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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
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4.心を解き放つ男

 ろうそくの淡い光に照らされた室内で、布が音を立てて引き裂ける。襟にナイフで切れ込みを入れたハルが、歯と右手を使って故意的に自分の服を裂いたのだ。

 そのハルの顔には、脂汗が滲み出していた。化け物の攻撃を受けた左肩が、強い痛みを発しているのだ。恐怖によるアドレナリンの麻痺効果は、宿舎への帰宅途中に切れてしまったらしい。

(骨と……筋も無事か……。運がいい。本当に……生き残れただけでも、十年分くらいの運を使い切った気がする)

 破った服を傍らに置いたハルは、上がらなくなった左肩の患部を確認する。肩全体がどす黒く変色し、数か所皮膚が裂けて血もまだ止まっていない。

 地下で精が暴発した即死級のダメージを、ハルの障壁は見事に防いだ。その障壁を容易く引き裂くだけの威力が、化け物の爪にはあったという事になる。

 酷い怪我だが、ハルの考える通りそれだけで済んだのは運がいいのだろう。化け物の爪が直撃していれば、ハルの片腕は繋がっていなかったかもしれない。ハルが空中に居た事で力が逃げ、爪の鋭利ではない部分が当たったので、ダメージは最小限になったと言っていい。

「う……ぐううう!」

 先ほど脱いだ服を噛んだハルは、アルコールで傷口を消毒した。そして、自分が持っている痛み止めと化膿止めを飲む。化け物の爪に毒はなかったとしても、雑菌はいる可能性があり、ハルは処置に手を抜けない。

「はぁはぁはぁはぁ……。後は……」

 精結晶を砕いてグローブに取り込んだハルは、十センチほどの魔方陣を直接患部へ張り付ける。その魔方陣は張り付くと同時に回転し始め、温かみのある光を放つ。

「はぁぁ……。本当に俺は……呪われるんだか、運がいいんだか……」

 自分の運に皮肉を言ったハルは、両目を閉じて薄く笑う。その顔からは、徐々に苦痛の色が薄らいでいった。

 彼が今使っているのは、シャロンとアルバートが開発した、細胞を活性化させて回復を促す術だ。アルバートは精の少ないハルでは使いこなせないだろうと軽く考えて術式を見せたが、ハルは自分用に改良した上で完成させていた。地下で気を失った日に、朦朧としながらも最後まで作り込んでいた執念に近い努力が、今のハルを助けている。


(もう終わりか。やっぱり、かなり食うな。これ……)

 精の消費が激しいその回復術は、一分ほどで消えた。怪我が癒えきっていないハルは、再度結晶を砕いて取り込み、魔方陣を張り付ける。どす黒かったハルの左肩は、青紫、青、赤と色で主人に回復を知らせていく。肩が赤く変わった頃には、裂けた傷口もほぼふさがっていた。

(焦っても仕方ない……。本ぐらい片腕でも読める)

 左手から出したワイヤーで直接腕を吊ったハルは、術研究に使っている机の椅子に座り、図書館から借りてきた一冊の本を開く。その本は、ハルベリア国時代の異端児と呼ばれた術士が書き残した物だ。噂話から神話のような物まで集められており、ほとんどが検証されていない。

 眉唾物と評されるそれをハルが真剣に読んでいるのは、常識に囚われずに書かれたそれにこそ、規格外の化け物のヒントがあると考えたからだ。


(強い思念が物質化する? 触媒に動物……。これだ!)

 本を読み始めて十分後、ハルは自分の勘が的中していた事を知る。戦場で無念の死を遂げた者の魂が、餌をあさっていた犬に憑りつき、化け物が生まれたと書かれていたのだ。

 元の世界でオカルト的な情報を得ていたハルだからこそ、その部分に目を止められたのだろう。ハルの世界では、人の怨念による呪いは、比較的どの国にでもある魔術の一種だ。

(元となる生き物の知恵が高ければ、それがさらに高まるのか……。ネコ科やイヌ科の動物は質が悪くなるって事か。年を経て負の魂を取り込み続け、魔獣を越えた妖魔になる?)

