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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
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5.知恵を駆使するもの

 壁際の床に置かれたランタン。非合法な貸金業者が買い取るまで、倉庫として使われていたかなりの広さがある煉瓦造りの建物内には、今それ以外に光源がない。そのランタンが一つではない為、ほとんど何も見えないというほど暗くはないが、離れた部屋の隅には心許ない程度の光しか届いていない。

 その部屋に居た人々は、悲鳴を上げていた。自分達の命を脅かそうとするであろう異形が、突然現れたからだ。

 化け物に気が付いた子供達は、反射的に大きな声で叫んでいた。数日間、化け物の恐ろしさを強制的に見せられてきたノーラは、息を吸い込む様に恐怖を声で表現する。抗うすべを持たないその者達が化け物を前にして、震えるのも身を寄せ合うのも当然だ。


 両目を見開いたブロウ卿は、妖魔の事を聞きながらノーラの怪我を案じて移動を後回しにした事を、心底後悔していた。出現方法を見ただけでも分かる、普通ではない化け物がどういった物なのかを、今彼はほぼ直感で感じ取っている。

「あれは……あの化け物は……」

 かつて副騎士団長まで務めた事がある彼が思い出したのは、もう大昔ともいえるほど古い戦場の事だ。まだ若者といえる年齢で命令される側の立場だったブロウ卿は、化け物といえる妖魔に遭遇した事がある。その経験が彼に、相手の正体を掴ませたようだ。

 敵を理解できるという事は、有利なようにも思えるが、必ずしもそうではない。どう足掻いても勝てないし、逃げる事も不可能だと理解できてしまうと、残るのは絶望だけだからだ。


 若かりし頃のブロウ卿がいた部隊は、化け物の急襲によって彼以外が全滅した。彼が生き残れたのは、ゼノビア建国に大きく貢献し、部隊の隊長でもあった異邦人が命を賭したからだ。

 異世界の強力な魔法を使えたその異邦人は、化け物に王の居る本陣を襲わせない為に、命を消費する力を使った。その結果は相打ちだ。硬い鎧を紙のように引き裂く敵の攻撃を受けて倒れていたブロウ卿は、朦朧としながらもその一部始終を見ていた。


 どうする事も出来ないと理解できた彼の脳裏には、この世にもういない妻と息子の顔が浮かぶ。大事な者を失う事の苦しさを、彼はよく理解していた。自分には腕の中で震える娘のように大事な者を守る力すらないと、彼は悔しさから顔を歪めていく。

 その絶望に飲み込まれそうだった彼に、先程まで膝を震わせていたはずの男性が笑顔で問いかける。

「貴方と娘さんの命……。私に賭けてみませんか? お安くしときますよ。ああ、勿論…………成功報酬で結構です」

 ハルの言葉を聞いて、ブロウ卿は相手が恐怖からおかしくなってしまったのかと考えた。

 だが、ハルのどす黒い炎を灯す瞳と、怪し過ぎる笑みに怯えがない事を読み取る。そして、何か策があるのではないかと、蜘蛛の糸よりも細い可能性を掴む為に、しわがれた声を発した。

「いいようにしてやると……言っただろうが! 金なら好きなだけ、くれてやるっ! だから……」

(利益確保っと……。後は……勝率なんてほとんどねぇしな。念の為だ)

 ブロウ卿の言葉を聞き、更に口角を上げたハルは魔方陣を壁にぶつける。

「毎度ありがとうございます。それと……ガキ共。そこの壁、破れるぐらいに薄くしておいたから、どうするかは自分で考えろ」

 立ち上がって自分に背を向けた青年を、ブロウ卿は不思議そうに見つめた。ブロウ卿にも、彼が自己犠牲によって自分達を逃がそうと考えていないのは、分かっていた。先払いにさせなかったのだから、料金だけを持ち逃げしようともしていない。

 ハルの背中から、ブロウ卿は化け物へ視線を移して唾液を飲み込む。それは人間が単身で倒せるような、生易しい敵ではない。その事を再認識して、ブロウ卿は再度ハルに視線を戻す。ハルに説明する時間がないのは分かっているようだが、ブロウ卿は説明して欲しいと思っているらしい。

(あれ? まだこないのか……。逃げられないと思って余裕だなぁ)

