使うあたしよりは、任仲虺がそばにいたほうが心強いでしょう。


「‥ありがとうございます、仲虺ちゅうき。そばにいてくれますか?」

「はい、もちろんです」


当然子履もあたしより任仲虺を選びます。それが合理的な選択には相違ないのですが、あたしは急に子履から手を離されたような気持ちになります。空っぽの手を握って、2人の一歩後ろを歩いていました。

あたしの隣を及隶が歩いていましたが、奇しくも子履の荷物を持っていましたので、あたしはなんとなく視線をそらしていました。


◆ ◆ ◆


授業でも、あたしは頬杖をついて、ちらちらっと右隣を見ていました。あたしはいつも長机に、左は妺喜、右は子履に挟まれる形なんですが、今日の右側には及隶が座っています。子履は後ろの席で、任仲虺と姚不憺ようふたんに挟まれています。そこまでして姒臾を警戒する気持ちは分かるのですが、あたしはどこか釈然としません。

ちらりと後ろを振り向きますが、子履はまじめにノートをとっています。まるであたしがバカみたいです。ふうっとため息をついて、あたしは自分のノートに文字を書き込みます。そうして、なんとなく右側をちらっと見ると、及隶がよゆうのえみであたしを見ています。ちょっとむかつくんですけど、その顔。


昼休み、当たり前のように及隶のほっぺたを引っ張りました。餅のようによく伸びました。

そうやって膝の上に乗せた及隶の頬で遊んでいると、任仲虺が右隣に座ってきました。あたしは視線をそらします。


「ごきげんよう」

「こんにちは、裏切り者」

「ふふ‥まだ怒ってらしてるのですね」


任仲虺は笑っています。気持ち悪いです。そりゃ、あたしと子履が別れるのを手伝ってもらう約束だったのに、途中で裏切られたらそりゃ怒りもしますよ。


「あたしと履様をくっつけさせようとするなんて、裏切りもいいところですよ」

「あら、わたくしが履さんを引き離したことで怒っているように見えましたか?」

「戯言はおやめになってください」


ほっぺたを餅のように引っ張られている及隶が痛い痛いと言い出しています。あたしは逆に、ほっぺたを押し込んで平手で頬をこすります。及隶はくすぐったそうに足をばたばたさせています。


「それで、何の用ですか?」

「履さんを守るため、しばらくわたくしの部屋に泊めます。履さんに用事があるときは、わたくしの部屋においでなさいませ」

「あ、はい、そうですか」


絶対行きませんよ。行きませんからね。本当に行きませんからね。任仲虺も言うだけ言うと、後ろの席に戻ります。後ろから子履の声が聞こえます。


「もしかして私を仲虺にとられないか心配してますか?」

「むしろとられてほしいです。そのまませつびょうまで行って将来を誓ってほしいんですけど(※六礼りくれいの手順の最後にある親迎しんげいをさす)」

「ふふ、しんの廟はないのでしたね」


子履のほほえみも、どこか余裕があるように見えました。あたし行きませんからね。絶対、任仲虺の部屋になんか行きませんからね。


◆ ◆ ◆


「何してるっすか?」

「いや、ちょっと用事があって」


その日の夜、寮であたしが偶然、偶然、あくまで偶然ですからね、任仲虺の部屋の前にいるところを及隶に見つかりました。

この寮は前世の感覚と違って、男女共用です。廊下を男子が普通に歩いているわけで、そこにはあの姒臾も含まれます。なのでその姒臾に睨まれたら、寮で泊まる部屋もこうして変えなければいけないのです。子履がこの部屋を選ぶのは納得なんですけど、どうにも釈然と来なくて気がつくと足がふらふらとこっちへ。いえ、偶然ですからね、あくまで偶然ですよ。なんとなく歩いていたらここへ来たという話です。


「用事なら早く開ければいいじゃないっすか」

「あ、急に眠くなったかな、なんて」


あたしがくるりと体の向きを変えたところで、ドアが開きます。任仲虺です。


「あら、さんもこちらにいらしたのですね」

「あっ、ぐ、偶然ここにいただけですから。勘違いしないでくださいね!」

「勘違いなどいたしませんよ。それより、ここへ来て一緒にえき(※囲碁)をやりませんか?ああ‥摯さんは奕が分からないのでしたね。六博りくはく(※すごろくのようなゲーム)でも?」

「ま、まあ、ついでにやるくらいならいいかもしれませんね」


あたしは任仲虺に誘われてその部屋に入ります。及隶もついできましたが、あたしは止めませんでした。

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