 野山にいる普通の妖魔にも多少の知恵はあるが、ほとんど本能だけで行動している。兵士という厄介な敵が大勢いる人里には、面倒と感じるのかあまり好んでは出てこない。

 わざわざ町中に潜んで人を襲う化け物に、何か目的があるかも知れないとハルは感じていた。その本の説明を信じれば、全てに合点がいく。

(あれだけ強くて、本能が起点ならもっと暴れていいはずだ……。長期的に隠れるにしては、目撃例が多すぎる。目的に沿って行動している……か?)

 ハルは人の怨念が原因で生まれる化け物についての文節を、全て読んでいく。

 精を辿って発見し、兵士を呼んでも犠牲者が増える事が予想出来る。その為、過去にどう対処されたかを知ろうとしているのだ。

「ふぅぅ……。役に立たねぇな」

 本の中に出てきた化け物達は、半分ほどが退治されていた。その退治方法も可能な限り詳細が書かれている。

 しかし、今のハルの役には立たない。伝説の武器を持った勇者や英雄が活躍するか、大人数の軍隊が辛勝するおとぎ話のような物ばかりだからだ。アルバートからの講義で、ハルもその世界に人間離れした強さの者がいるのは知っているが、ハルベリアにはいない事も聞かされていた。

 ハルにその者達を呼び寄せるつてはないし、自腹を切る明確な理由もない。どうしても理由を作るなら、ハルベリアが化け物に蹂躙されると外交調査官の職になれなくなる事ぐらいだろう。

「俺の領分じゃない……。そうなんだよ。俺の領分じゃないんだ。ガキ共の金も返せばいいだけ……。ただそれだけ……」

 頭を掻き毟って目を閉じたハルの脳裏には、涙を流す使用人の女性が蘇る。その女性の笑顔が、どうしてもハルの頭から消えない。ノーマの事を考えれば考えるだけ、ハルの第六感が急げと促していた。

「英雄様とやらを呼ぶとして……。駄目だな。自動車も飛行機もない世界じゃ、一週間やそこらでも来ないはずだ。くそっ!」

 天井を眺めて焦燥感を高めたハルは、視線を本へと戻す。目を細めて真剣にページをめくるハルは、利益の目途も立っていないのに頭を最高速度で回していた。


 奇跡は待っていようが手を伸ばそうが起こらないからこそ、奇跡だ。今のハルが本心から神に祈ったとしても、そんな物は与えられない。

 だが、諦めなかった者にだけ与えられる、奇跡的な偶然と呼ばれる対価は存在する。それだけ諦めないという事が、難しい事なのだろう。

 ハルの偏った運とも悪運ともいえる何かは、大きな危険が伴う、か細いチャンスを用意する。


(これでもない……。これも違う。あ、そうか……。恨み。そうだ。恨みだよ。非合法な金貸しを恨む奴なんて、いくらでもいる。ノーマさんもお金を気にしていた)

 本を読みながらも、ハルは脳の別の部分でそれまでに集めた情報を処理していた。パズルのピースを上手くはめ込んだハルは、事件のぼんやりとした輪郭を掴む。

「あっ! ここは読み飛ばしてた……」

 手を止めたハルの指の先には、化け物の記述があった。呪いが根源ではない、天然の化け物について書かれていたその部分を、ハルは読んでいない。

(歯の形……。角? ああ、棘のように変化した髪の毛か。太い骨格。なるほど……)

 その天然の化け物は、ある種族によって駆逐されていた。その種族は人間ではあるらしいが、普通の者とは精の量や外観が違っている。

(なるほど……。普通の人間と交配出来たんだよな、確か……。まあ、遺伝子は人間だしな。種族として定着したのか)

 ハルは地下で見つけた題名のない本へと手を伸ばし、過去に生物兵器として改造された人々の項目を読んでいく。天然の化け物を倒したのは、その者達の子孫だとハルには推測出来た。