 尻尾を立てただけで構えてもいない異形を見て、ハルは掴まえた獲物をいたぶる猫を思い出す。

 ハルもまだ理解しきれていないようだが、化け物はいたぶる為だけにそうしている訳ではない。確かにその化け物は、知恵がついて怨念により思考が人に近付いており、強さを誇示して優越感に浸っている部分はある。

 だが、一番の目的はそこではない。怨念によって生まれたその化け物は、恐怖する人間から力を得る事が出来るのだ。つまり、今もその強さを増している。

(その余裕……後悔させてやるよ! 化け物が! 言葉を封じる!)

 空中に出現させた魔方陣から、ハルは仮面とメダルを取り出した。そして、それらを素早く装備し、見られたくないであろう姿をさらす。不気味な仮面と派手な服の人間に、化け物も目を細める。

「ハ……ル……さん……」

 そのハルを見て、子供達は笑うが、ノーマとブロウ卿は恐怖を一時的に忘れるほど驚く。気のいい商人の正体が、変態と噂される指名手配犯なのだから、驚かない方がおかしいだろう。


(まずは……強化だ)

 右手のグルーブから五つの魔方陣を出したハルは、それを自分の目の前に並べた。化け物は前傾姿勢で構えたが、何をされても負けるはずがないと、様子見を選ぶ。

(へへ……。いい子だ。そのまま馬鹿みたいに見てろ)

 淡くそれぞれが違う色の光を発している魔方陣達は、術式の一部が消えていく。そして、その消えた部分には、それまでと違う文字や記号が刻まれていった。

 ハルは指一本動かしていないが、消したのも新しく描いたのも確かに彼だ。術式を組み換え、光の文字を浮かばせるアルバートのペンを流用したその術は、ハルのイメージ通りに動く。

「何を……しているんだ?」

 元軍人だったブロウ卿は、術に関してもそれなりの知識を持っており、ハルが普通ではない式を書き込んだのが分かったらしい。それも、敵を目の前にしてやっていい事ではないと、頭に血が昇り始めていた。

(完成だ。まあ、ただの流用と書き換えだしな……)

 ハルが書き換えたのは、感覚や筋力を増幅させる、兵士達も使っている術だ。一般的なその術には、リミッターが付いている。体内の精が尽きないようにする為と、体が壊れないようにする為だ。

 外部の精使うハルは、元々増幅率を限界近くに設定してあったが、今回はそれを完全に消した。人間の反応速度を悠々と超える相手には、それが最低限必要だと判断したのだ。

 勿論、彼は後先を考えていない訳ではない。今の彼には、壊れた体を修復する術がある。その回復用術の魔方陣も、取り込む精の量を増やし、損傷が酷くなる前に作用するように書き換えたのだ。

「あれは……結晶……」

 両手で掴み出した精結晶をハルは全て砕き、霧状になった力が五つの魔方陣に吸い込まれていく。そして、その取り込みを終えた五つの魔法陣は、ハルの肩や足などに張り付き、肉体の限界を超えた力を引き出し始める。


「グルル……」

(野生の本能が……鈍り過ぎだ!)

 相手からの圧力を感じ取り、化け物は動き出そうとしたが、それよりも一瞬だけ早くハルが床を蹴った。

「フゥゥゥ!」

 明らかに自分よりも速い動きのハルに、化け物は元々大きな目をさら大きくし、前足の爪を振りぬく。高速で移動したハルに、敵は驚異的な反応速度で対応したのだ。構えていた為か、その動作は容易には黙視できないほどだった。

(流石……けだもの……。へ……へへ……)

 敵が動いた瞬間を見逃さず、前進を中止して後ろに跳んだハルは、凄まじいと言える風圧を感じて笑う。少しだけ爪の先が掠った彼のひざ部分はズボンの布が破れ、血が流れ出していた。


(よし……いける!)

