第70話 伊水の神
こんな日に限って外での授業の日だったりします。なんでですか。
斟鄩は、2つの川に挟まれています。北は洛水、南は伊水といい、いずれも東で合流したあと河(※黄河の昔の呼び方)に注ぎます。今日はそのうちの伊水に行くみたいです。もちろん歩いて移動している間も、あたしと子履は手を繋ぎます。あの、これやりすぎじゃないですか。周りに人いるんですけど。
あたし、子履、姚不憺、任仲虺、及隶、そして妺喜は、行列で前後に大きく分かれた2つの集団のうち、後ろの方に固まっています。前の集団には、残りの学生たち、務光先生、卞隨先生がいます。どうして2つに分かれてるかって?あたしも子履も恥ずかしくてゆっくり歩いているからです。いえ恥ずかしいなら手離してくださいよ、本当に。
「あの、人の多い場所では手を離しませんか‥?」
あたしは小声でお願いしてみます。子履も顔を真っ赤にして「は、はい‥」とこもるのですが、その隣の任仲虺が子履の肩をそっとなでます。あたしもあたしで、及隶が「センパイも嬉しそうにしてるっすよ」と小声で囁いてきます。恥ずかしいです。妺喜はそんなあたしたちを見てくすくす笑っています。
さすがにここに男が1人だけだと気まずいのか、姚不憺は何も言ってこず、ぼうっと街を眺めていました。誰でもいいから助けてほしいです。
と、前の固まりにいる卞隨先生が話し始めます。
「あちらの建物には行ったことありますか?」
誰も返事しないので、行った人はいないようです。あの建物の前には何人かの人が並んでいます。見るからに、病院のようです。明らかに古代中国にはなかったであろう赤十字のマークの看板が、壁に小さく貼り付けられています。
「黄帝(※五帝の最初の人)は医学者としても有名でした。授業でもやりましたね?岐伯に師事し、方剤(※漢方薬)や鍼道の誕生に尽力したといわれています」
「医学を発明したのは神農(※三皇の1人)では?」
子辨が尋ねます。卞隨先生はうなずきながらも、こう返事します。
「神農はこの中華に耕作、薬草という2つの概念をもたらし、また薬草と毒草の違いを身を以て調べたと言われています。薬草の存在と医療という概念をこの世界にもたらしたのは神農です。その子孫の代(※黄帝の治世の前に神農の子孫が8代にわたって世を治めていたとされる)のうちにも多少の発展をみたようです。しかし、医学の体系化、治療手法の確立は黄帝なしには語れないでしょう」
黄帝については授業でもいくらか聞かされましたが、聞けば聞くほどすごい人だったようです。禹(※夏の始祖)やその子孫というあたしだけでなく、他の五帝、そして子履でさえも黄帝の子孫といわれています。
「履様も黄帝と血がつながっているんですよね」
あたしがぼやきますが、それを子履は否定します。
「確かに私は黄帝の子孫ですが、血がつながっているかは怪しいですよ。戎(※異民族の1つ)出身の簡狄(※五帝の1人である帝嚳の妃)がツバメの卵を飲み込んで契(※商の始祖と伝わる)を産んだと言われてますから」
「きっとそのツバメは帝嚳が化けたものですよ(※五帝も禅譲とは言いつつ実際には世襲だったようで、帝嚳は黄帝のひ孫といわれる)」
「ふふ、まさか」
任仲虺が冗談気味に言ったのを子履は受けて、くすくす笑います。なんでしょう、自分の先祖のことを知るのはこの世界では常識なのに、こんな伝説めいたことも覚えて他人に平然と言いふらすのは、科学の発達していないこの時代‥‥ではなくこの世界だからこそできることでしょうか。前世の記憶のあるはずの子履も、だからこそというか、ためらいがないように見えました。
◆ ◆ ◆
なんだかんだ話しているうちに伊水に着きました。あたしと子履はまだ手をつないだままですが、最初のぎこちない感じは消えてしまい、なんとなくそれが自然なことかのように思えてきました。というよりは、手をつないでいる状態に慣れてしまって、歩きながら他のことを話していたので手のことを忘れてしまったというほうが正しいです。