「おいおい……。俺は何考えてんだ? 生きて帰るんだろ?」

 地下で見つけた本には、ただの術や魔法ではなく魔法科学の事が書かれている。その大きく危険な力の数々は直接使えない物ばかりだが、特殊な施設で育ったハルならば、理論を理解できてしまうのだ。

 気が付くと、ハルはノートの上で魔法科学文明の数式を分解して、再構築し始めていた。大戦によって世界を一度滅ぼしかけたという力を、ハルは呼び覚まそうとしているのだ。



 本来なら眠っている時間まで起きているその日のハルは、びっしりと文字や数字の書かれたノートを見つめていた。理論の組み替えに成功したにもかかわらず、ハルの顔はどこか浮かない。

(ただ嫌になって逃げだしたって可能性も……。まだ結構高いんだよなぁ……)

 不確定なノーマの事だけで、危険すぎる橋を渡っていいのかと彼は悩んでいるのだ。

(あの……貴族の爺さんは……無理か。後、残った情報は……あ、魔道士っぽい杖を持った奴がいたんだったか? 無関係だろうなぁ。え? あれ? あっ!)

 何かを思いついたらしいハルは、ノートを見つめながら口角を上げ始めた。ランタンの火が揺らぎ、邪悪とも思える笑みの陰影を変化させる。



 翌朝から、まるでハルの動きと連動したかのように、町の中にきな臭さが漂う。

 ハルが巻き込まれたくないと立ち去った化け物と会った現場でも、それまでと同様に被害者が出ている。偶然そこを見つけた者が通報し、兵士達は現場を夜のうちに確認した。それまで地区的な問題でほとんど通報されなかったが、別地区の商店街に近かった事で状況が変わったのだろう。

 夜間に開かれた隊長達の緊急会議で、町に潜む妖魔のあぶり出し作戦が提案されており、開始までは秒読み段階だ。作戦開始前ではあるが、町中を巡回する兵士達は、すでに五人一組での行動を義務付けられている。

(五人か……。仕方ないが……無理だろうなぁ。本に書かれていた事が本当なら、百人や千人単位で犠牲者を出してなんとかって所だろうしな)

 万全を期す為に昼前まで眠ったハルは、露店で買った肉を食べながら、通りを歩いていた。商人としての活動を休みにしたそのハルは、背嚢を背負っていない。

(おっ。いたいた。こっち見ろ。こっちこっち)

 メル達の居る施設を訪れたハルは、休憩時間に施設の庭で遊ぶメルを、手招きで呼び寄せる。門に隠れて少女を呼び彼は、不審者以外の何者でもない。

「どうしたの? お兄ちゃん? 今日は……」

(静かにしてくれ。なんか……見つかったら、兵士に連行されそうな気がする)

 口元で人差し指を立てたハルを見て、メルが不思議そうにはしているが口をつぐむ。そのメルに、ハルは周りに秘密で、リーダー格の少年を呼んで欲しいと頼んだ。何故か目を輝かせ始めたメルは、頷いて建物の中へ消えていく。



 メルに依頼をしてから十分後、ハルと五人の子供達はいつもの休憩所内にいた。何かを勘違いしたその子供達の目は、メルと同様に輝いている。

「なるほどな。ここの組織とこっちは繋がってるんだな? で、拠点は?」

「ここと、ここと、ここ。あ、でも、ここはただの倉庫だ」

 少し前まで住んでいた地区の地図を、年長の少年が指さし、そこへハルが印をつけた。ハルが子供達を呼んだのは、化け物の巣がその地区にあると察して、効率的に動く為の情報を集めようとしているからだ。

