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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
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11.顔を強張らせる者達

 農場にある林からは、動物達の息遣いがほとんど聞こえない。聞き慣れない騒音に怯え、巣にこもっているからだ。人間にとって町が発展する心地のいい音も、彼等には迷惑以外の何物でもないのだろう。


 ゼノビアの東地区には農園があり、そこから少しだけ北に行くとハルベリア国時代に建てられた古い住居があった。その旧官僚達が住んでいた家々は広く、限りある町の土地をかなり浪費している。

 老朽化の進むその建物が取り壊されなかったのは、図書館のように流用できないかと保留されていたからだ。幾度も利用案は検討されたが、上手い案が浮かばなかったらしい。

 雨季の長雨でついに傾き始めたその建物達は、貴族である女性達の決定により、長かった寿命を終えた。一度更地となったその土地には、コンクリートが敷き詰められ、新たな建物の輪郭が見え始めている。

 異世界の建築様式で総合病院を作ろうと提案したのは、アルバートだ。シャロンの工場計画だけでなく、総合病院建設にも補佐役として彼は深くかかわっている。それだけ彼は優秀なのだろう。


 着々と工事が進められている現場からは、大工達の立てる大きな音が止まない。

「おい! そっち行くぞ!」

「ういっす! よ……っと!」

 槌を打ち付ける者、かんなで木を削る者、コンクリートを練る者等、それぞれ別の事をしているが、一同の顔は空にある太陽のように明るかった。自分達が町の発展に貢献しているという意識が強いせいだろう。心なしか、汗さえも輝いて見える。


「そこぉ! あぶねぇぞ! そこだよ! そこ!」

 口調は荒いが、きちんと意思疎通を行い、事故を起こさない大工達を満足そうに見つめる女性達がいた。総合病院建設の主軸となっている、貴族の女性陣だ。

 その金属製ヘルメットをかぶっている女性達は、シャロンを意識している。シャロンを嫌ってはいないようだが、年下に全ての信頼や功を持って行かれるのは、恥ずかしいと考えているのだろう。

 シャロンとその女性陣は、お互いがお互いの刺激になっている。彼女達のおかげで町の発展は、数倍の速度になっているようだ。ゼノビアの民は、町のいたる所で彼女達を褒めている。

「はぁぁぁぁ……」

 皆が意識できていないだけで、町が発展する起点となったある異邦人男性は、大きな溜息を吐き出していた。建設中の総合病院を見つめる彼の目からは、全くといっていいほど気力が感じられない。

(くそ……。結局全部食べちまった……)

 じとりとした目つきのハルは、積んである木材に座り、悲しそうに膨れた自分の腹をさする。

(騙されたぁぁ……。あの……詐欺師めっ! くそ……あの店のおねぇちゃんがいけないんだ……。あんな……あんな黒くてエロいのつけてるから……)

 ハルのその発言は、正しくない。確かにアルバートは断り辛い場面を作ったが、嘘は一言も言っていないからだ。今現在ハルがその場所にいるのは、高級感に圧倒されて混乱し、女性の色かに惑った彼自身のせいだろう。

 残念な事に、彼は馬鹿なのだ。リンカの里にいる誰にでも優しい長老が、致命的というほどに。

(ちきしょう……。自分の貧乏性が憎い。よく考えれば、あの時点で食べるのを止めていれば……。いや……でも、自分であの額は払いたくないし……)

 頬杖をついて幾度も溜息を吐くハルを、貴族の女性達が見つめている。彼女達はシャロンと共に配給を行っており、ハルの事をよく知っていた。

「あれ……。そうですよね?」

「ええ。配給でいつも問題を起こしていた異邦人よ。何? 金になりそうだとでも思ったのかしら?」

 ハルへ向けられている女性達の視線は、好意的とは言い難い。彼の奇行を、シャロンが怒り過ぎたせいだろう。誰かに怒られている者を、人はつい下に見てしまう事がある。特にハルはシャロンに平謝りを続け、周囲から情けなく映っていた事が大きいだろう。

「あの……皆さん?」

 病院建設の連絡事項を思い出し、アルバートはハルを待たせてその女性達と簡単な打ち合わせをしていた。

「アルバートさん? 何故、あんな方を連れてきたのですか? 足を引っ張られる事はあっても、役に立つとは思えませんよ?」

 アルバートに、女性陣は本音を告げた。日頃外面がいい彼女達だが、アルバートには歯に衣を着せない。この場合は、女性達の本音を常に引き出せるほど信頼を得ているアルバートを、褒めるべきなのだろう。

