57.負けるが勝ち
「それよりも兄上、俺に何か用があったのではないのですか?」
「おお、そうだった」
兄上は居住まいを正して、改まった感じで、俺を見つめてきた。
「ノアに頼みたい事があって来た」
「俺に頼み事?」
思わず身構えてしまった。
ヘンリー兄上、第四親王。
地位は俺と同じ、歳は親子ほども離れている。
そんな兄上が、改まった感じで聞いてきたとなれば、思わず身構えてしまうものだ。
「ああ、深刻な話ではない。私が多くの芸人を抱えている事は知っているな」
「ええ」
俺は頷いた。
兄上も、貴族の義務を励行している。
画家、音楽家、その他の芸事をしている人間を支援している。
貴族として、それが出来れば出来るほど貴族の面目が立ち、称賛される。
俺がアリーチェを支援したのもそういう理由からだ。
「少し前に絵の才能が素晴しい少年を見つけた。身震いするほどの才能だ」
「兄上にそこまで言わせるなんて……余程ですね」
兄上は俺の言葉に頷いた。
「生活に困窮していたから、まずはそれなりの援助をしたのだが、それだけでは足りないと思ってな。だから、ノアに育てて欲しいのだ」
「なんで俺なんです?」
「アリーチェ」
兄上はそう言って、にこりと微笑んだ。
「お前が育てた歌姫は帝国中にその名を轟かせている。陛下ですら、お忍びで店に聴きに行くほどだ」
「何ですって!」
ガタン! ソファーにぶつかって音を立てる程の勢いで立ち上がった俺。
「陛下が?」
「ああ。しかも一度や二度ではない。アリーチェが都にいる時はかなりの頻度でだ。更に驚く事に、だ」
兄上は感心したような、苦笑いしたような、どっちともつかないそんな顔をして。
「あの陛下が――三十人以上の子を成しているあの陛下が。まったく抱こうとせず、ただただ歌を聴きに行っているだけなのだ」
「……おおぉ」
それはすごい、俺もびっくりした。
この前、第十七親王が産まれた。
それはつまり、陛下の子供が、男だけで十七人いると言うことだ。
女の子供――内親王も含めれば三十人は優に超えている。
三十人も子供を作るほど陛下は性欲が強いのだが、アリーチェにはまったくそうしていないという。
アリーチェは決して美しくないわけでは、ない。
そのアリーチェの所に行って、歌を聴くだけ。
陛下をよく知る、そしてその成果である俺たちは、それがどれほどすごいことなのかがよく分かる。
「その、アリーチェを育てたお前に頼みたい」
「俺に」
「お前だけが頼りだ、ノア」
兄上はそう言って、真っ直ぐ俺を見つめた。
お前だけが頼り。
そう言われては、断る訳にはいかない。
俺は、兄上から画家の卵を引き取る事を決めた。
☆
兄上が帰って、画家の卵をさてどうしようか、と考えていた。
メイド達に給仕してもらって、茶を飲みながら、くつろぎつつ考えた。
ふとドアがノックされて、接客のメイドが入ってきた。
セシリーではない、都の屋敷に残していった別のメイドだ。
「ご主人様、バイロン・アラン様がお見えになりました」
「バイロンが? 通せ」
「かしこまりました」
接客メイドが一旦出ると、ほぼ入れ替わりでバイロンが入ってきた。
なにやら急いでいるのか、普段はきっちりセットしている髪が乱れ、額に大粒の汗が浮かび、息を切らせている。
「どうした、そんなに慌てて」
「し、失礼しました……お前達」
バイロンは振り向き、今まさに入ってこようとする彼の部下たちを急かした。
部下たちは幾つもの箱を運んで、部屋の中に並べた。
「それは?」
「はっ。まずはご報告を。エイダ様がご懐妊なされました」
「ほう」
エイダ。
俺の手引きで王宮に入り、陛下の目に止まって、庶妃になった女だ。
もともとバイロンの下についていた女だったが、妃になったことで立場が逆転して、今や「エイダ様」と呼ぶ立場だ。
