6.軽く死にかける男
人間とは飽きやすく、話題とは移ろいやすい物だ。長い雨季が明けた聖都では、特殊な変態や町中に出た妖魔が、もう人々の話題には上らない。
住民達が今熱心に語り合っているのは、新しく作られた大型工場についてだ。ハルと同時期に来た異邦人が国の援助を受けて建てたその工場では、流れ作業等の今までなかった仕組みが導入されている。それまでほぼ家内制手工業しかなかったハルベリアに、産業革命といえる変化が起こっているのだ。
その工場で作られる安価な紙や布は、直接的な服や本だけでなく、市場全体の物価を急激に変化させていた。
そういった変化には本来、富を得る者と失う者が多く出てしまう物だが、聖都ではそれが顕著ではない。人々の生活は全く混乱しておらず、逆に笑う者が増えていく。異邦人に工場の指揮を任せながらも、初期投資を全て担った国が、権利を所有したままになっているからだ。
国側の責任者として、名乗りを上げたのはシャロンだ。彼女は、工場の影響を受けて職を失いそうな者達と調整を行い、それまでの経験も活かせる工場で雇い入れて生活を保障していく。国民達からの絶大といえる信頼を得ていた彼女が、直接出向いて交渉を行った影響は大きい。問題が、事前に予想されていた半分も発生しなかったのだ。
配給を受けている低所得者の雇用や、元奴隷達の住んでいた地区の再開発が、革命に否定的な非合法組織の者達では対応できないほどの速度で進む。カモだった低所得者が減り、食い扶持を失った者の一部が工場を直接襲撃しようともしたが、イヴ達兵士によって全員捕縛された。
この大きな変化は、順調に進み過ぎている。多少の綻びが出てもおかしくないはずだが、全くその兆候がない。それは当然の事と言えるだろう。この流れを仕掛けた黒幕がおり、彼が上手くやっている。
その人物とは、ブロウ卿だ。精神的に異常をきたした状態から脱した彼は、かつて築いていたコネクションを回復させ、長い年月によって貯えた知恵をいかんなく発揮している。王を含めた権力を持つ現役の兵士や貴族達が、彼の元部下とその子供や孫達なのだから、彼の発言力はおのずと強くなったのだ。
ブロウ卿が人生最後の大仕事としてそれを選んだのは、ハルが化け物と戦った例の事件が切っ掛けになっている。ノーマを探す為に貧困層の集まる地区を直接見た彼は、苦しむ人達を救おうと決心した。それが上手くいけば、化け物ももう二度と生れないだろうと考えての事らしい。
生き甲斐であり老い先短い自分の命よりも大事なノーマが、喜んで協力してくれている事もあり、滾りを思い出した老人は突き進んでいる。黒幕とは言っても、ただ表立っていないだけでいい事をしているのだから、彼は何も間違えていないはずだ。
その流れとは別だが、名を上げていくシャロンに負けまいと、貴族の女性陣が主導を取った総合病院設立計画も、順調に進んでいる。どんどん生活が豊かになっていく聖都の人々が、笑っているのは当然なのかもしれない。
そんな聖都に住む民の間で、話題に上がっている事がもう一つある。そちらは、工場の件と違い、陰から陰へと囁かれており、シャロン達の耳にまでは届かない。
「邪魔するぞ。おい……大丈夫か?」
木造の古い建物の扉をノックしても一向に返事がない為、男性は家主の許可なく中へと入った。その家の中には、女性が一人。彼女はベッドの上でうずくまっている。
「兄さん……」
家主の女性は兄である男性に肩を軽く叩かれ、放心するのを止めて泣き始めた。
「聞いたぞ……。まだ連絡はないのか?」
泣きながら頷いた妹を見て、深刻な顔で男性は目を閉じる。行商人である妹の夫が、帰宅予定日から一週間たっても連絡がない事を、人伝えで男性は既に聞いていた。
傭兵を雇っていたとしても、町の外へ出れば妖魔がいるのだから、常に危険は付き纏う。時間に正確だった者が帰ってこない事で、二人が最悪の事を想像しても仕方がない事だろう。
「落ち着いて聞けよ……。お前を救ってくれる可能性がある人に、心当たりがあるんだ。実は、俺もショーンに聞いただけなんだがな。あいつが嘘をつかないのは、お前もよく知ってるよな?」
どうしていいかも分からず、ただ泣いていただけの女性が、兄へと顔を向ける。それを見て、男性は不可能としか思えない依頼を受け、完遂してしまう者の噂を喋り出す。
「それなりの金はいるらしいがな……。それは、俺がどうにかする。うちの家畜を処分してもいい。どうだ? 相談するだけしてみないか? 手順が複雑で、呼ぶにも時間が必要らしいし……」
結婚して間もない女性は、もう一度愛する者に会えるならばと、微かな希望にすがる。兄である男性は、妹の家を飛び出していった。
その男性が言った者の事こそ、聖都内で囁かれている話題だ。真偽の確かではないその噂だが、瞬く間に広がっていく。豊かになったとしても、世の中から悩み苦しむ者がどうしても尽きないせいだろう。
(わっふぅうううううぅぅ!)
