184.民の声
「ご老人は皇帝陛下をご存じなので?」
「もう何十年も前の事じゃ」
老人は酒場の中なのにもかかわらず、遠くを見るような目と何かを懐かしむような表情をした。
「3~4回ほどその姿を見ている」
「なんと!」
俺は驚いた。
数十年前と言えば俺がまだ幼い子供の頃。
そんな頃に俺の事を3~4回も見ているというのはどういう事なのか、老人の言う事がますます気になった。
「あれは酒場、このような下品なところではなく、歌を聴きながら酒も楽しむ、まあ大きい街にあるようなあれじゃ」
「へえ」
返事をしつつ、何となく話が読めてきた。
たぶんだけど――。
「皇帝様はその酒場の歌い手の娘を助けたのじゃ」
やっぱり、と俺は思った。
アリーチェの所だ、と思った。
「歌い手の娘を助けたということは、チンピラに絡まれたか何かで?」
「その通り。まあ、世の中にはごまんとある話じゃが、皇帝様はその娘を助け、なおかつ援助までしたのじゃ」
「そのような事を」
「娘もいい娘じゃ、当然、恩返しをさせてくれといいだした」
「当然ですね」
「その時の皇帝様はなんと言ったと思う?」
「さあ」
アリーチェとの一件だ、もちろん覚えているがそのまますっとぼけた。
「歌っているだけでいい、と言ったのじゃよ。見目麗しい娘じゃ、その娘が仮にわしに『恩返しを』と言ってきたらわしはもうその場でメロメロのクラクラじゃよ」
老人は冗談っぽく、笑いながらいった。
「それは外面が良いだけなのでは?」
「その一件だけならそうじゃ。言ったじゃろ? 儂は4~5回見ていると」
「そうでしたね」
「その時に恩返しを断ったばかりか、その後も金銭の援助をしたり、挙げ句の果てには店ごと買い取ってその娘が歌いやすくした。そこまでやっても恩返しを求めなかった。わしが都を離れるまで、その娘はずっとその店で歌い続けておった」
「そんな事が」
「すごいのじゃ」
爺さんは興奮し、グイッ、と手元の酒を一気に飲み干した。
それでますます顔が赤くなって、ますます興奮した。
「わしも長く生きているけど、権力をもって腐らなかった人間は後にも先にもあの皇帝様しか知らんのじゃ。大抵はちょっとした権力をもてば振りかざすというのにまったくそうはしなかった」
「まだ幼いからでは?」
「あはははは、町長の息子程度でも幼い頃から安い権力を振りかざすのが人間じゃよ」
「なるほど、たしかに」
「わしは6~7回ほど皇帝様に会っているが、最後の最後まで権力を振りかざすことはしてなかったのじゃ」
「そういう方なのですね」
俺は爺さんの言葉に相づちを打ち続けた。
俺に会ったことのある回数が爺さんの酒の量と比例して増えていくのがちょっとだけ面白かった。
「皇帝陛下が戦を続けている事についてはどう思われます?」
「前の皇帝様もやっていたし、儂ら地下にすむ人間にとっちゃ、飯が食えて明日の心配が無いようにしてくれただけで素晴らしい皇帝様じゃ」
「そうですか、慕われているのですね。なにか陛下にこうして欲しいこととかはありますか?」
爺さんの酒が進んで、どんどん本音っぽいのが出てきていた。
せっかくだから一つの意見として聞いておこうと思った。
「そうじゃな、もっと遊びに来てほしいのじゃ」
「遊びに視察?」
「前の皇帝様は度々地方に出向いたのじゃ、公式に」
「ああ……」
遊びにというか、視察に出向く事か。
たしかに先帝、父上は度々地方に視察に出向いていたな。
しかも俺がよくやるようなお忍びではなく、公式の視察でかなり大がかりな隊列を率いてそれをやっていた。
「戦をするのもよいが、たまにはわしらの所にも降りてきてほしいのじゃ。皇帝様が顔を見せれば安心するし、まあ色々と儲かるもんじゃ」
「確かに儲かりますね」
俺は笑った。
これは民の偽らざる本音だろう。
皇帝が公式に、大々的に地方に視察に出るとなるとかなり金がかかる。
国庫に集めてきた税が、それによって地方にばらまかれるということでもある。
それに、父上はさほどでもなかったが、まわりの人間はやはり都から離れれば開放的になり、旅先でサイフが大いに緩むものだ。
「しかし地震もありましたし、しばらくは無理そうですね。今の陛下は民をいたずらに騒擾する事を好まないと聞きますから」
「逆じゃよ」
「逆?」
「天災のあとはすぐに来てもらったほうが、役人どもも急いであれこれ直してくれる物じゃ」
「そういう考えもありましたか」
俺は少し感心し、その後も老人からあれこれと話を聞き出していた。
☆
数時間後、俺は部屋に戻った。
部屋の中ではシンディーが何か書き物をしているが、俺が部屋に戻ってくるとパッと立ち上がって俺を出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「まだ寝ていなかったのか」
「はい、日記をつけていました」
「日記を?」
「ご一緒する旅で何が起きても良いように、その日起こった事を事細かく書き残すようにしています」
「そうか。ペンと紙があるのなら丁度いい、都に出す手紙を代筆しろ」
「はい」
シンディーはそう言い、再び座ってペンを執り紙と向き直った。
「復興が大体どれくらい掛かるのかを試算した上で、それに合わせて余の初視察を行う。その方針で尻を叩かせておけ」
「すぐにじゃなくてもよろしいのでしょうか?」
「うん?」
「すぐに行くと言えば復興も早まるのではありませんか?」
「いや、そこで無理をさせてはほころびも生まれる。あくまで本来の試算でいい。その代わり、視察の予定はかなりおおざっぱに、余の気分で歩き回る事にする」
「陛下の……ご気分で?」
「日程やら行程やらが決まっていればそこだけ取り繕えばいいだろう? そうはさせない、満遍なくやっておけというメッセージだ」
「なるほど! すごいです陛下」
シンディーは興奮気味に言い、俺の言葉を紙に書き留めていった。
「書けたか?」
「はい」
「ならそれを帝都に有線逓信ですぐに送っておけ」
「逓信ですか?」
シンディーは不思議そうに目を見開いた。
「まだまだ先の話です、有線逓信ではなく馬でもよろしいのではありませんか?」
「我らは明日にも被災地に入り。この事で妙な動きをする連中が出るのなら、余がいる間に直接フォローする」
「……すごいです陛下、そこまで考えて」
「早めに送っておけ」
「はい! すぐに」
シンディーが部屋から飛び出していった。
大きな街、この宿場町くらいの大きな街なら有線逓信の中継所がある。
中継所があればそこを起点に送ることもできる。
そこにシンディーが向かっていったのを見送った。
「……アリーチェも連れてくればよかったな」
思いがけない「再会」がちょっと面白く、気がつけば口元が緩んでいた。





