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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
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8.感じ取るもの達

 雨季の恵みにより、目が痛いほどの緑に染まった草原。その草原から、一つの光が大空へと飛び立った。ツバメのようなフォルムのそれは、鳥に見えるが正確には鳥ではない。鳥の形をした術なのだ。

 微弱に輝くその術は、星の少ない闇夜にも負けず、主の意思を伝える為に羽ばたいた。向かっているのは、山の中にある集落だ。そこには術者の想い人がいる。


「おお……よし。来い」

 明かりもつけずに家の軒先前で仁王立ちしていた青年は、遠くの光る鳥を見つけ、嬉しそうに顔を緩めた。何時もならば夕暮れまでに届く恋文が、その日は皆が寝静まる時間になっても届いていない。その為、青年は恋人の身を案じて眠らずにいたようだ。待ちに待った術の光を見た彼の喜びは、一入なのだろう。


 遊牧民の娘と婚約しているその青年の名は、アミール。猛禽類を思わせる鋭い目と長い黒髪が目を引くアミールは、中性的な面影を持っており、容姿的に恵まれている。リンカの里とは別の集落に暮らしているが、長老の孫の一人で、ハルを認めないと言った人物だ。

 彼は容姿だけでなく、能力的な面でも恵まれている。運動能力はもとより、生まれついての精総量が多く、知能も高い。統率力と判断力でも抜きに出ている彼を、周囲は数十年に一人の逸材だと評している。

 周囲からの大きな期待に、才覚と努力で応え続けたアミールは、まだ十代だがもう後の長に内定していた。そして、将来的には周辺の集落を纏める長老になるだろうとまで、噂されている。

 そんな彼が、遊牧民の娘と婚姻を結んだのは、集落の長に内定してからだ。長になる者には集落をより良くする責任があり、内々での結婚を続けて血を濃くし過ぎないように外部から嫁を娶るのが習わしとなっている。現在の長老も、出身はルーベだ。

 生まれながらの強運を、アミールは持っている。その為か、見合いの席で、遊牧民の娘とアミールはお互いに一目ぼれをした。つまり、見合いによる出会いにもかかわらず、彼とその婚約者は恋愛結婚をしようとしている。

 アミールが唯一手に出来なかった物は、仮面だけだ。だからこそ、悪い方向にハルへの執着が捨て去れないでいる。

 だが、まだ長老宅で眠っているハルは、彼について何も知らない。もし知っていれば、嫉妬の対象とするかもしれないし、立場を入れ替えたいと考えるかもしれない。それだけアミールは恵まれている人物なのだ。


「よし。こっちだ。今日は……忙しかったのかもしれないな。あいつは働き者だ……」

 鳥の形をした術は、嬉しそうに独り言を呟いたアミールの眼前で、術式とメッセージの書かれた紙に変わった。山の民が使うその術は、集落間での連絡に使われている。他の部族へは教えないという暗黙のルールがあるのだが、いずれ嫁になる婚約者だけという条件付きで許可を取り、アミールは恋人にその術式を教えて恋文を交わしているのだ。

「なっ! なにが……」

 週に一度交換している恋人からのメッセージを読んだ所で、アミールの顔色が変わる。紙には急いで書いたとしか思えない雑な術式と、助けてというメッセージ。恋人の身に何か良くない事があったのだと、アミールでなくとも分かるだろう。

「くっ!」

 しばらく呆然としていたアミールだが、険しい顔で屋内へと駆け込む。どうやら彼は、恋人の窮地に駆けつけようとしているらしい。家族の迷惑も顧みずに、かなり大きな音を立てながら弓や槍の用意を始めた。

「どうしたんだぁ? アミール」

 騒ぎに目を覚ましたアミールの親兄弟が、目を擦りながら問いかける。

 しかし、一心不乱に出かける準備を続けるアミールは、返事をしない。頭の中は愛する者の事で、一杯になってしまっているのだろう。

「待てと言っているんだ! どうしたんだ?」

 アミールの父親は、家から飛び出そうとした息子の肩を掴む。父親にも、息子の様子でただ事ではない何かが発生したと分かっている。だからこそ、状況を聞き出そうとしているのだ。