聖都を豊かにしていく起点とも元凶ともいえる男性は、宙を舞っていた。羊達による猛突進を、正面から受けたからだ。
(ああ……空が青いなぁ……)
ひどくゆっくりと動く視界で空を見つめて現実逃避していたハルだが、地面へと落下した衝撃で現実へと引き戻される。
「へぶっ! ううぅぅ……」
「あああぁぁぁ! 待て! くそ! 追いかけろ!」
腰を抜かした女性の隣にいた男性達が、逃げた羊達を捕まえる為に走り出す。地面に倒れたままのハルは、それを見つめていた。痛みですぐには動けないのだ。
(最悪……。いってぇぇ……)
少し前までハルは、川で体を洗っていた。山の中にある集落間を行商人として回っていた彼は、透き通った水の流れる川を見つけ、旅の汚れを落としていたのだ。
その川へ、一匹のウサギが水を飲みに来た。ウサギが食料になると考えたハルは、可能な限り音を抑えながらも急いで下着とグローブを身に着け、ズボンへと手を伸ばした。
だが、そこでぴくぴくと耳を動かしていたウサギが逃げ出してしまう。その為、ハルはズボンを手放して靴を履き、左手からのナイフを握って走り出した。ウサギを追う事に必死で、周りが見えなくなっていたハルは、そのまま藪を抜ける。
藪の先には山の中にしては比較的平らな草原が広がっており、数人の若者が羊達に食事をさせていた。藪の中から、ナイフを握った変質者らしき男性が跳び出してきた事で、若者の中に一人だけいた女性が悲鳴を上げる。その声に驚いた羊達は、ハルに向かって走り出してしまい、今に至った。
(えっ? あれ? これって、俺が悪いの? いや、俺は悪くない! 悪かったとしても、認めない!)
「え? あ……」
ぷるぷると震えながらも上半身を起こしたハルに、悲鳴を上げていた女性が恐る恐る近付いていく。相手が誰か分かったからだ。
(うん? あっ! こいつ、ババァの孫!)
ハルも相手の事を知っている。悲鳴を上げたのは、リンカの里に住む長老の孫娘だ。
「あ……あの大丈夫……ですか? 行商人さん?」
(もしこれが大丈夫に見えたら、眼科か脳外科をお勧めするね! あ、あと精神科! しかし……利益の為だ……。くそっ!)
顧客に対してどうしても強く出られないハルは、なんとか怒りを飲み込んで、女性に笑顔を見せる。
「いやぁ。すみません。大丈夫です」
口と鼻から血を流しながらも笑ったハルを見て、女性が大きく息を吐いて、笑い返した。
「そうですか。よかったです」
(よかねぇよ。いてぇよ。くそ……うん? なるほど。よしとしよう!)