「皆さんは勘違いをされていますよ。ハルさんは確かに、掴みづらい人ですし、突飛な事もしますが……。いい人ですし、良く働きます。何より、頭がいい」

 苦笑いを浮かべながらも、アルバートははっきりと女性陣の意見を否定した。そういった彼の正直な部分を、皆は信頼しているのかもしれない。

「ですが……」

「ハルさんは、かなり薬の知識を持っているんですよ。文明の高い世界から来ていますし……。きっと、役に立ってくれます。責任は私がとりますので、信じて下さい」

 アルバートは、穏やかだがはっきりとした声で意見を主張する。それに対して、女性陣はしぶしぶといった雰囲気ではあるが、首を縦に振る。

 それなりの身分にいる女性達は彼に逆らうだけの地位を持ってはいるが、力を行使しようとしない。アルバートに悪く思われたくないのだろう。

 どうやらアルバートは、貴族の女性達にとって憧れの対象らしい。彼に向けられた視線の幾つかには、情熱的な物も含まれている。


「では、後はお願いします。私は工場の件もあるので、これで」

 頭を下げて去っていくアルバートの背中を、残念そうに見つめていた女性達の目が、細くなっていく。彼女達は遠くを見ようとしたのではない。ハルが視界に入った事で、自然と不快感が顔に出たのだ。

「お待たせしました。いきましょうか?」

「ああ……はい」

 木材をベッド代わりにして仰向けになっていたハルに、アルバートは声をかける。

「で、その仮営業してる病院って、どこですか?」

「こちらです。すぐそこですから」

 女性達の視線になど気付きもしないハルは、気怠そうに起き上がり、アルバートの後を付いて行く。そして、工事現場近くにある、仮設病院内へと入る。

(壁が……これトタンだよな? ちょっと材質違うけど……。へぇ……ここの文明でも、色々作れるもんなんだなぁ)

 病院内は大勢の人でごった返していた。貴族の女性陣が異邦人の意見を取り入れて作った新たな試みが、上手くいっているのだろう。いままで医者各個人に任せていた医療費に基準を作り、国が補助をし始めた為に、患者が増えたのだ。

「こちらは仮なので、待合室と受付に診察室……と、医者の方に住んで頂いている個室だけです」

(入院はなしで、皆自宅療養って事か? よくわかんねぇな……)

 人を避ける間に待合室の隅へと追いやられたハルは、眠たげな目のまま、待合室と受付を一望する。

(あれ? 受け付けも看護師じゃないよな? あれ? もしかして、看護師っていないのか? うん?)

 ハルの視界に、一人の女性が入った。その彼女は、白衣を着ており、医者だろうと推測できる。診察室から出てきた彼女に患者達は群がり、神でも崇めるように頭を下げ、それぞれが近状報告を行う。

「見て下さい! 肩が動くようになったんです! 本当に貴女様のおかげです。ありがとうございます。ありがとうございます」

「あ、駄目ですよぉ。亜脱臼してたんですから、後三日はあまり動かさないでくださいねぇ」

 赤みのある長い茶髪を首の後ろで結んでいる女医は、白衣のポケットに両手を入れたまま、笑顔で患者達に返事をする。

「あの方……覚えていますか? 化粧をして多少雰囲気は違いますが……」

 長いつけまつ毛とえくぼが印象的な彼女の事を、ハルは知っていた。その為、アルバートの説明を遮る。

「一緒に貴方の講義を受けましたね。彼女は医者だったんですか」

「ええ。なんでも……インターンという、高尚な医療職だったそうですよ」

 インターンの事を知っているハルの目が、細くなった。

(いや……あの……それ研修医。高尚ではあるかもしれんが、医者の卵だぞ? もう一人でやらせてんのか?)

 今居る世界の医療事情がよくないと改めて思えたハルは、大きく息を吐き出す。そのハルとアルバートを見つけた女医は、細めていた目を見開いて駆け寄った。

(なんだ? 子供まで押しのけるなよ……うっ! なんだよ?)

