第32話 伊摯の同室の少女
あたしが部屋を出てからしばらくすると、任仲虺も部屋を出て子履のところへ行きます。ドアを堂々とノックして、中に入ります。子履はテーブルに座って芮の国の人と話していましたが、任仲虺の顔を見ると「少しお待ち下さい」と言います。
任仲虺が近づいてきて、同室の芮の人に聞かれないように小さめの声で話しかけます。
「摯さんも、履さんのことを気にかけているご様子でしたよ」
「では、成功ということでございましょうか。仲虺さんのおっしゃっていた、『押してダメなら引いてみろ作戦』というものは」
老丘を出発した後の馬車で、伊摯への過度のアプローチを遠慮した子履に任仲虺が持ちかけてきた作戦、それは「押してダメなら引いてみろ作戦」でした。はじめは子履も不安そうにしていましたが、任仲虺がせっかくこのタイミングですからと強く勧めたのです。
「いいえ、まだ第一関門を突破しただけです。あとは摯さん自身が気持ちに気づくまで待たなければいけません。ここが友人と恋人の岐路です。友人として遠からず近からずの関係を維持してください」
「これまで通りというわけですね」
「はい」
その作戦は、これまで子履が伊摯の体にべたべたくっつくのに比べると、遥かに健全なように思えました。むしろ、これまでの度を超えたアプローチを逆に利用したようなものです。
「‥ですがわたくしも、ここまであっさりいくとは思いませんでした。摯さんにその気がなければ、第一関門の突破にはもう少し困難が伴っていたはずです。それがなかったのは、摯さんがもともと自分の気持ちに気づいていたのか、それとも‥‥」
「及隶でございますね。期せずして私に利する質問でもしたのでしょうか」
子履は少し笑みを見せて、テーブルに置かれたクッキーをつまみます。
◆ ◆ ◆
さてさて、そんなことも知らないあたしは廊下を歩いて自分の部屋に向かっていました。
「‥うん?」
あたしは思わず立ち止まりました。あたしの部屋に、1人の荷物を持った女の子が入っていくのです。あたしと相部屋の人でしょうか。
「わあ‥」
暗い紫色に輝くその長髪はさらさらで、少しの風でもふわっと広がって、空中に美しく舞っていました。ちらりと見えた横顔はきりっと引き締まっていて、未来を見据えているかのようにりりしく、整っていました。漢服もかなり立派で、室内にもかかわらず宝石のように輝いていて、どこの国の人よりも高貴であることはひと目で分かります。
‥‥えっ?あの人があたしの同室なの?あたし平民なんだけど、あんなすごい人と同室なの?ええっ、あの人は罰ゲームでも受けているのでしょうか?
あたしはおそるおそる部屋に入ります。
「しっ、失礼‥いたします‥」
それから前に転倒しそうなほど深く頭を下げるつもりでしたが、その女の子は部屋の左側にある机の前に立ったまま、振り向いてきません。うわ、あたしのような小物は眼中にないというのでしょうか。そういうのは普通はむかつくものですが、この時ばかりは、相手の上品な立ちふるまいに圧殺されて、どこか納得してしまう勢いでした。
「あのセンパイ、怖そうっすね」
「しっ、隶、失礼よ」
その話し声に反応して、女の子が振り向いてきます。大きな窓から差し込むまぶしい日光の逆光となって、神々しく輝いているように見えました。しかしその目つきは鋭く、唇はへの字に噛んでいて、あたしを警戒しているようでした。
ですが、あたしにはそれすら、勇敢な少女の証であるとさえ思えていました。
「きれい‥‥」
思わず心の声が出てしまいました。ですが相手を褒める言葉なので特に訂正しなくても大丈夫でしょう。
しかし相手は不機嫌そうに、そっぽを向きます。
「‥‥‥‥今『きれい』と言ったこと、お主は後悔することになるのじゃ。二度とわらわに関わるでない」
それだけ言って、荷物を机の上に置きました。