高地にあるリンカの里は、気温が低い日が多い。その為、里にいる間、住民は独特の刺繍がしてある厚手の服を着ている。
だが、家畜の放牧に来ている長老の孫娘は、上着を脱ぎ、シャツ一枚になっていた。体を動かし、暑かったのだろう。
(上下に……暴れとりますな。なんてこった。こいつは、最強の兵器だ)
長老の孫娘が、シャロン以上に大きな体の一部分を揺らして近付いてきた事で、そこを凝視したハルの怒りが完全に消える。リンカの里に胸部専用の下着がない事を喜んでいる彼は、心の底から笑っていた。理由は多分、馬鹿だからだろう。
「あのぉ。どうされたんですか?」
歯が血で赤く染まっているハルと、一定距離を置いた孫娘は、笑顔をひきつらせて問いかけた。
「申し訳ありません。そこの川で水浴びをしてたんですけど……」
ハルの説明に女性が納得したところで、羊達を連れた男性達が戻ってくる。ハルを見つめるその男達の目は、好意的とは言い難い。財産ともいえる羊を失いそうだったのだから、それは当然だろう。
「あ、この人達は、他の集落に住んでる私の従兄弟です。で、兄さん。こちら、行商人さん。前に言った仮面の……」
男性達がハルと初対面である為、孫娘はお互いにお互いの事を教える。その言葉で、男性達の目つきがそれまでよりも冷たくなっていく。
(んあ? なんだ? こいつ等?)
彼等がハルに敵意のある目を向けたのは、仮面のせいだ。妖魔のいる山で暮らす彼等は、腕に覚えがある。何時かは仮面を守るゴーレムを倒し、周囲から認められたいと考えていた。
自分達の物になるはずだった仮面を、奪われたと感じている彼等が、今のハルを見ていい評価を与える訳がない。何故このような情けない男を仮面は選んだのだろうと、怒りさえ感じ始めている。
「こいつがそうなのか? 信じられんな」
「ふん。どうせ何か、卑怯な事でもしたんだろうよ」
下着だけの姿で、血を流してだらしないとも思える笑顔のハルを、男達は馬鹿にしたように見下す。
(なんか、感じがよくないなぁ。なんだ?)
露骨な男達の態度に、ハルの顔からも笑顔が消えた。
「でね。川で水浴びをしてる最中に、ウサギを追いかけて来たそうなの。兄さん? ちょっと! 兄さん!」
従兄弟達の事情を知る孫娘は、なんとかその場を和ませようとしていたが、腕を掴まれて強引に引き摺られていく。
「行くぞ。俺達は盗人と喋る気などない」
(盗人? あれ? 集落? どこの? 何かしたっけ?)
秘薬の製造方法を聞き出したり、誰の許可も取らずに山の薬草を採取したりと、やましいことだらけのハルは、男達の言葉を素直に受け取ってしまう。そして、何がいけなかったのだろうと、一人で腕を組んで悩み始めた。
(うん? すげぇ。あれって手懐けられるんだ)
男達は羊を誘導しながら、普通の馬ではなくシカ科らしき動物に乗って去っていく。孫娘は抵抗していたが、年上からの強い言葉に従うしかなかったようだ。最終的には、孫娘も山羊らしき動物に乗って男達についていく。
(盗人かぁ……。やべぇな。やばそうな空気の集落があったら……。うん! 逃げよう! あのシカみたいなので追いかけられても、最大強化すれば何とかなるだろう。さて……)
男性達の態度云々よりも、商売の事を気にしていたハルは、自分ですぐに答えを出して川へと戻っていく。そこで下着姿だった事を思い出し、若い女性に見られたと落ち込む。
その彼に襲いかかろうとした妖魔は、運がなかったのだろう。自分で知覚するよりも先に、体が塵へと変わる。
山にいた妖魔が三匹ほど消えたのと同時刻、聖都の子供達を預かる施設へ、ブロウ卿が足を運んでいた。工場の運営で手に入れた利益の一部を、施設に寄付しているブロウ卿は、職員達に持て成される。
「少々お待ちください。すぐに連れて来ます」