「放してくれ! あいつが……あいつが、困っているんだ! 俺が……なんだ?」

 父親の手を振り払ったアミール目掛けて、光の鳥が舞い降りてきた。その鳥も、メッセージが書かれた紙へと姿を変える。

 今度の紙には、先程のメッセージと自分の事は忘れてほしいと書かれていた。その紙の端には、人の物だと思われる血が付いている。

「そんな……」

 頭のいいアミールは、そのメッセージの深い意味を短い時間で読み解いた。その為、悔しそうに顔を歪めて玄関先で膝をつく。

 彼の婚約者は、アミールの能力をよく知っている。その彼女が来るなと言っているという事は、彼女に降りかかっている困難がアミールではどうしようもないという事を意味しているのだ。

「これは……。なるほどな……」

 息子の手からメッセージの書かれた紙を取り上げた父親は、両目を閉じて顎髭をさする。長老の息子であるその父親も、知能は高いらしく大よそをすぐに理解したようだ。

「お前は腕も立つし、頭も良い。だが、なんでも自分一人で抱え込むのは悪い癖だ。さあ立て」

 父親は一度しゃがんでアミールの肩を、強く叩く。

「あんないい子は他にいない。もう、私達も家族だと思っている。何か策を考えるんだ」

 立ち上がったアミールに、父親は力強くうなずいて見せる。

「そうだ……母さ……長老に相談するのがいい。あの人は、今まで困難を幾度も乗り越えてきている。きっと何か言い策を考えてくれるはずだ」

 父親からの視線に気が付いたアミールの母は、部屋に駆け戻り、長老へとメッセージを送る術式準備を始めた。アミールの弟妹達も、乗り物の準備をする為に、家畜小屋へと走り出す。

「お前は、若くて腕の立つ者を起こして来い。長である私からの正式な依頼としてだ。急げ!」

「あ……ああ! ありがとう……父さん……」

 寝静まっていたはずの集落は、日が上る前に騒がしくなった。狭く人数の限られている集落内の者達は、全員が全員を家族だと思っており、アミールの願いに誰も首を横には降らない。



 アミールが仲間を引き連れて集落を出た頃、ハルがリンカの里を後にする。それから少しだけ遅れて、長老の元にメッセージが届いた。アミールの両親が、推測をメッセージに書かない方がいいと、幾度か書き直していたせいで遅れてしまったらしい。その全ては、ただの偶然だ。

 メッセージを受け取った長老は、近隣集落の長を緊急招集した。長老宅の広い板間には、アミール達も含めてその長達が円を描いて座っている。

「そんな! 長老! う……」

 長老からの提案を聞いて、初老の男性が異を唱えようとしたが、言葉を詰まらせた。長老の鋭い眼光に、抗えなかったのだ。

「状況は説明した通りだよ。この年寄りが出るのが一番えぇ。見捨てる以外で、これよりもいい案がないなら、黙りな」

 彼女が提案した案とは、先祖から受け継いだ秘術を使える長老自らが、助けに向かうという物だ。

 現在ハルの持っているメダルが納められていた首飾りには、過去に損なわれたはずの魔法科学の術式が書きこまれている。地脈の力を使うその術は、危険と言えるほど強力であり、代々長老以外に使うことは許されていない。

「もう引継ぎは、とうの昔にすんどる。なら……老い先短いわしが行くのが、被害は一番少なくて済むはずだよ」

 胸の首飾りを撫でながら、長老はざわめく長達が納得するのを待つ。

「長老……。もう少し、もう少しだけ待って下さい。せめて、後一日……いや、半日でも。何か案を……」

 次代の長老になる予定の男性は、現長老を何とか引き留めようとしたが、相手は黙ったまま首を左右へ降った。

「今は、時間が惜しい。納得しておくれ……。大丈夫。あたしゃ……そう簡単にくたばりゃせんよ」

 おどけた様に笑って白湯をすすった長老から、他の案が思いつけなかった各集落の長は目を逸らす。皆、今回の件がどれほど危険かを、直感的に理解しており、家族同然の長老を守れない自分達の非力さが悔しく感じて恥ずかしいのだろう。