 二人の前まで来た女医は、目を輝かせながらアルバートではなくハルに笑いかける。そこまでなら、ハルは気にしなかっただろう。

 だが、体が密着しそうなほど、彼女はハルに急接近した。心の準備をしていなかったハルは、彼女への警戒レベルを引き上げる。女性に慣れていないと自覚できているハルは、下手をすると簡単に骨抜きにされてしまうかも知れないと常々考えていた。その為、無意識に防衛本能が働いたのだろう。

 女性との経験を積まねば、ヘタレと言われる状態から抜け出せないと、彼は分かっていない。何よりも、金がらみの下心や仕事でなら女性と普通に接する事が出来るのだから、ハルはその状態から簡単に抜け出せるはずだ。彼が残念な思考回路さえ持っていなければ、すでに恋人が出来ていたかもしれない。

 ただ、そこに気が付けないからこそ、彼は彼なのだろう。

「お久しぶりですね。ベインさん。私の事は覚えてくれてますかぁ?」

「はぁ……ご無沙汰です。覚えてますよ」

(名前は元々知らないけどね)

 顔を引きつらせたハルは後ろに下がろうとしたが、壁に阻まれて上手くいかない。ハルの心境を察しながらも、アルバートは助け舟を出さない。二人が仲良くなる切っ掛けになればと、本気で考えているからだ。

「講義を受けてた時から、貴方には注目していたの。勿論、いい意味でね。何かこう、他の人と違うと言うか……」

(お前……思いっきり無視してたじゃん。学生共が原因になる前から……。女こえぇ)

 女医の言葉は、ハルの心を凍てつかせる。ハルにとって彼女の見た目は申し分ないようだ。

 しかし、内面が許容の外に出てしまっているらしい。そして、彼女が白衣を着ている点も大きいのだろう。それは、彼に研究所での生活を思い出させる。

「あ! こんな所で立ち話もあれだよね? ちょうど今から休憩だし、診察室空いてるからそっちで話そうよ。ね?」

(なるほど……従え……と……)

 自分の方へ視線を向けたハルに、アルバートは大きく頷く。瞳から生気をなくしたハルは、女医の誘導に従う。

「あ、ねぇ。私時間ないから、食事買ってきて。客の分もよ。いい? 今日こそは、私の気に入らない物を買ってこないで頂戴ね」

 診察室に向かおうとした女医は、受付の前で足を止める。受付をしている若い男性に、食事を買ってこさせようとしているらしい。その彼女の口調は、氷のように冷たく、傲慢さがにじみ出ていた。

(本来はあっちだろうなぁ。お客に対しての外面がいいだけか……。って事は、やっぱり何か下心ありって所か……。はぁ……面倒くさい)

 二面性のある女医の本心に、ハルは気が付けない。興味のない事には全く頭が回らない質の彼を、責めるだけ無駄なのだろう。


 天窓から日の光を取り入れている明るい診察室には、木製の椅子が三脚、机とベッドが一つずつ置かれていた。女医の使う机にはカルテらしき紙が乱雑に置かれているが、それ以外に診察器具はない。その世界の医者達は、問診と触診をメインに患者を診断しているのだろう。

(いやいやいや……)

「ね? いい話でしょ? これなら、貴方も楽になるし、お金も入ってくるの。ね?」

 女医の狙いは、ハルの秘薬だった。売り上げの一割を渡すからと、女医はハルに製造方法開示を要求している。

(用法容量は医者がいるからいいのか? いや、でもなぁ……)

 開示すれば薬の販売量が増え、手間が必要なくなるのはハルにも理解できるが、簡単に頷ける事ではない。元々利益率九割以上である事と、女医の胡散臭さがハルを悩ませているのだ。

「まあ、商品の薬全部とは言いませんので……。如何ですか? ハルさん? 値段調整も相談には乗りますので……」

 交渉の手助けにと口を開いたアルバートだが、女医は彼の言葉を遮る。

「いえっ! 駄目です! 全部です! それに、素人が販売するのはよくありません! 全ての管理は私達に一任して貰います!」

(こいつ……馬鹿なんじゃないのか? 俺の返事を聞く前にそれを口に出して、俺が了承するとでも?)

 顔をしかめたハルの手を取り、女医は潤んだ瞳で訴えかけた。これほど分かり易い色仕掛けも珍しいだろう。

「ね? お願い。人の命を救う為なの。ね? 私の為だと思って。ね?」

(あれ? 結局自分の為ないんじゃないの? それ? 馬鹿かお前は! せめて、真面目に騙そうとしろよ!)