「すまないな」
応接室のソファーに座って、出された果汁の入っている飲料水を飲んだブロウ卿は、窓から空を眺めて時間を潰す。
「よう! じいちゃん!」
応接室の扉を勢いよく開いたのは、ハルの顧客となった子供達の中で、リーダー格になっている少年だ。化け物での一件以来、その少年やメルにブロウ卿が会いに来ている。
「これ! 失礼でしょうが!」
「ああ、いい。それよりも、二人にさせてくれるか?」
職員を強引に追い出したブロウ卿は、年長の少年に他の子供達と分けるようにと、砂糖菓子を渡す。温厚な性格に戻ったブロウ卿は、子供が嫌いではないようだ。
「おお。ありがとう、じいちゃん。と……その顔は、またあれか? でも、兄ちゃんいないぜ? 行商に出てるから、後三日は帰ってこないと思うぞ」
諸事情から仕方なくある仕事の仲介をしているブロウ卿は、困った顔をして息を吐き出した。
「まったくあいつは……。ふらふら、ふらふらとぉ。こっちの身にもなれと言いたいな」
「まあ、兄ちゃんは、一応表向き商人だからなぁ。仕方ねぇって。それより、姉ちゃんは? もうだいぶよくなったんだろ?」
ノーマの話が出た事で、ブロウ卿の顔が綻ぶ。
「ああ。リハビリも終わって、もう一人でも歩けるようになったぞ。まだ多少痛むようだがなぁ。ふふっ、若さは財産だ。回復も早い」
半時間ほど少年との会話を楽しんだブロウ卿は、仕事の内容を伝言して欲しいと頼み、外に待たせてあった馬車で邸宅へと帰る。
帰宅後、工場に関する仕事を済ませ、夕食を取り終えたブロウ卿は、再び応接室にいた。施設のではなく、自宅の応接室だ。
「何度も説明したではないか。何が不服だ?」
ブロウ卿の邸宅を日が沈んでから訪れたのは、イヴだった。彼女は、化け物騒動の事を、ブロウ卿に再度尋ねている。あまりそれを探られたくないブロウ卿の眉間には、深い皺が入っていた。
「申し訳ありません。ですが……」
「何度聞いても同じだ。わしの娘がさらわれた。手強い相手だったが、相手の弱点を知るわし自らが赴いた。それだけだ」
町中に出没した妖魔は、ブロウ卿の手によって倒された事になっている。勿論、それはハルの秘密を守る為に彼が咄嗟についた嘘だ。
「何が気に食わんのだ? ミラーズのお嬢ちゃん。術の道具も見せたはずだが?」
危険な地区へ出向いていたブロウ卿は、身を守れればと兵士時代に使っていた術の道具を持っており、化け物はそれで倒された事になっている。
「あ、いえ。その点は、納得しています。私が今日お伺いしたのは、あの変た……仮面の男について聞きたいからです」
「それも変わらん。あそこにいた理由は、助けてやったから聞き出せただけだ。嘘か誠かは、わしにも分からんのだ。つまりだな……」
仮面の変態ことハルは、兵士達から隠れる為に化け物が倒された部屋に潜伏しており、偶然居合わせただけという事になっていた。もう少し他の言い訳も出来たかもしれないが、咄嗟のブロウ卿にはそれが限界だったらしい。一度ついた嘘を変えては余計に怪しまれると、ブロウ卿はその内容で貫いている。
どうしても仮面の変態を掴まえたいイヴは、ブロウ卿にその日だけで同じ事を三度喋らせた。機嫌が悪くなってしまった老人に、四度目を聞けなかったイヴは、立ち上がって頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。ご協力に感謝します。では……。あ、失礼。これを預かっていたのを忘れておりました。では、失礼します」
イヴが退室してから大きく息を吐いたブロウ卿は、冷や汗を拭い、受け取った大きな封筒を持って自室へと戻った。そして、住込みの使用人に飲み物を頼み、封筒の中身に目を通す。