「良かったな」
「ありがとうございます! これも殿下のおかげです」
「ん」
「つきましては――」
バイロンはそう言いかけて、振り向き、彼の部下たちに目配せした。
部下たちは一斉に運んできた箱を開けた。
箱の中は、びっしりと金貨が詰まっていた。
「すごい……こんなの見たこと無い」
俺の背後で、給仕していて、今は控えている若いメイドがぽつりと漏らした。
箱一杯に詰められた金貨。
この量だと――ざっと十万リィーンって所か。
「殿下のご尽力への、ささやかな気持ちです」
「わかった、貰っとく」
「ありがとうございます!」
俺はメイドを呼び、箱の金貨――金をしまう所へ案内しろと言いつけた。
メイドとバイロンの部下が一緒に出ていって、ここから機密の話になっていくから、給仕してる若いメイドも下がらせた。
部屋の中には、俺とバイロンの二人きりになった。
ソファーに座って、向き合う俺たち。
「実は、もう一人――レベッカ妃もご懐妊が分かったのです」
「なるほど」
いやはや、さすが陛下だ。
ここに来て更に二人子供追加とはな。
というか、例の避暑地へ庶妃達を連れていったあれ……あれの結果が今出たって事だな。
「つきましては、どうすればいいのか、殿下にアドバイスを頂ければ、と」
「向こうにも後見人が?」
「はい。実は既に向こうは動き出しているとの事」
「お前は? もう何かしたのか?」
「いえ、殿下にお話を聞くまでは余計なことはすまいと。まずはここに伺った次第でございます」
「そうか。なら何もしないでいい」
「え?」
「むしろ、現状命拾いしたかもな」
「そ、それは……?」
驚くバイロン。
命拾いという言葉に瞠目する。
「……どういう、事なのでしょうか」
俺は声を低く押し殺して、バイロンに答えた。
「陛下は、二度の謀反で嫌気が差している」
「――っ!」
話の内容の重大さに、バイロンは違う意味でまた顔が強張った。
「親王達に色々政務をやらせているけど、兵権や、決裁権をがっつり握ってるのがその証だ。陛下は今、権力を握ろうとする人間をこころよく思わない。内裏にかこつけて成り上がりが権利を握ろうとするなんて、一番のタブーだろうな」
「な、なるほど……」
「だから、何もしない方がいい」
さっきのアドバイスに戻って、それをもう一度口にすると、今度はハッとしたバイロン。
「し、しかしそれではいくら何でも」
「急がば回れ――いや、負けるが勝ちってヤツだ」
「負けるが……勝ち」
「何もせず、むしろ積極的に身を引くのがいいと思う。同時期に懐妊した方の、お前と同じ立場の人間が積極的に動いているとなれば、それはいい対比になる」
「あっ……」
やっと分かったようだな。
「だから何もするな、むしろ積極的に退くべきだ」
「なるほど、さすが殿下! 素晴しいアイデアです!」
バイロンは思いっきり喜んだ、そして胸を撫で下ろした。
十万リィーン分の金貨を担いで急いでやってきたのと同じように。
俺から話を聞いてなければ、次の瞬間嫡妃に昇進するであろうエイダの為に色々動いている所だろう。
「そもそもな」
「そもそも?」
「今の陛下は実に名君だ。数百年に一人ってレベルの」
「はあ」
それは分かってるけど、それがどうした? って顔をするバイロン。
「権力を獲りに行こうとする行為なんて、いくら上手くやっても陛下に筒抜けだ。そういう意味でも、何もしない方が良い」
「まったくもっておっしゃる通りでございます!」
バイロンはそう言って、立ち上がってドアを開けて、外にいる彼の部下に手招きをした。
「今すぐ店に戻って、もう十万リィーンお持ちするのだ」
「はっ」
お礼の上積みは、それだけ彼が「命拾いした」と思った度合い、そのままだった。