 どんなに彼等が悔しがり願おうとも、何の努力も準備もなく力は手に入らない。その世界はそのように出来ているからだ。


 話し合いが終わり、準備を済ませた長老は、山道でも走行可能な家畜に跨った。リンカの里に住む者達は、仕事を中断して全員が長老の見送りに出てきている。

「おばあ様……。ありがとうございます」

「まあ、可愛い孫の嫁の事だ。ほおってはおけないよ。その代り……結婚した後に、その子を大事にしてやるんだよ」

 長老の隣に自分の乗る家畜をつけたアミールは、心底申し訳なさそうに頭を下げたが、相手は笑顔を崩そうとしない。彼女はそういった性格だからこそ、外部出身者にもかかわらず、長老の地位についているのだろう。

「さてさて……。遅れるんじゃないよ! はぁ!」

 里の者に笑顔で頷いて見せた長老は、アミール達山の民の精鋭に喝を入れ、手綱を振るった。

 リンカの里を出た瞬間から、長老の顔は真剣な物に変わっており、眼光は驚くほど鋭さを増していく。彼女には、もう自分の命を捨てる覚悟が出来ているのだろう。決死の出陣である事が、その瞳を見るだけでうかがい知れる。



(ちょっ! もおっ! マジで! 勘弁してくれよ!)

 長老達が山を出て平原を走り始め、もうすでにかなりの時間が経過していた。長老達を追走していたハルは、立ち止まる。

「はぁ、はぁ、はぁ……どこ……まで行くんだよ……。マジで……」

 背嚢を魔方陣の中へ収納したハルは、長老達が見える距離まで追いつき、強化の魔法を切り替えた。精結晶の消費が激しい物から、日ごろ使っている物へ替えたのだ。そのつけは、肉体の負担となって表れていた。

 土埃避けにきていた上着を脱いで収納したハルは、服の袖で滴っている顔の汗を拭う。持久力に自信のあるハルだが、呼吸がなかなか整わず、肩を上下に揺らす。それは当然の事だろう。相手が同じ人間ではなく、長距離移動が出来るように進化した別の生物だからだ。

「はぁぁ……マジで……。どこに行くんだよ。こっちに集落ってないだろ? せいぜい……あっ。この先にも遊牧生活してる奴等はいるのか……」

 水を飲み干し、空になった竹筒を収納し終えたハルは、酸素を多く取り込む為に大きな呼吸を続けながら歩き出した。木がほとんど生えていない平原に遮蔽物はないが、もうすでに長老達は豆粒ほどの大きさにしか見えない。

(失敗だったかなぁ……。てか、俺は何してんだ? 化け猫の時もそうだが……。あれ? 俺って馬鹿なのか? いや! 嫌だ! なんか認めたら、負けた気がする! って……はい?)

 頭を掻き毟りながら歩いていたハルは、眉をひそめた。彼はそのまま振り返り、自分の進んだ道を数歩下がる。目を見開いた彼は、左腕の紋章で鋭敏になっている感覚で、分岐点に気が付いて驚いているらしい。

 長老達が向かっていた方向へと歩くと、ある決まったタイミングで空気が冷たくなり、ぴりぴりとハルの肌に刺激を与える。それとは逆に戻ると、まるで母体内のような安心できるぬるま湯にも似た何かに包まれるのを、ハルは感じ取っていた。

(なんだこれ? どうなってるんだ?)

 ハルは分岐点を幾度も入っては出る。長老達の事を一時的に忘れて首を傾げたハルは、その答えを出す材料は持っていた。

 化け物と戦った事件の際に、ハルは妖魔についてかなり多くの本を読みこんだ。それにより、ハルベリア周辺に強いとされている妖魔がほとんどいない事を知り、不思議には思っていた。その事と違和感に大きな関係があると、ハルは気が付く必要がある。


「ああっ! そうか……そういう事か。これは……結界」

 かなり時間はかかったが、ハルは答えに辿りつく。彼に違和感を与えたのは、魔除けの結界が張られた分岐点だ。人間にほぼ影響を与えない超広域結界から出た事で、ハルはその存在に気が付けたのだ。結界内に居続ければ、それが普通である為、違いには気付けなかっただろう。

(あれぇ? 強い妖魔を弾く? じゃあ、あの化け猫は? 内部発生したから……か? てか、全部弾いちまえばいいのに……。てか、ここで悩んでても仕方ないけど……)

 ハルベリアが聖都と呼ばれ、妖魔のいる世界で古くから町が維持され続けた理由が分かったらしいハルは鼻から息を吐いた。そして、長老達の事を思い出す。

 結界の事が大よそ理解できたハルの顔から、血の気が引いていく。

(なにかの災害に……知り合いが巻き込まれた。ってのも、無いわけじゃない。それに、俺が思いつけない理由があるかも知れん。でも……)