 ハルが着地すると同時に、背中に張り付けられている魔方陣が回転を始め、その膝の血を止める。それを見て、眼光を鋭くしたハルは、もう一度前へと出ていく。爪の恐ろしい威力を知っていながらのその前進は、狂ってでもいなければ出来ない事だろう。

「フシャアアアアァァァ!」

 敵が下がった事で追撃に出ようとしていた化け物は、予想外なハルの前進にバランスを崩しながらも、左右の爪を振るった。

 呪いの力を持つ化け物の動きと反応は、野生動物どころの騒ぎではない。子供達やブロウ卿には見えないほどの速度で、二本の前足が幾度も振るわれている。

(ははっ……ふははははっ!)

 突風を巻き起こし、更にその風を爪で引き裂く敵の攻撃を、ハルは全て回避していた。蹴りだし、跳び、急激な方向転換の度に、足腰の筋肉や骨格が悲鳴を上げているが、随時背中に仕込んだ術が回復させていく。

(どうした! 化け物!)

 戦闘開始から数十秒で、化け物の爪はハルに掠りもしなくなる。自分の動きに慣れてきたハルが、フェイントを取り入れ始めたからだ。左に行くと見せかけて右に行き、進むと見せかけて下がる。

 脊髄反射で動かなければいけない速度域で、そのフェイントはかなり効果的だ。脳が勝手に作った残像が、化け物には実体にしか思えないだろう。

 獲物が自ら射程内に入ってくる為、前足を振るう事に集中した敵は、完全に足が止まっている。化け物の射程ぎりぎりを出入りする事で、ハルは敵をその場に釘づけにしているのだ。

 それは危険すぎる行為だが、相手に予想外な動きをさせず、自分と守るべき者の安全が確保できることを、ハルはよく理解しているようだ。恐怖を投げ捨てた、冷静で狂った思考のハルならではの技なのだろう。

「フゥゥゥゥ!」

(まだ……避けるだけで、限界か。なら……)

 握っていた右拳を開き、ハルは小さな魔方陣を空中へとばらまく。その魔方陣は、ハルそっくりの分身体に変わり、敵の周りを走り始めた。それにより、光源である火の揺らぎも手伝い、ハルの実像は蜃気楼のように捉え難い物へと変わった。

(ここからだ。いくぞ! 化け物!)

 化け物の精を纏った爪は、分身体を切り裂けるが、本体へと向けられる手数が減る。それは、ハルの反撃へと直結していく。


「凄い……ハルさんが……もう私には見えない……」

 ブロウ卿に上半身を支えられているノーマの体からは、震えが止まっており、目から恐怖が薄らいでいく。

「なんなんだ! あんな事……あんな事! 人間に出来るはずがない!」

「馬鹿だな。じいちゃんよぉ。へっ」

 ノーマとは違い、それまでよりも体を震わせているブロウ卿を、少年が鼻で笑い飛ばす。その声で子供達に目を向けたブロウ卿は、困惑していた。目を輝かせた子供達は、全員が笑っていたのだ。

「お前達……怖くはないのか?」

「怖いけど……怖くない! だって、お兄ちゃんは負けないもん!」

 メルに続いて鼻から息を吐き出して首を左右に振った年長の少年が、年上の老人へ言い聞かせるように喋り出した。

「じいちゃんは知らないだろうけどさ。俺は母ちゃんに読んでもらった本で、兄ちゃんの事よく分かってるからな。怖がらなくていいんだ」

 年長の少年がさす本とは、子供向けの絵本の事だ。あまり深酒をしなかった日の母親が、少年を寝かしつけようと空想の冒険譚を読み聞かせたらしい。

 その主人公の設定が偶然異界から訪れた者だった為、少年はハルを勘違いした。そして、そのリーダー格の少年から絵本の内容を教えられた子供達も、同様に何かを思い込んだようだ。

「お兄ちゃんはね。私達を……世界を守る、守護者様なの。だから、信じればいいんだよ」

 ブロウ卿と一緒に、ノーマも首を傾げてしまったが、子供達の光が溢れ出しそうな瞳は陰らない。

「そうだよ。僕達は信じればいいんだ」

「俺達が信じさえすれば……。兄ちゃんは何があっても……負けないんだ!」

 ヒーローに向けられるべきその子供達の視線は、愛や勇気ではなく利益最優先の、狂った男に向けられている。ただ、最終的にその場を切り抜けられれば、ハルの優先事項が何であっても、子供達は納得するはずだ。


 子供達のように呑気にはしていられない、最高速度で今も動き続けているハルの顔から、笑みが消えていた。

(くそ……。予想が最悪の方ばかり、的中しやがる)

 分身体を有効に使い始めた所で、ハルは攻撃を仕掛けているが、成果は上がっていない。化け物の纏う精が強すぎて、普通の術が通じないのだ。術を一点集中させ、弱点となりえる目や口を狙いはしたが、着弾前に掻き消えてしまう。

(なんなんだ、あの黒いオーラは! くそ! ナイフまで弾きやがる!)