「こうして川を眺めていると、戦国時代、魏の西門豹(※人名)を思い出しますね」
「戦国時代はまだ始まってないですよ」
子履がまた何か語り始めたので、あたしは適当に受け流します。
伊水もさすがに前世のような舗装がされているはずもない‥‥と思ってましたが、ここまでの道には中世ヨーロッパ風のスイスにありそうな建物、石畳の地面があったとおり、この伊水も石で舗装されていました。ちょっと向こうには、石と来で作ったような立派な橋がありました。幅が大きいように見えるので、きっと兵の通り道なのでしょう。
しかし卞隨先生はあたしたちを伊水に集めて何をするつもりでしょうか、と思っていると、務光先生が話し始めました。
「推移、河にいる神の名を知っていますか?」
「河伯です」
「そうです。そして喜珠、河伯には多くの子がいましたが、そのうち伊水を治めている神は?」
「崇(※本作において創作した架空の神)です」
「そのとおりです。崇は3本の尾ひれを用いて、素早く泳ぐことができたといいます。しかしそれだけに、乱暴な性格で有名でした。河伯は洛水に䫤(べい)(※本作における架空の神)を配し、崇とともに暴れた水を鎮め、斟鄩の東に豊かな田園歳を造らすに至りました。さて本日はその崇の力を借りて、水の魔法を使ってみましょう。魔法は往々にして、神の力を借りて強化するものですよ。任仲虺」
指名された任仲虺が「はい」とうなずいて、集団の前に出ます。あたしたちのクラスで水の魔法が使えるのは任仲虺だけです。10人だけのクラスですから、1つのクラスに5属性全部揃っているのは実は学園としてもあまりないことらしいです。
任仲虺はいくらか務光先生のアドバイスを貰ってから前に進み出て、レンガなどで舗装のなされた、河の支流ながら前世の日本でもあまり見ないような大きい川である伊水に対して、両手のひらを向けます。
「荒川の主よ、加護を!」
任仲虺の周りが青白く光り始めます。あたしたちのいる場所が薄暗くなったかのように錯覚しましたが、任仲虺を包む光が次第に強くなっていきます。
と思うと川の水が巻き上がって、任仲虺の手前で少しずつその巨大なボールを膨らませます。どこまで大きくなるかと見守っていましたが、ほどなくしてそれははじけて崩れ落ちてしまいます。
「はぁ、はぁ‥」
任仲虺は地面に倒れ込んでしまいます。あたしと子履が思わず駆けつけると、任仲虺は「‥大丈夫です」と控えめに笑います。
「大丈夫ですか?‥崇と相性が悪かったようですね。相性のあわない神もいますので、色々な場所や状況で試すしかありません」
あたしに肩を預けた任仲虺に、務光先生は冷静に解説します。任仲虺は怯える様子もなく、すかさず質問します。
「相性が合った場合はどれだけの威力を出せるものですか?」
「やってみます」
務光先生は伊水に片手を振りかざし、呪文を唱えます。ほぼ一瞬で、任仲虺が作ったものよりも遥かに大きく、遠くからも見えそうなくらいの水のボールができました。大きいだけのただのボールではなく、周りにきらきらした粒子のようなものが舞って、球体のふちはきれいな虹色に見えました。
学生たちの歓声の後にそれを水の中へ戻した務光先生に、今度は子履が質問します。
「それほど大きな力を何に使うのでしょうか?」
「子履は何だと思いますか?」
「‥‥‥‥戦争です」
子履が視線を外すと、務光先生はふふふと笑います。
「それもありますが、他にも色々ありますよ。水晶を日光にあてて火をおこしたり、農耕で水撒きを効率化したり、池を作ったりします。大きな力はあって困るものではありませんよ。使用者の心かけ次第です。喜珠のように。‥‥さて、来週は火の魔法で同じことをしましょうか」
そう言いつつ歩き出す務光先生は、平和な未来が見えているのか足取りは軽く、そしてどこか脆いように見えました。




