第28話 老丘の宿に来ました
斟鄩へ向かう馬車が出発しました。あたしはあくまで使用人としてその馬車の後ろを歩いていくのですが‥商丘を離れるとすぐ子履に呼び出されて、及隶と一緒に中に入れられました。
目を細くする及隶を前の席に置いて、子履はあたしにぺったりくっついています。2人きりじゃなくなった途端に距離を詰められる子って何なんでしょう。
「‥でも外は寒いから助かりました。ここ数年、寒い日が続いているようですね」
寒いだけでなく、あたしの分の学園の荷物も1人で背負っていたので、それを馬車の中に入れてもらえたのもよしとしましょうか。正直荷物も重い上に寒さもあったので、今回ばかりは馬車に入れてもらえたのは僥倖かもしれません。メリットがデメリットを上回ります。そうですね、子履があたしの肩に頭を置いて寝ているのですが、このデメリットよりもあたしが足をくじくのを防止するメリットのほうが上回ります。残念ながら。
「‥‥寒いですよ。この時代にはミノア噴火があったと言われていますから」
子履が返事してきました。またわけわからない言葉が出てきました。
「ミノア噴火って何ですか?」
「紀元前1600年ころに地中海の一部であるエーゲ海のティラ島にある火山が噴火し、地球規模で大きな気候変動が起きたのです。桀王、湯王の代に天候不順による飢饉が頻発したという記録がありますが、この噴火によるものだという説があるのです」
「ヨーロッパの噴火がここにまで影響するのですね‥」
「もっとも、この世界にヨーロッパというものが存在するかは分かりませんけどね。前世の古代中国はローマ帝国のことを大秦と呼んでいましたが、交流が始まるのは漢の時代ですからまだまだですね」
気候変化も奥が深いです。とはいえこんな寒いのは受け付けません。と思ったら子履が使用人に言いつけて、2人分の厚着を馬車の中に入れてもらったので、あたしと及隶はそれを着ます。
「‥古代中国では、気候変動は王朝の政治が乱れたためだと考えられます。この世界の人々も、連年の冷害を酒乱になった夏王さま(※履癸)と結びつけて考えるでしょう‥‥ですが実は夏には、過去にも廑という王がいて、そのときに飢饉があったと言われています。廑、その次の孔甲の代に夏は滅亡しなかったのですから、きっと今回の災害も妺喜さえなんとかすればやり過ごせるかもしれません。‥‥妺喜です。妺喜なのです‥」
そこまで言って、子履の声が聞こえなくなりました。あたしの肩にもたれて、完全に寝てしまったようです。このまま横にしようかと思いましたが、なぜか子履の発する匂いや体温が、あたしには心地よく感じられました。どこか心の奥底がむすむすするのです。あたしは思わず、その背中に手を回します。
と、向かいの席の及隶がにやにや笑っていたので、あたしはやっぱり子履を横にすることにしました。寒くなりますがあたしの厚着をかぶせて、自分は及隶の横に移動して1つの厚着の中に2人入って丸まっていました。
馬車は揺れながら、斟鄩へ向かう道を進んでいました。
◆ ◆ ◆
途中の国をいくらか過ぎて、老丘という地へ着きました。このあたりから夏の国の領土です。夏は複数の直轄都市を持っています。この世界では、農地を除いた都市部分は堀と土塁で囲まれています。土塁といってもそんなに高くないので、堀を足して防御性能を高めている感じです。
「少々早いですが、本日の宿はここにしましょうか‥おや?」
馬車の窓から顔を出した子履が何かに気づいたようです。老丘の通りを進んでいる馬車の後ろに、もう1つ馬車が追随しています。使用人の1人に、あの馬車は何か聞きに行かせます。その使用人が戻ってきて、子履に何やら報告しました。
しばらくして、あたしたちの馬車に任仲虺が入ってきました。
「奇遇ですね、まさかここでお会いできるとは思いませんでした」
「こちらこそ奇遇でございます。本日の宿はどこにいたしましょうか」