 攻撃用の術も式を書き換え、リミッターを解除しているが、威力には上限があり、どうしても敵にダメージを与えられない。本来人間が相手に出来ない化け物と戦っているのだから、その結果は当然といえば当然なのだろう。

(閃光弾は……駄目だ。相手にダメージはないし、万が一俺の目がつぶれれば、即アウトだ。逃走に使っても、相手次第。追いかけられれば終わる……。くそ)


 ハルの放った雷の術までもが消されたところで、戦いの局面が移る。業を煮やした化け物が、新たな攻撃を仕掛けてきたのだ。

(なんだ? やばい!)

 化け物の頭上に浮かんだ青い炎を見て、ハルの背筋に鳥肌が立つ。その第六感からの知らせは、正確だった。音もなく伸び広がった青い炎は、ハルの出した分身体二つを潰し、床に大穴を開ける。反射的に飛び退いていなければ、特殊な服を着ているハルでもただでは済まなかっただろう。

(溶けた? なんだ、これ? うおっ! また来た!)

 青い炎と接触した床の煉瓦が溶けていく。酸による融解を思わせる溶け方をしており、刺激臭を放っていた。敵の攻撃は、炎のように見えているが、通常のそれとは違っているのだろう。

(反則どころじゃねぇ。予想を超えてきやがった。うおおおぉぉ!)

 炎を避けて横に跳んだ先には、鋭く速い爪が待っていた。限界までダッキングしたハルの腕を、その爪が掠める。それだけで、ハルの皮膚や脂肪層は裂けてしまう。

(あの炎も、精の固まりかよ! くそっ!)

 転がるように敵と距離を取ったハルは、青い炎に向かって術と組み合わせたナイフを投げつけたが、ナイフ側が溶かされるだけで炎を消す事が出来ない。

(うおわああぁぁぁ!)

 速度はないが広範囲の青い炎と、素早い爪の攻撃を化け物は絶え間なく仕掛けてくる。敵の攻撃を避け続けていたハルのリズムが、狂わされていく。

 ハルから攻撃を仕掛けるだけの余裕がなくなった。避けるだけで精一杯だ。それも、爪の攻撃は完全には避けきれなくなっている。

(このっ! くそっ! ぐうっ!)

 化け物は、先程までの興奮状態から脱していた。最高速度域で動き続けてはいるが、余裕もでき始めている。自分は全くダメージを受けず、一度攻撃を直撃させてしまえば勝てるのだから、心境的にも楽だろう。

(やべぇ……。もう、時間が……)

 ハルに限界が近付いていた。肉体やスタミナではなく、術の限界だ。かなりの量を取り込んだ今の術は、日ごろ使っていた物より長持ちする。

 しかし、それも五分がいいところだ。体に張り付けた術が一つでも終われば、敵の射程内にいるハルは殺されてしまうだろう。

 だからと言って、下手に射程内からは出られない。敵が足を止めていてくれなければ、攻撃を避けられない可能性があるのだ。そして、子供やノーマ達に標的が移る事も懸念できる。


(ぐうううぅぅ! くそ……。は……はははっ! よく分かった。勝てねぇ……)

 左腕の肉を大きくえぐられたところで、ハルが仮面の下で再び歪んだ笑顔を作った。諦めて勝負を投げ出そうとしている訳ではない。いつもの狂った思考が、ハルにもっとも危険な策を選ばせてしまったのだ。

(さぁて……お前はどれぐらい頭がいいんだ? へへへ……。勝負っ!)