‥ん?えっ、あたし、この子を怒らせた?怒らせたとしか思えません。まして、あたしは平民です。あの子はあたしも貴族だと勘違いして口頭での抗議にととめているようですが、平民だとばれたら暴力もあるかもしれません。とりあえず土下座して、地面に頭を鐘のように何度もぶつけます。
「ご気分を害してしまい、申し訳ございません。どうか命だけは‥!!」
「‥‥わらわは別に怒ってないのじゃ。お主もどうせわらわのことが嫌いになるのじゃ。わらわに関わらないでくれ」
あたしは頭を地面に叩きつけるのをやめて、頭を上げて目をぱちぱちさせながらその少女の背中を見ていました。
「あの‥それはどういう意味ですか?」
「今にわかる」
その少女の顔は見えませんでしたが、窓から差し込む日光の作るシルエットで、肩が震えているように見えました。
あ、これ、つらい過去のある人の震え方ですね。あたしは立ち上がると、大きめの声で呼びかけます。
「嫌いになるかどうかは、やってみないと分かりませんよ。あたしと友達に‥あっ、言い過ぎました。せめて話し相手にしてくれませんか?」
「‥‥」
あたしの呼びかけに、女の子はほとんど体を動かしません。
「センパイ行くっすよ、あの人、感じ悪いっす」
「隶、失礼だから黙ってて。ベッドであやとりでもしてなさい」
「あやとりって何っすか?」
「あっ、あー‥‥ひもを使って遊んでて」
「ちぇー」
及隶が不満そうに頬を膨らませてベッドに戻ったのを見ると、あたしは改めてその少女に尋ねてみます。
「まず先にお互いのことを知りましょう、ねえ?」
「気安く話しかけるな。後でつらくなるのじゃ」
この少女、口ぶりから察するに、おそらく人に嫌われるような秘密を持っているのではないでしょうか。身体障害があるとか、癲癇発作があるとかではないでしょうか。それとも酒に弱すぎるとかでしょうか。(※この世界では飲酒に年齢制限は存在しない)
「‥‥あなたとあたしは同室ですから、どっちみち最低のコミュニケーションがないと立ち行かないですよ。せめてお名前だけでも教えてもらえませんか?少しだけでもいいから、あなたと仲良くなりたいのです」
「‥‥‥‥お主は面倒だな。大抵の人は、ああ言っておけばわらわを面倒な人だと思って最初から遠ざけてくれるのじゃ。お主にプライドはないのか?」
「そのようなものはございません、平民ですから」
少女は振り向いて、あたしの頭や脚をましましと見つめます。あたしはかろうじて貴族に見えるよう取り繕った漢服を着てオレンジ色の下着を覗かせていますが、これでも平民なのです。今ここでばらしてしまいましたが、いずればれることです。相手が平民をいじめるタイプであったとすれば、いじめられるのが少々早くなるだけです。
しばらくして、少女はふふっと笑いました。
「お主、いじめられたことはないのか?」
「‥ございません」
「ここは貴族だけが通う学校なのじゃ。お主にその覚悟はあるか?」
「ございます」
「助けてくれる人は?」
「貴族の友人がおります」
少女はため息をつきます。一瞬あたしが何か変なことを言ったかとびくつきましたが、しかしその顔つきは、最初の頃から見るとリラックスしているように見えました。
「お主、面白いな。名前は?」
ようやくここまで話が進みました。相手が譲歩してくれたのでしょうか、あたしの口元は一気に緩みました。
「はい。姓は伊、名は摯といいます。莘の国で生まれましたが、今は商の国に籍を置いています」
とりあえず名前を聞いてくれただけでもよかった、とあたしは安堵しますが、それもつかの間でした。
あたしの名前を聞いて、少女も名乗ります。
「わらわは姓を喜、名を珠と言う。蒙山の国の出身なのじゃ」
珠の名は本作において創作した架空のものです。
蒙山国出身というのは日本語の情報の中にはないですが、中国語で書かれた複数の記事にありました。現代中国にも蒙山という地名は確かにありますが全くの無関係で、作中にある蒙山国は薛の国のすぐ近くにあります。中国語は知識ゼロで適当に読んでいたんで、間違ってたら申し訳ないです。