 武装した若者達を連れ、長老は結界内から飛び出した。普通に考えれば、その先に敵がいる可能性が高い。ゼノビア国民である遊牧民しかいないはずの土地では、敵が人である可能性が低い。

(マジかよ、ちくしょう。あのババァは……馬鹿なんじゃないのか? あんな物、人間がどうにか出来る相手じゃないぞ? 分かってんのか? くそ……)

 ハルの第六感は、化け物と戦った時と似た警鐘を鳴らしている。

 彼の中で、全てを引き裂く爪の恐怖が蘇ってきた。ハルは確かに化け物に勝利したが、その戦いは今現在生きているのが不思議なほどの勝率しかなかったといえる。もう一度同じ事をしろと言われて、躊躇なく出来る者は少ないだろう。

(あれと……もう一度……)

 呼吸を浅くしたハルの手から、粘り気のある汗が滲み出す。体の汗が平原を吹き抜ける風で乾いたせいもあるだろうが、ハルの首筋にはすでに鳥肌が立っていた。幾度も唾液を飲み込む彼は、刻まれた恐怖と戦っている。

 元の世界に戻る為に、安全な策を選びたいと考える彼だが、結界内へと戻る一歩が踏み出せない。待っているはずの敵が強いと思える自分の勘と、彼の網膜に焼き付いた長老の真剣な顔が、それを許さないのだ。

(駄目だ……。俺には約束がある……。帰りたいんだ。もう一度あいつに……)

 脳裏に現れたハルにとって大事な女性は、優しく笑う。それと同時に、ハルは右の拳を強く握った。左腕の紋章は、すでに強い輝きを放っている。

「えええぇぇぇいっ! くそったれが! とりあえず、様子を見るだけだ! 最悪……最悪! ババァの家から金品をゲットしてやる! くそっ!」

 精結晶を魔方陣から取り出したハルは、それを全て握りつぶしてグローブ内へと取り込んだ。そして、三つの魔方陣を体に張り付けて走り出す。



 動物の感覚は、人間よりも優れている。長老達の乗っていた家畜達は、目的の場所へ向かう事を全力で拒否した。その為、長老達は家畜を小川近くで木に繋ぎ留め、徒歩で移動している。

「大丈夫ですか? おばあ様?」

「なに……。はぁ……大したことじゃないよ」

 若者達の中でも、特にアミールが祖母を気使いながら、平原を進む。彼等は、妖魔に出会わない事を気にしながらも、足を止めなかった。強敵が待っているだろう事は、予想できていたからだろう。弱い妖魔が人を襲わない理由は複数あるが、近くに強い妖魔か魔獣がいるという可能性が高いという事は、その世界では常識らしい。


「見えました。あれです」

 視力も優れているアミールは、逸早く遊牧民たちの使う移動用住居を見つけ、長老や仲間に分かる様に指さして見せた。

「はぁぁ……。あれかい……。皆……落ち着くんだよ。焦っちゃいけない。いいね」

「はい」

 長老を中心に据え、若者達が円を作る。剣を抜いた彼等は、そのまま周囲を警戒しつつ、移動式住居へと歩み寄っていく。平原である為、身を隠す事が出来ないのだ。

「あ……ああっ!」

 移動式住居へ接近した事で、アミール達にはその前に座らされている者達が見えた。アミールの婚約者とその家族は、固まって座っており、ぐったりとしている。

 その隣に別の塊を作って座っているのは、マムとその仲間達だ。彼等は婚約者の家族達より少しだけ顔に精気はあるが、何者かに手酷く痛めつけられたらしく、ほぼ全員が体のどこかに包帯を巻いていた。

「落ち着きな! こりゃ……罠だ!」

 顔をしかめた長老が叫ぶと同時に、平原の草むらが幾つも盛り上がっていく。それらがなんなのかは、立ち上がってみて初めて分かる。緑色の体毛を持つ、偶蹄目らしき妖魔だ。

 鹿に似たそれらは、背中からだけ長く垂れた毛を生やしており、見た目はそれほど人間に恐怖を感じさせる物ではない。

 ただ、それらが頭に生やした天に向かって伸びる二つの角は、日本刀を思わせる色と形状をしている。見ただけで、その角がかなりの殺傷力を持っている事は、長老達にも分かっているようだ。