 ハルだけでなくアルバートが笑顔を崩して溜息をついた時に、診察室の扉が勢いよく開く。そちらへ向けたハルの顔が、それまでと違う理由で強張った。

(ひぃ! 何? お化け? 物の怪の類? タタリ的な何か?)

 診察室に入って来たのは、波打った腰までの長い黒髪を持つ女性だ。黄ばんだ白衣を着ているその女性も医者なのだが、見た目でそれだとは認識し難い。手入れをしていない長い髪は、彼女の顔をほぼ隠しており、隙間から見える隈のあるぎょろりとした目は他者に恐怖を与えてしまう。

 また、彼女が病的なほど細い事も、その怖さを強調させていた。頬はかなりこけており、指や肩の骨は浮き出して見えている。彼女を見て、動く死体や死神を連想する者は多いだろう。

「なっ! なに? ちょっ!」

 診察室に入ったその彼女は、強化の術でも使っているのではないかと思える速度で歩みより、ハルの腕を掴んだ。悲鳴さえ上げられないハルは、急いでその手を振り払う。

「はぁ……」

 リンリーという名のその女性の事も知っているアルバートは、再び溜息をつく。医者という職業の者は、扱いづらいと考えているようだ。

「いいから! お前! こっち来いっ! いいから!」

(ひぃぃぃぃ! よくねぇよ! 何? この人? 怖いんですけど!)

 ハルの腕に何度も手を伸ばすリンリーに、もう一人の女医は敵意のある目を向けている。

「ちょっと! いきなりなんですか! 失礼じゃないですか! 先に私が話をしているんです! 後にしてください!」

(ええ? 失礼って、俺に対してじゃないの? ひっ! こいつの手は……アンデッドの眷属だ! やめっ! 怖っ! やばい! 殺される前に殺さなければ!)

 同僚の女医にいい感情を持っていないのか、リンリーもかなり大きな強い声で返答をした。

「うるさい! 薬! 内科医の私にまかせるべき! いいから! お前! 来い!」

「落ち着いて下さい! 二人とも! お願いですから!」


 状況を見かねたアルバートが女医二人を落ち着かせる様子を、部屋の隅に逃げたハルは怪訝な表情で見つめる。女医二人が落ち着いた事で、彼の切れてしまった脳の線もなんとか繋がったらしい。

「いいですか? お二人の気持ちはよく分かりますが……。ハルさんに納得して頂かないといけないんですから、強引なのは駄目ですよ。いいですか?」

「まあ、そうですけど……。でも、こうしている間にも、困っている患者がいる訳で……」

 女医二人は椅子に座って落ち着いたようだが、納得はしていない事が表情から読み解ける。恐怖からグローブまで装備していたハルは、その二人を見つめていた。

「私、悪くない。薬の作り方、聞き出さないといけない。違う?」

 リンリーが異常なほど長い前髪をかきあげた事で、ハルの目が少しだけ緩む。彼女は顔の作り自体は悪くないのだ。しゃれこうべを思い出させるほど痩せてさえいなければ、普通の女性といえるだろう。その上で化粧をすれば、美人に見えるかも知れない。

(確か……内科医……つってたな……)

 顔をそむけたまま低い声で口論する女医二人の前へと、ハルから近づいていく。彼の思考回路は、常人のそれと違う発想を生み出すようだ。

「あの……」

 先程まで恐怖の対象だったリンリーに、ハルは話し掛けていた。もう一人の女医が、怒りに顔を歪める。

「お! なんだ? 部屋に来るか?」

「いや、貴女、内科医ですよね? 胃薬……もらえません?」

 ハルの押さえられているお腹は、異常をきたしていた。食べ慣れない料理を取り過ぎたせいだろう。

「なんだ? 調子悪いか? 漢方でいいな? 調合してやる。部屋に来い!」

(いや! ちょ! 薬だけよこせ!)

