その3 ダークサイドPART.1
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SEINUタワーマンションは星奴町の西端にある。
昭和の高度経済成長期の中で建設され、最盛期には十五階二百十の部屋が全て埋まった事もあった。しかし、三十年ほど前から住人数の減少に歯止めがかからなくなり、維持管理費とのバランスが取れなくなった数年前、ついにオーナーが手放して売りに出された。
立地は決して悪くないものの、どういうわけか誰ひとりとしてマンションを購入することの無いまま、現在では手つかずの状態で放置され、廃れている。町役場も建物の解体を計画し始めているという噂だ。
そんな場所に興味本位で近寄る人間などごく少数だ。だからこそ、監禁場所には最適だと言える。
少女はそのマンションの一室にいた。ソファーの上で横たえられ、身動きが取れない状態にある。……というのも、口元に猿轡をされ、布団で全身をグルグルに巻かれた上にガムテープで固定されているからだ。抵抗する素振りは一切見せていない。
一人の黒い作業着姿の男が少女に近づく。品のない笑いを浮かべながら。
「よーし……大人しくしていたみたいだな。なに、怪我はさせないから安心しろ」
怪我をしない範囲で痛めつける、という意味だ。少女は何も答えられない。
屈強な男が相手とはいえ、全身に布団を巻きつける時に抵抗は出来なかったのか。無理だったのだ。彼女はその前に全身の自由を奪われていたのだ。
男はまた呼吸用マスクを取り出し、ソファーの近くに置かれていた機械にチューブを接続した。そして、少女の猿轡を外して、すぐさまマスクを押し付けた。今の少女に、自分の呼吸を我慢するだけの力は残されていなかった。
イソフルランは吸入麻酔薬の一種で、笑気ガスと並んで現在の日本の医療で使用されている代表的な麻酔薬だ。笑気ガスを除いてほとんどの吸入麻酔薬は、専用の気化器を使って気化させなければ麻酔作用を発揮しない。だから、小説や映画で度々散見される、布に染み込ませて口に当てるという方法は現実には使えない。
「どうだい? イソフルランのお味は……」
ちなみにイソフルランは他の吸入麻酔薬と比べて毒性は低いものの、無防備に吸わせて決して安全な物質とは言い切れない。味もにおいもあまりよくないので、よほどの悪意がない限り無理やり吸入させることは誰もやらない。やろうとした時点で違法である。
確実に、短時間で昏睡状態に陥らせるには、静脈注射で麻酔薬を注入する方がいいのだが、これでは体に痕跡を残してしまう。多少効率が悪くても吸引に頼るしかない。医療現場で継続して眠らせる時に、再度イソフルランを使うことはないのだが、何種類も麻酔薬を用意するわけにもいかなかった。元より、少女の健康など意に介していなかった。
少女の意識は再び混濁し始めた。薄く開けていた目も閉じ、力なくぐったりと倒れ込んだ。男の嘲るような笑い声だけが部屋に響く。
少女が意識を喪失した事を確認すると、男は携帯に話しかけ始めた。
「ああ……万事抜かりなくやってやったぜ。あの野郎の言った通り、追いかけてくる奴は確かにいたな。正直、俺はそんなことあるわけがないと思っていたが……」
電話の相手が何か言った。
「おうよ、こちとら金が手に入ればそれでいいのさ。それさえ叶えば約束は絶対に守ってやる。実際のところ、俺らがいくら稼いでも全部上に持って行かれるから、一泡吹かせてやりたいって思っていたところさ。……いいか? 大金掴んだら俺らもトンズラする。分け前は半分、成功したらあんたと縁を切ってやる。約束通りに、な……」
全ては計画通りに進んでいた。携帯で話す男も、その相手も、仲間も、そして計画の全てを牛耳っていた人物も、順調な進行に昂揚感を隠せずにいるだろう。
……だが、全員が計画の全てを認識しているとは限らなかった。