 危険を伴うが、一発逆転できる可能性の為に、ハルは右手から残っているだけの精で魔方陣を放つ。それらは全て、ハルそっくりの分身体に変わった。

 魔方陣から竹筒と鉱物のインゴットを取り出したハルは、大きく後ろへと跳ぶ。それと同時に、体に張り付けていた魔方陣の内二つが、機能を停止した。

「フギャオオオオォォォ!」

 目の前で敵が増えても、もう驚きもしなかった化け物は、炎と爪でそれらを次々と掻き消していく。

 だが、掻き消した分身体の中に、外れが混ざっていた事に気付けなかった。ある分身体が消えようとした所で、内部に仕込んであった閃光炸裂弾が発動する。いきなり視界が真っ白になった化け物は、大声を出して狂ったように爪を振り回す。


「は? え? どうなってんだ? おい」

「ぼ、ぼぼ僕も、分かんないよ。お兄ちゃん何してんの?」

 離れた位置にいる子供達は、顔を見合わせて状況を知ろうとしていたが、全く理解できていない。その子供達からすると、化け物から離れた壁際で、ハル本体がただ立っているだけにしか見えないからだ。

「あの膜は……」

 ハルが選んだのは、はったりによる時間稼ぎだ。今ハルと化け物の間には、水と金属で作った薄い膜があり、鏡として機能している。その鏡には近くの壁が映されており、ハルの姿を化け物から隠していた。

 マジックなどで用いられる、鏡を斜めにするだけの単純なトリックだ。よく見れば簡単に見破れるが、分身体と閃光に惑わされた今の化け物にはそれが難しいだろう。

(急げ! 急げ! 急げええぇぇぇ!)

 精結晶を潰してグローブ内に取り込んだハルは、強化の術も再起動せずに、両目を閉じる。時間の余裕が一秒たりともないからだ。準備が整うまでに、化け物が分身体全てを潰すか、トリックを見破ればハルの負けになる。

(よし! これでいけるはずだ! 理論上はな!)

 前日の夜に自分で組んだ理論を元に、ハルは新しい術を作り上げていく。それはハルの世界にあった科学でも、今居る世界にある術でもない。科学の物理的な法則を、魔法の超常的な力で再現する物だ。

 その世界で過去使われていた魔法科学には、地脈などの力を取り込む原理があり、ハルの外部取り込み方式と近い。その魔法科学の力は、体内の精限界など考える必要がなく、威力の上限も基本的には設けられていなかったのだ。だからこそ、世界を滅ぼしかけたのだろう。

「まさか……まさか……術式を一から書き上げているのか? 戦闘中に? それも……なんだ? あんな式は見た事がないぞ?」

 ハルに次いで状況を一番理解しているブロウ卿は、瞬きを増やしていた。それは当然だ。術式を新しく組むには、尋常ではない集中力と精神力が必要で、本来戦闘中にする行為ではない。もし、ハル以外にそれが出来る者がいたとしても、やろうとする者はいないはずだ。

(もう少し……よし! 次っ!)

 右の掌を膜の先に居る化け物に向けたハルの前で、新しい魔方陣が描かれていく。幾重もの円の周囲には、どんどん数式の混ざった光の文字が増える。不規則で乱雑に増えるその数学者の使う黒板のような光の群は、ハルにしか読み解けないレベルへと達した。

「フゥゥゥゥ! シャアアアアアァァァ!」

 虹のように七つの円が作られ、中心に五芒星が描かれた所で、あまりにも強く光った為、化け物がハルの本体を見つけてしまう。

(出来たあああぁぁぁ! いっけええええええええぇぇぇぇ!)

「うおおおっ!」

「きゃああぁぁ!」

 強い閃光と共に、部屋中に不快な甲高い金属音が轟いた。子供達は、目を閉じて耳をふさいだ。そのごくわずかな時間で勝負は決する。


「え? 嘘……ハルさん……」

 ゆっくりと目を開いたノーラが見たのは、腕を振り上げたまま、まるで色素を失ったかのように真っ白になった化け物だ。ハルはその前で片膝をついている。

(はぁ……はぁ……はぁ……)

 自分の前に浮かべたままにしてあった魔方陣をグローブ内に取り込んだハルは、呼吸を整えながら皆に親指を立ててみせた。それと同時に、白く変色して固まっていた化け物が、砂のようにぼろぼろと砕けていく。