「なるほどなぁ。確か、なかなかいい面構えだったな、こいつは……」
ブロウ卿が見ているのは、貴族間のお見合いに使われる履歴書的な物だ。高齢のブロウ卿は、自分が生きているうちにノーマの相手を探そうとしている。出来れば、孫を抱きたいようだ。イヴは隣家の夫人から頼まれて、それを届けただけらしい。
「悪くない。だがなぁ……。無理強いになるかもしれんしなぁ。ふぅ……。ただ……あの雲のような男が、素直に首を縦に振るとも思えん」
机の引き出しから、他の履歴書を取り出したブロウ卿は、それらを見比べながら頭を抱えてしまう。ノーマの心に、ある男性がもう住み着いているらしい事は気付いているからだ。
ただ、その相手と結ばれても幸せになれると思えないらしく、娘の幸せを願って色々と思い悩んでいく。
笑顔で刺繍がされた布を受け取り、魚の干物を顧客へ差し出したハルは、ブロウ卿の悩みなど関知していない。隙間的で利益の高い商売に、嬉々として取り組んでいる。
「四……五……六っと。じゃあ、また頼むよ」
「はい。毎度ありがとうございます」
リンカの里を訪れている彼は、長老宅で泊まっていた。そこへ、昼間予約だけしていった顧客が、代金となる布を持って訪れたのだ。
(ひへ……ひへへへへへっ。こいつぁ、上物だ。いいねぇ)
「お前は本当に……よくやるねぇ」
ハルの内面が透かしたように見えている長老は、目を細めて呆れたようにつぶやく。その長老に、納得がいく利益を得たハルはすぐさま返事をする。
「たりめぇだ。商売はタイミングつったろうが」
ハルが聖都での商売を一時休止して行商に出たのには、明確な理由があった。聖都では工場で作られた既製品が多く出回るようになり、オーダーメイドや一品物の服があまり作られなくなっている。なければ欲しくなるのが人情だ。景気がよくなっている事もあり、集落でしか手に入れられない絹や刺繍布は、値が上がったにもかかわらずよく売れる。ハルはそこに目をつけたのだ。
湖近くの集落で薬を魚等に替え、平原に戻ってきた遊牧民から加工肉を仕入れたハルは、集落を回っている。傭兵を雇わなくていいハルは、それだけで半年ほど遊んで暮らせる額の金を手に入れられるだろう。
「まあ、こないだよりも高値で買ってくれているようだからねぇ。皆喜んでる。だから、そこに文句はないよ」
「じゃ、黙っとけ、ババァ。がっ! つぅぅ……何すんだ!」
裏口の前でしゃがんでいたハルは、頭を長老に薪で殴られた。そのハルは、少し苦しんだ後、頭を押さえて涙目で振り返る。
「小耳にはさんだんだがねぇ。仮面をつけた露出狂の変態が、聖都に出たそうじゃないか。まさか、里の宝である仮面を貶める様な事は……。していないだろうねぇ?」
怒りの表情で薪を相手の鼻先へ突き出している長老から、ハルは顔を逸らし、躊躇なく嘘をつく。
「さあ、なんの事かな? てか、確認前に殴るって、頭おかしいんじゃないですか? くそババァ」
長老にはハルの嘘が通じない。長老の握った薪は、もう一度彼の頭へ振り下ろされる。
「いっ……てぇぇ……。止めろよ! マジで! 馬鹿になったらどうするんだ!」
「心配せんでも、お前はもう十分馬鹿だ」
どうしても怒りがおさまらないらしい長老は、そのまま幾度も薪をハルの頭へ向かって振り下ろす。
「こいつめっ! こいつめっ! 里の宝で! 何をしてくれてるんだい! 何を!」
「やめっ! 止めろ! このババァ! せめて訳ぐらい聞けよ!」
「今嘘をついて! 訳を喋らなかったのは! お前じゃろうが! この! この!」
長老の一方的な攻撃は、それからしばらく続く。騒ぎに気が付いた孫娘は、家の裏口へと走った。そして、そのハルが一方的に殴られる光景を見なかった事にしようと、そっと自室へと戻って行く。