「くそ! 囲まれた!」

 獲物を待ち伏せしていた鹿型の妖魔は、長老達を逃がさないようにする為か、移動式住居を囲む様に身を潜めていた。

 人を罠にかけられるほどの知恵を敵が持っていると分かった長老の顔が、どんどん強張っていく。それだけの知恵を持った妖魔が、どれほど恐ろしいかを、長老はよく知っているらしい。

 その鹿型妖魔達の一匹一匹は、ハルが戦った化け物より弱い。精の総量に至っては、半分もないだろう。

 だが、偶蹄類の習性をそのまま持っているらしいそれらは、群を作っている。その総数は三十を超えているようだ。精鋭とはいえ、十人程度しかいないアミール達が普通に戦っても、勝ち目はないだろう。唯一といっていい望みは、長老の持つ秘術のみだ。


「駄目ぇぇぇ! 逃げて! アミール!」

 敵の恐ろしさを知っているアミールの婚約者は、恋人の声で自失状態から抜け出し、想い人に逃げるようにと大きな声で叫んだ。

「心配するな! 今助けてやる!」

 自分と秘術の力を信じているアミールは、婚約者からの言葉に従わない。彼は、相手の力量を見誤る事がどれほど危険かを、分かっていないのかもしれない。

「助け? あれは確か、山の民。彼等なら……いや……無理だ」

 マム直属の傭兵集団を仕切っている男性は、アミール達に目線を送るが、その瞳からすぐに光を消す。その男性は、アミール等の力量を認識しており、勝てないとすぐに判断したようだ。

「情けない……。情けないねぇ……。勇んで駆けつけてこれだよ……」

 傭兵の男性と同じ結論を出したマムは、悔しそうに地面を殴る。

「駄目……駄目なのに……。逃げて……逃げてよ……。私のせいだ……。あの人まで……私が殺してしまう」

 アミールの婚約者はがくりと肩を落とし、地面に向かって呟く。その彼女の体中には、妖魔につけられたらしい多くの歯形が残っている。

 鹿型である妖魔の歯は、肉を食べるようには出来ていない。アミールの婚約者や他の者が体に刻まれた歯形も、傷自体は浅い。そんな妖魔達が、何故人に噛みつくかといえば、多少でも傷をつけられれば精を吸い出せるからだ。

 生命力その物といえる精を吸い尽くされれば、人間は死んでしまう。

「くそっ! なんだ! こいつ等!」

 長老を守る様に円を組んでいるアミール達は、刃物のような敵の角を警戒して、近づけさせないようにと即興の策を講じた。弓矢と術の遠距離攻撃を仕掛ける彼等に、敵は近づいてこない。

 しかし、アミール達も気が付いたようだが、妖魔達は近づけないのではない。敢えて近づかないのだ。妖魔達は、矢や術を完全に見切っており、危なげなく避ける。それも、最少の動きで全てを回避していた。

「なんなんだよ! くそっ! 当たれ!」

 まるで遊んでいるかのように、妖魔達はアミール達に近づいて、矢や術をかなり近距離で避けては離れていく。アミール達もフェイント等は使っているが、敵は予測だけでなく反射だけでも矢や術を避けられるらしく、かすりもしない。

「くぅ! なら! うっ! なあぁ!」

 先に根負けしたアミールが、槍を握って前に出ようとしたが、それを妖魔達は見越していたらしい。アミールを槍ごと角で弾き飛ばし、元の位置に戻してしまった。

「強……い……」

 槍を通して伝わった強い力で痺れた両手を見つめて、アミールが歯を食いしばって、冷たい汗を流す。相手が反撃してこないせいで遅れたようだが、彼もやっと相手との力量差を認識できたらしい。

 群れを成した鹿型の妖魔達は、一匹だったとしても十人程度で倒す事が出来ない、結界の外に巣食う人間の天敵なのだ。


「無理だ! アミール! このままじゃ……俺達の精が尽きる! どうする?」

 術の準備に入った長老もそうだが、焦りから冷静な判断が出来ないアミール達も、敵の狙いに気付けない。妖魔達がアミール達を殺そうとしないのは、人間を家畜として飼おうとしているからだ。