 ハルが作り出した術は、ありったけの精を使って原子の振動や電子にまで影響を与え、強制的に分子の結合を分解させてしまう。物理法則的にも、術の精量的にも上回られては、さしもの化け物も耐えられなかったようだ。

(はぁ……はぁぁぁぁぁぁぁ……)

 仮面の下で大量の冷や汗をかいたハルは、もう頭の線がつながっており、恐怖を今さら感じ始めている。

(ぎ……ぎりぎり間に合った。し……死ぬかと思ったああぁぁぁ)

 勝負の明暗を分けたのは、知能だ。化け物は中途半端に高い知能持っており、それが仇となった。

 ハルに猛突進した化け物は、ただの膜など気にしなければよかったのだろう。

 しかし、また閃光弾のようにハルが何か仕掛けているかもしれないと、爪で膜を引き裂いた。その動きが遅れた一瞬で、ハルは術を発動させたのだ。体に張り付けた感覚増強の術がまだ生きてきた事も、結果を変えた原因の一つだろう。

「や……やったあああぁぁぁぁ!」

 大はしゃぎして跳びまわる子供達や、嬉し涙を溜めるノーラと違い、ブロウ卿だけは呆然としている。ハルがあり得ないと言えるほどの事をやってのけたと、一番理解してしまっているのだから、驚いて頭が真っ白になっても仕方がないだろう。

「やったな! 兄ちゃん! 信じてたぜ!」

(いやいや……。こっちは死にかけたんだ。笑えねぇよ。洒落になんねぇ……)

 立ち上がったハルは、抱き着いて来ようとした子供達を避け、ブロウ卿の元へと歩いていく。勿論、料金をもらう為だ。


 その彼は、金も受け取らずに自分で薄くしていた壁を突き破り、ノーマ達を残して逃げ出した。大きな音を聞きつけた兵士達が、建物内に入って来たからだ。

「待てえええぇぇ! この変態めぇ!」

(きゃあああああぁぁぁぁぁ! こっちくんなああああぁぁぁ!)

 イヴだけでなく他の隊長達も建物内に突入し、仮面をつけたハルを見るなり、臨戦態勢を取った。

「待て! お前達! わしの……わしの娘を運ぶのを手伝え! これは、命令だ!」

「え? あ……ブロウ卿?」

 外部から取り込んだ精が尽き、膝が恐怖で笑っていたハルは、その場にいたブロウ卿が事態を収拾しなければ、掴まっていたかもしれない。



 化け物が退治されたと新聞に載ってから数日後、ブロウ卿の邸宅には特注していた車椅子が到着した。

「どうだ? 何か気に入らなければ、言いなさい。作り直させる」

 表情が見るからに優しくなったブロウ卿に対して、正式な養子に迎えられたノーマは笑顔を向ける。彼女のその笑顔には、もう一遍の陰りもないようだ。そして、ブロウ卿の胸元にはもう布袋が見当たらない。

「大丈夫です、旦那さ……お義父様。ありがとうございます」

「そうか。そうか。さて、まだ痛むところ……悪いが、今日も頼むぞ」

「はい」

 ブロウ卿が押す車椅子に乗ったノーマは、玄関ホールへ向かう。そこには、新しく雇った使用人達が待っていた。

 ブロウ卿は他の貴族に頼んで、使用人達を紹介してもらっていたのだ。性格が緩んだおかげで、頭を下がられるようになったブロウ卿を、他の貴族達は素直に受け入れたらしい。

「では、皆さん。今日もよろしくお願いします」

「はい! お嬢様!」

 ノーマの指示に従って、新しい使用人達は仕事に取り掛かる。

「うん? 二階から物音がしたな……。すまんが、少し見てくるぞ」

「はい」


 ブロウ卿は二階にある寝室の窓が開いており、閉め忘れたのかと近づく。それに反応して、床に光の文字が浮かび上がった。それは、請求書の明細だ。

『補充した高血圧の薬代と、一緒に頂きます。後、痛み止めはサービスです』

 鏡台に置かれた布袋の口は緩んでおり、その前には二種類の瓶が置かれていた。

「ふん。まったく……素直とは縁遠い奴だ……」


 呆れたように笑うブロウ卿は、二階の窓から顔を出す。その視線の先には、背嚢を背負った男性が裏門から出ていく姿があった。

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