「はぁ! はぁ! はぁ! 全く! ご先祖様に、申し訳がたたんわ!」
「知るか! てか、手加減しろよ! しくじったら、それで人間は死ぬからな!」
後ろめたかったらしいハルは、反撃をしなかった。腕の青くなった痣も、黙って術で回復する。
「まったくぅ……。で? 今日はなんだい? お前がわざわざうちに泊まりに来たのは、何か訳があるんだろう? 泊まり賃として肉まで用意して……」
色々と言いたい事がありそうな顔になったハルだが、時間の無駄だと思ったのか、本題のみを長老に聞いていく。その内容は、主に術と妖魔に関してだ。
「確かに、お前の想像通りだよ。妖魔も人間のみを食料にしている訳じゃない。それどころか、人を襲わない種もおるらしい」
痣の消えていく腕を擦りながら、ハルは質問を続ける。
「ああ、やっぱり? 町にあんまり来ないから、おかしいと思ったんだよ。で? 妖魔を超えた妖魔ってのの事は、何か知ってるか?」
「そう呼ばれる妖魔は、ごまんといる。成り立ちはそれぞれで違うだろうが、そいつらも、妖魔は妖魔だ。人間が種類分けしてるに過ぎないよ」
数分後、立ったままでは辛かったらしい長老に連れられて、ハルは長老の部屋へと移動した。白湯をすする長老に、ハルは可能な限りの情報を求める。
「さあねぇ。仮面は開示していいとされていたが、他の所はそうじゃないかもしれないよ。他に似た物があるかは、分からないねぇ」
「そうか……。あ、後さぁ。最近気づいたんだけどよぉ。精の流れって、感じられない奴の方が多いの? 俺、こっち来てから普通に分かるんだけど」
一時間以上質問を続けたハルは、最後に自分の事に関して長老に尋ねた。その答えを相手が持っていなくとも、構わない程度の質問だ。
「ああ。まあ、術に深くかかわった者……。術士や魔道士は、皆感じられるよ。後、お前の世界には術がなかったなら、新しい刺激としてお前は感じやすくなっているかも知れないねぇ」
長老は、ハルの元居た世界が今の世界よりも精が少なかったせいではないかと、推論を説明した。精が結晶化して、どこにでも落ちている事を思い出したハルは、それを素直に受け入れる。
しかし、それは間違いだ。ハルが言っている感知と、長老が言っている感知では全く精度が違う。左腕の紋章によって精神が現世と直接繋がっている今のハルは、通常の術士達よりも感知能力が高い。
その誤答の原因は、長老へ感覚的な事柄を上手く伝えられなかったハルだ。彼がその事に気が付くのは、もう少し後の話になる。
(儲かったし、情報交換も出来た。今日はなかなか有意義だったな。羊とババァに殺されかけたけど……)
客用の部屋で布団に入ったハルは、まだろうそくを消しておらず、ノートを開いていた。そのノートは、いつもの情報用ではなく、商売の売り上げ計算表だ。顧客を失いたくないハルは、利益率をそのノートに書いて計算し、調整している。
「えっ? はい?」
寝そべったままノートを見ていたハルだが、部屋の扉がノックされ、起き上がって布団の上に座る。
「夜分にすみません。失礼します」
丁寧な挨拶と共に入室してきたのは、昼間も会話をした長老の孫娘だ。彼女は日中と違い、貴金属を付けておらず、生地の薄い寝間着一枚だった。
(なんだ? うおっふぅ! 近くで見ると、すげぇ! あの! これ! すげぇよ! ハリウッド級だ! 多分……)
孫娘の放つ色香に惑ったハルは、脈を早めて粘度の高い唾液を飲み込む。目が泳ぎ始めた彼は、すでに挙動不審だ。
(やっべぇ……。なにこれ? この流れは何? え? あれ? まさか! こんな俺にも、チャンスが来たのか? そうなのか? 言ってみろ! え?)
一人で勝手に舞い上がったハルは、一人で勝手にパニックへ陥っていく。ある意味で、彼の人生はバラ色なのだろう。