 人間がいない地区に生息していたその妖魔達は、ある理由から平原に住家を移し、遊牧をしていた人間に遭遇した。弱く自分達に抗えないにも関わらず、美味な精を持っている人間を、妖魔達は格好の獲物と考えたらしい。

 当初は角で致命傷を与えてから、根こそぎ精を吸っていた妖魔達だが、人間は少し休ませるだけで精がかなり回復するのに気付く。そこで、弱らせた状態で飼うことを決めたのだ。更に、捉えた人間達を生かしたままにしておけば、その者達を助けようとする人間が現れ、家畜が増えるとも学習してしまっている。

 矢が尽き、術だけで抵抗するアミール達を、群のボスである大型の固体と、それよりも少しだけ小さな次席の個体が離れた位置から見つめている。飛んで火にいる夏の虫としかいえない人間の行動が、それらにはおかしくてたまらないのだろう。機嫌がいいらしく、毛並みのよい尻尾が、左右に揺れていた。

「くそっ! なんなんだよぉ!」

 誇り高いとされる山の民は、命を惜しまない戦いは出来る。

 しかしそれは、何かを得られるもしくは守れるならばという条件が必要だ。大事な者も誇りも守れない無駄死には、他の部族の者達よりも恐れてしまうらしい。

「俺達が……甘かった……」

 恐怖で心が折られたらしいアミール達は、妖魔達の誘導にまんまとはまり、マム達のいる所にまで下がらされていく。妖魔達にとって、そこが家畜の居るべき場所なのだろう。妖魔の中には、すでにアミール達の精を啜る事を想像して、涎を垂らしている固体までいる。

「よし……油断してるねぇ……」

 妖魔に囲まれた人間の中に、諦めていない者がいた。それは、恐怖に負けたアミール達でも、すでに諦めた遊牧民やマム達でもない。長老だ。

「これで……しまいだよ!」

 秘術発動準備を済ませた長老は、地脈を流用する為に両手を地面につける。それと同期して、長老の胸にある首飾りが光り出した。

「あ……おおっ!」

 地面から湧き出した巨大な火柱が、空へと上る。地脈の力を使ったその術には、鹿型の妖魔を一瞬で消し炭にするだけの威力がある。

「そん……な……」

 ただ、残念な事に長老の使った秘術には、発動までの時間が必要だ。飛んでくる矢を容易く躱す足を持ち、精の流れを人間以上に感じ取る妖魔達に対して、その秘術は相性が悪い。

 気を抜き過ぎていた妖魔の一匹は、秘術で後ろ足を多少火傷したようだが、致命傷には程遠い。その個体は、仲間達に庇われながら後ろに下がり、火傷した個所を舐める。それだけで、日数はかかるだろうが回復できるのだろう。

「まだ……まだだよ! 当たりさえすれば通じるんだ! 諦めて……」

 その場で諦める事の愚かさを分かっている長老は、恐怖を飲み込んで再び術を発動させようとした。

 だが、術の危険性を認識した妖魔達が、それを只見ているはずもない。年老いている上に危険な人間は家畜にしなくてもいいと判断し、地面を蹴って鋭い角を真っ直ぐ長老の心臓目掛けて進ませる。

「おばあ様! あ……」

 妖魔の素早過ぎる動きに全く対処できていなかった長老を突き飛ばしたのは、アミールではない。彼も動こうとはしたが、恐怖で足がすくんでいたようだ。それを行ったのは、アミールの婚約者だった。

 自分の不用意なメッセージのせいで、犠牲者を増やしてしまったと自分を責めていたアミールの婚約者は、もしかすると楽になりたかったのかもしれない。死を前にして、悲しそうに笑っていた。

 精一杯両手を伸ばし、口を大きく開いたアミールの目の前で、真っ赤な花が広がる。

「なっ! え?」

 その花は、女性の血によって出来たわけではない。真っ赤な球体の術が破裂して、空中に咲いた物だ。アミールは爆音で耳鳴りに襲われていた。


(はぁぁ……。俺の馬鹿……。へ……へへへ……。もう分かった。やってやるよ! だって、逃げられると思えないからね!)


 妖魔達が身構えた方向に目を向けた人間達が見たのは、黒く奇妙な仮面をかぶり、派手な服を着た指名手配中の男性だ。もうすでに脳の線を切ってしまったらしいその男は、どこか飄々とした足取りで長老達へと近づいた。

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