「あ、待って下さい。私も行きます」

 ハルを引き摺るリンリーについて、アルバートも診察室を出た。

「ああ! ちょ……。くそっ!」

 診察室に残された女医は、自分の爪を噛み始め、しばらくしてから部屋へ食事を届けた若い男性に八つ当たりをする。外面の良さで、リンリ―よりも人気のあるその女医は、内面的には褒められない人物のようだ。



 病状を伝えた後、付いて行くからとリンリーの腕を振りほどいたハルに、アルバートが耳打ちをする。

「彼女は、リンリー・リュウさん。ハルさんと同じ時期にこちらへ来た異邦人です。言葉はまだ完璧ではないですけどね。彼女も性格は少し癖がありますが、善い方ですよ」

(もって何? こいつは……悪気なくちょいちょい毒吐くな)

「ここ! さあ、入れ」

 窓がないオイルランプに照らされた部屋に入った所で、ハルは口と鼻を押さえる。事前にリンリーの部屋の事を知っていたアルバートは、すでにハンカチで口元をふさいでいた。

(何? この部屋! 黒魔術か、人体実験でもしてんのか?)

 漢方薬を研究製造している彼女の部屋は、怪しい雰囲気と、刺激のある臭気に包まれている。虫を含めた動物の体の一部や、見慣れない植物が無造作に置かれており、机の上では毒々しい色の何かが煮詰められていた。

(なんだよ! このゲロすっぱ苦い部屋は? ある意味で、お似合いの部屋だけども!)

「はいはい。ここに座れ。ちょっと待て」

 おっかなびっくり室内へと入ったハルに、リンリーは折り畳みの椅子を渡す。アルバートを客とは考えていないのか、彼には椅子すら渡さない。

(う……え? 虫をすりつぶしてません? え? あれを俺が飲むの?)

「はい、これ。こっち普通の胃薬。で、こっち下剤。悪いは外に出すが、一番早いよ」

 粉末を紙に包んだリンリーは、笑顔でハルに差し出した。製造過程を見ていたハルの顔色は、あまりよくない。

「今、飲む? 水いる?」

「あ、いや。後にします。で……料金は……」

 ハルの前に椅子を置いたリンリーは、満面の笑みを作る。可愛いとはとても思えない彼女の顔は、女性に不慣れなハルを緊張させない。ハルの中で彼女に対する恐怖も、会話を続けた事で和らいでいる。

「それ、ただにしとく。嬉しいだろ? だから、薬、作り方教えろ。全部」

 アルバートが大きな息を吐きだし、ハルが頭を掻く。

(馬鹿か貴様は!)

「嫌ですよ。それなら、これは返します」

 ハルの差し出した薬を、リンリーは受け取らない。

「それ駄目。一回受け取った、もう駄目。早く教えろ」

(こっ! この……)

 余りにも強引なリンリーに対して、ハルの中にある何かが目を覚ます。それ以降の会話は、強い言葉の投げつけ合いになった。

「嫌だっつってるでしょうが! せめて、もう少し建設的な提案をしてくださいよ!」

「駄目よぉ。今、お前、立場弱い。素直、教えるがいい!」

 ハルはリンリーに引き摺られるように、本音をこぼし始める。嘘が上手い彼だが、交渉能力はまだまだのようだ。

「なんだと、この野郎!」

「野郎違うよ。あ! 暴言! 今、暴言! 私、傷ついた! 慰謝料! 薬教える!」

 口論を止めよかと考えたアルバートだが、それをしない。リンリーがハルの別の一面を引き出せていると感じ、彼女に任せてみるのもいいかもしれないと考えを改めたようだ。

「では……リンリーさんにお任せしますね。私は、別の仕事があるので」

 故意的に小さな声で挨拶をしたアルバートに、ヒートアップした二人は気付かない。

「ばっ! 違うよ! 全部教えたら、俺が困るだろうが! これ売って生活してんだよ!」

「なら、いくらがいいか、言えばいい! 今のお金、高過ぎ! 半分でも高過ぎよ! ただがいいよぉ」



「はぁ……はぁ……」

 非番だったリンリーと、ハルは長時間の口論を終える。その頃には、ハルの鼻は麻痺しており、臭いが気にならなくなっていた。

「ほれ、飲め」

 陶器のコップに入った茶色い液体を、リンリーは差し出す。ハルは、伸ばそうとした手を止めた。その理由が分かるリンリーは、鼻で笑う。

「交渉、終わり。これ、本当ただ。タンポポコーヒー作ってみた。試作品。ここは、お茶、コーヒーないのは、本当、嫌なるね」

「嘘だったら、女でも殴るからな……」

(まあ……もう取り決めの書類も作ったし、いいか。おぉ? コーヒー? 泥水みてぇだ。不味いなこれ。てか、本当に泥水じゃね?)

