第87話 母上の形見をもらいました
お祭りのような斟鄩を歩いている間、伊纓はずっと自分の鏡ばかり見ていました。何のためにあたしを誘ったんでしょうか。少々不快です。
「伊纓様‥」
「僕のことはおにいたまと呼んでくれ」
「ああ、はいはい、おにいたま。あたしたちはどこへ向かっているのでしょうか?」
「僕を美しくするための肆だよ」
ああ、嫌な予感しかしません。あたしは伊纓の暇つぶしに付き合わされる人員ということです。というかあたしと伊纓、ほぼ初対面ですからそこまで親しくないでしょう。
伊纓は手鏡を持ち上げて、空に向かって「ああ、いつ見ても僕は美しい」とか言ってます。
「お言葉ですが、あたしもこのあと用事がございますので‥‥」
「なんと、それはいけない。急ごうではないか」
帰ろうと思ってたのに結局そうなるんですか。伊纓は歩を早めます。
やがて伊纓が立ち止まります。その前にあったのは、質屋でした。
「‥まさか、おにいたまの顔を質に入れるとか言い出しませんよね?」
「僕が美貌を他人に譲り渡すと思ってるのかい?」
「めっそうもございません」
その質屋はあまり大きくなく、従業員は1人しかいませんでした。おやじという感じにあごひげを生やしているのですから、雰囲気的に店長でしょう。知らんけど。
古代中国といえば薄暗い部屋をイメージしますが、ここは壁にいくつかのランプがついていて火を灯していました。そして、壁に洋風の棚がいくつも張り付いていて、そこにいろんなものが所狭しと並べられていました。
紺色の粗末な服を着た店長は、レジ代わりに使う台の向こうで何か作業してましたが、ふとこちらに気づくと目を丸くします。
「おお、誰かと思えば伊纓か。先月も来たばかりだろう」
「いやなに、用ができちゃってね」
あのー、伊纓のことをおにいたまと呼ばなければいけないのって、もしかしてあたしだけですか?
「先月売ったあれを買い戻したいんだ」
「ああ、あれですね、しばらくお待ち下さい」
店長が奥の部屋にしばらく潜り込んで戻ってくると、手には髪飾りのようなものが握られていました。造花から3本の糸が垂らされ、糸の先にはひし形の美しいチップがついていました。これどこからどう見ても女のものですよね。と思ってると、伊纓は財布から貝を何枚か取り出して、店長に渡します(※この世界では貝を通貨として扱っている)。
「20朋(※金の単位)でいいかな?」
「ああ、本当は24朋で売るはずだったんだがまけとくよ」
そうして店長から受け取った髪飾りを、伊纓はあたしに手渡します。
「これは‥?」
「おば上がお気に入りにしていたものだが、父上が売ってしまったんだ。君に合うと思ってさ」
その花はオレンジ色で、チューリップのようにきれいにかがやいていました。
「これを母上が‥‥あっ、盤費様が」
「僕しかいない時は母でいいよ。君はおば上の子供だと思っている」
「それは‥」
あたしは続きの言葉が見つかりませんでした。親至上主義のようなこの世界において、母親の存在すら分からないみなし子だったあたしに、母がいる。伊纓がそれを認めてくれている。それだけであたしの胸がほんのり暖かくなってきます。
「‥ありがとうございます、伊纓様」
「僕のことはなんて呼ぶんだった?」
「‥‥おにいたま‥‥」
やっぱり前言撤回します。せっかく感動してたのに台無しです。ですがこの髪飾りは見るほどに美しく‥‥あっ。
「あたし、ショートですから髪飾りはつけられません」
「親からもらった大切な体の一部を何で切ったんだい?(※この世界では一生髪を切らないのが常識である)伸ばして欲しい。それに毛先を丸出しにすると、そこから魂が抜けちゃうからね(※この世界の迷信)。そんな髪型をしてるのは浮浪者か世捨て人くらいだよ。君は学園に通っているんだっけ?周りから不潔に思われるだろう。僕の家族は美しくなくてはならない」
伊纓がそう真顔で言ってきます。うう、確かにこの世界の迷信でいくとあたしは不潔ということになるのは事実ですし、それに真顔で言われるとあたし逆らえません。
あたしは丁寧に頭を下げます。
「‥ありがとうございます。髪の毛を伸ばします」
「うん、つけてほしい。おば上の形見だからね」
「はい」
「うん、君も用事があるんだったね。じゃあ僕はこれで」
伊纓はそう言い残すと、早々に肆を出て消えてしまいます。やれやれ、変な人でしたが思ったよりはいい人かもしれません。
そしてちらっと子履のほうを見ると、子履は細い目であたしを睨んでいました。
「‥ど、どうしましたか、履様?」
「摯、ツインテールというものをご存知ですか?私も髪飾りを贈りますので、しっかりつけてもらいますよ?」
子履もいつも通りです。笑顔が怖いです。
◆ ◆ ◆
「それではまいりましょうか」と、子履があたしをエスコートします。
と、ここまで書くとまるで夕方に見えるかもしれませんが、まだ14時ころです。人通りは少し減ったとはいえ、まだ祭りのさなかのように町中は賑わっています。
「それでは肆に行きましょうか」
「はい」
あたし、郊祀とはどんなものか知らなかったとはいえ、こんなに人で賑わうことは予想していませんでした。あたしはレストランでバイトしているんですが、饂飩の人気が落ち着いたこともあり、郊祀くらいなら大丈夫かと思ってシフトを入れていませんでしたが、この人混みを見て心配になり様子を見に行きたくなったのです。
大通りに出ますと、ふと、人混みの向こうに見知った人影があります。ああ、姬媺、趙旻、姜莭の3人でした。
「履様、あちらにお三人が」
「本当ですね。例によって、姜莭と趙旻が曹王を引っ張っていますね」
子履の指摘通り、嫌がる姬媺の両腕を2人が引っ張っています。異様な光景です。ここまで嫌がるなら姜莭も趙旻もそっとしてくれと思わないでもないですが、一方で久しぶりに元気な姫媺が見られてあたしはほっとしてしまいます。学園ですと、わざとかもしれませんが元気なさそうに振る舞っているんです。
それにしても、趙旻も姜莭もすべて姬媺の言う通りに従うとこの前言っていたのですが、この前聞いてみたところ、2人にとっては姬媺よりもその母の遺言のほうが大切らしいです。まあ当たり前ですね。親は子供より偉い、姬媺よりその母のほうが偉い、つまり2人は母のほうに従わなければいけないのです。
「先王も喪に服さなくてよいと言っていますし、曹王さまも素直になればいいですのに」
「喪に服さなくてよいというのは、言い方を変えると勘当に等しいですからね。家臣も大いに困惑していたのを覚えているでしょう。この世界の常識はそれだけ厳しいし、子供にとっては重いものです」
子履はそう平然と流しますが‥‥そこであたしはふと、1つの疑問が浮かびます。
「‥履様も、商王さまがお隠れになったらあのように三年の喪に服すのですか?」
「当然でございます。それが遺された子の務めですから。もっとも、徳が重視されているこの世界において、三年の喪に服さない王は民心を失いますから、今後の国家経営を考えると服さない選択肢はないはずです」
子履はまたも平然と、当たり前のことかのように返事します。子履が三年の間も元気なさそうに振る舞うところが、にわかには想像できません。あたしはその後ろ姿を見て、少しの間うつむいてうなずいてしまいます。