子履と任仲虺の何気ない会話に見えますが、あたしの腕に抱きついてぺっとりくっついた子履と、及隶と隣り合って座る任仲虺の構図です。任仲虺なんとかしてください。
さすがの任仲虺も少々呆れ気味に笑っていました。
◆ ◆ ◆
なんだかんだで同じ宿に泊まることになりました。テーブルの上に、料理が出てきます。豪華な料理が目白押しです。なんても、黄帝(※伝説の王様である五帝の最初の人と伝わる)の時代にできた料理らしく、厳かに、この世界古来の伝統的な料理の雰囲気を醸し出しており、きれいに盛り付けられています。
「ところで席が2人分多いようですが。他にどなたか合流する予定でしょうか?」
椅子にも座らず、はやる及隶を押さえつつテーブルのそばで立ったままのあたしが尋ねてみます。すると任仲虺はふふっと笑います。
「伊摯さんと及隶さんの分ですよ」
「わあい、任様ありがとうございます!」
及隶がすぐ飛び上がるのであたしは後ろから引っ張ります。先輩も大変です。
「どうしたっすかセンパイ、椅子に座れないっすよ」
「もっと礼儀正しくして、静かにして」
「いいんですよ、友人だと思っていますから」
任仲虺が余計な一言を入れたせいで及隶は「わあい!」と騒ぎます。もう身分差を論する段階ではなさそうですね、とあたしは鼻で小さくため息をつきました。
「親しい仲にも礼儀ありっていうでしょ、ほら」
「うう、わかったっす。センパイは貴族より厳しいっす」
「貴族は優しい人だけじゃないからね、はい、しっかり頭を下げる。任様ありがとうございます」
そうして空いている椅子に座りました。任仲虺の隣にあたし、子履の隣に及隶です。
「その、私の隣に座ってもらえませんか」
「伊摯さんはわたくしの友人でもありますから、一度横に置いてお話してみたいんですよ」
子履のいつも通りの要求を、任仲虺がはねてくれます。任仲虺がいてくれると安心です。
食べ進めていますと、いつしか姒臾の話になっていました。
「姒臾さんは莘の屋敷に戻ったらおとなしくなったそうですよ」
「‥私も母を通してそう聞きました。あのお方の本性は怖すぎます‥近づきたくありません」
子履の口からそんな言葉が出るくらいには、姒臾はひどい男だと思います。女にも簡単に手をあげますし、あたしを殺そうとしましたし、嫉妬深いですし。無事別れることができてよかったと思います。2人の話を聞きながら、あたしはそう確信しました。
高級料理はたまに変な食べ方をするものがあります。貝の身を剥がす時に箸を使うのですが、何も知らない及隶は素手で引っ張って、それでも無理だったようで貝を直接口につけてかぶりついています。さすがに汚いのであたしが言葉で教えますが、及隶はなかなかうまくいきません。及隶と横同士だったらなあと思いました。
それにしても眠くなってきますね。食事中にこんなに眠くなるのは初めてかもしれません。旅の疲れのせいでしょうか。あたしはふぁああとあくびをしてしまいます。
「あら伊摯さん、眠いのですか?」
任仲虺があたしのあくびに気づきました。恥ずかしいものを見られてしまいました。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません‥」
「かしこまらないでいいですよ、お休みになりますか?」
「でもまだ食事中でございますので‥‥」
「無理なさらなくても大丈夫ですよ。明日の朝食は多めに用意いたしますので」
「そんな、お気を遣わせるわけには‥」
「友達ですから。大丈夫ですよ」
そうやって任仲虺に促されて、あたしは部屋へ連れてこられます。この世界観に似つかわしくない西洋風のオレンジ色の照明のきいた部屋には、4人分のベッドがしつらえられていました。1列に並べられているそれの、ドアから2番目のベッドにあがりました。
ベッドに入った瞬間にあたしの意識はとんでしまったようです。