 足を組んでコーヒーを飲むリンリーは、満足げに契約書を見つめる。そこには、薬の製造を病院へと委託する内容が書かれていた。ハルは全ての製造方法を教えるつもりはなく、病院に必要な最低限の物だけに留める事に成功したらしい。その代り、月々一定額しか受け取れない事になったようだ。

(薬を下してもらってる店は……調整しないといけないな。仕方ない。渡してない薬を出して、値段下げるか。一応、単純計算で利益は増えるし……。しっかし、不味いなこれ)

「やっぱり、失敗。乾かし、焼く……。他に何する?」

(いや、俺に聞くな。知らん)

 コーヒーからの何気ない話から、二人は会話を続ける。本音でぶつかりあったせいか、いつの間にか打ち解けてしまったらしい。

「ああ、お前の世界にも魔法はなかったのか」

「風水、方術あるけど、ここの術と違うね。見えないよ。空想、話だった」

 ハルは自分と同じ世界から来たのではないかと、リンリーに色々と問いかけたが、話がかみ合わなかった。それは当然だ、全く別の世界から彼女は来たからだ。

「違う。私居た大陸、国一つ。属州だけよ」

(おおう? 中国もしくはモンゴルとかが大陸統一しちゃった感じか? なんかそんな感じだよな? くそ……よく分からん)

 元居た世界で、ハルは中国の魔術に関わる事も勉強させられた。

 だが、それは翻訳済みの本を使ってであり、言語自体は習得していない。多少その事を悔やんでいるようだが、後の祭りだ。



 しばらくリンリーと会話を続けたハルだが、かなり遅くなっており、詳細の打ち合わせを翌日に延ばして帰路についた。

(結局……薬いらなかった……。消化しちまったよ。くそ……なんか負けた気がする……)

 ランタンを持って宿舎へと帰ろうとしたハルは、帰り道で女性と出会う。それは向かい合っての出会いではなく、歩行速度が速かったハルが、前方を歩く女性に追いついただけだ。

(ん? なんだよ……)

 一人で夜道を歩いていた女性は、後ろから聞こえてくるハルの足音に気が付き、何度となく背後を確認する。その女性の気持ちがくみ取れないハルは、何もない自分の背後を確認してから、それまでと同様に歩き出した。

(へ? え?)

 ハルの顔がはっきりと見えた所で、その女性は走り出す。ハルはやっとそこで、相手の気持ちが理解できたらしい。

(え? 何? 不審者? てか、俺が不審者? 嘘っ! まだ何もしてないよ?)

 胸部や臀部しか見ていなかったハルは覚えていないようだが、女性側は後ろに迫った彼の事を覚えていたのだ。彼女は、アルバートが行きつけにしている料理店の店員だった。

(ちょ! 待って下さい! お嬢さん! 俺は不審者じゃない! 気のいい商人です!)

 残念は思考回路の彼は、どうしても言い訳がしたいらしく、走り出してしまう。逃げる女性の顔が恐怖で引きつった。必死の形相をした男性が全力で追いかけてくるのだから、怖くないはずがない。

(待って下さい! こんちくしょう!)


「きゃああああああぁぁぁぁ!」

 ハルに追いかけられていた女性は、大きな悲鳴を上げて倒れ込んだ。原因はハルのせいといえばそうなのだが、別の恐怖に襲われて大声を出したのだ。

「なんだ? あれ? なんか、見たことあるな……こんな場面」

 逃げ込んだ路地裏で男性に抱き着かれて倒れ込んだ女性は、もがいている。見るからに異常な男性の腕の中から、抜け出そうとしているのだ。

「あ……ああ……うぅぅ……」

 焦点の合っていない虚ろな瞳で、唾液を垂れ流している男性は、女性に噛みつこうとしていた。

(あ! ゾンビ映画ってこんな感じだよねぇ……。え? ここってゾンビいるの?)

「嫌っ! 嫌っ! 嫌っ! 止めっ! 助けて! いやああああぁぁ!」


 呑気な事を考えているハルに、なりふりを構えない女性は助けを求めた。ハルの抱えている不運は、奇行に走る彼を否応なく事件へ巻き込もうとするらしい。

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