「あ、そこ違う。そこは潰れてて入れないんだ。それよりさ……兄ちゃん……。何か掴んだんだろ?」

 年長の少年は、ハルに顔を向けて意味ありげに笑う。ハルを勘違いしている他の子供達も、皆笑顔だ。

「いや……、まあ、そうだが……。お前らが思ってるのと違うからな。メインは人探しで、妖魔は兵士や強い人呼んで任せる予定だからな」

 渋い顔になったハルを、子供達はにやにやと見つめる。その子供達は、ハルの強さを過大評価しいるだけでなく、敵の恐ろしさを知らない。そして、ハルが本当にノーマと利益以外の事をどうでもいいと思っている事が分からないようだ。

「俺達しかいないのに……筋金入りの秘密主義だな。兄ちゃんは。あっ! あの失敗して、変態とか言われてるのを、気にしてんのか? 俺達は分かって……」

「違わないけど、違うわ! 後、俺の前でそれを二度と口にするな!」

 子供達の笑い声のせいで居心地の悪さを感じながらも、利益の為だと我慢したハルは、情報をかき集める。ぶっつけ本番の危なさを、色々な経験から学んでいる彼は、事前準備に余念がない。その周到さが、悪い方の運を呼び込むと、その時のハルは理解していなかった。



 太陽が姿を隠し、月がぼんやりと浮かび、兵士達が作戦決行の全体会議を始める頃、化け物の潜む地区をハルが駆け抜ける。今の彼は、すでに強化の術を発動させており、何もしていない常人よりも動きが速い。

(やっぱりそうだ。ノーマさんと最後にあった日に、貸金業者が丸々一つ消えてやがる。ビンゴだな……悪い方に)

 配給の手伝いをしていた事が、ハルの役に立った。住民達は、顔見知りのハルから少量の食料を受け取ると、持っている情報を全て喋り出す。

 その者達は裏の組織から目をつけられたくないと思っているようだが、シャロンの知り合いであるハルなら自分達を売ったりはしないだろうと考えたのだ。勿論、正式な取引である為、ハルは住民達の不利になるようなことはしない。


「やっと見つけましたよ」

 術まで使って町中を走り回ったハルは、顔をフードで隠したローブを纏う人物を、裏路地の一つで見つけ出した。その魔道士にも見える人物は、怪し過ぎたせいで住民達に怖がられ、運よく危険な地区で絡まれなかったらしい。

「ノーマさんがいる可能性がある場所まで……。なんとか特定出来ました」

 顔を見なくても、ハルにはすでに相手の正体が分かっている。高齢者が少ない町だった為、腰が曲がって杖を突いているという情報だけで、絞り込みが容易なのだ。

「どうですか? 私に案内されてみませんか? ブロウ卿」

 ブロウ卿が幼い頃失敗して泣いていたノーマを毎夜夢に見て、探しに出てしまった事まではハルも知らない。

 だが、ブロウ卿に頼れる者がもうノーマしかいない事は分かっており、探そうとしてもおかしくないとは推測出来た。そして、誰も信じないその老人ならば、自分で探すしかないだろう事もだ。

「お前……」

 驚いた表情をしていたノーマの主人だが、すぐに目つきを鋭くする。

「何が……何が目的だ! このクズめっ! わしをどうしようと言うのだ!」

 人間不信であるその老人が、素直に頷くとはハルも思っていない。だからこそ、いつもの営業スマイルを作り、明確な金額を提示する。

「同じ内容で追加請求はしません。これでも真っ当に仕事してますんで、お約束します。正当な金額じゃないでしょうか? あ、成功報酬でも構いませんから」

 金しか信じられなくなっている者に対して、その言葉はてきめんの効果があった。首から吊るしていた袋から銀貨を取り出したブロウ卿は、それをハルへ投げつける。

「今の言葉……忘れるなっ! 違えば、兵士から追われて、この町に居られなくなると思え! いいなっ!」

「毎度ありがとうございます。っと……急ぎましょう。こっちです」

 銀貨をキャッチして頭を下げたハルは、潰れた貸金業者があった場所へと、その偏屈な老人を導いていく。



(業者の特定にかなり時間がかかっちまった。くそ。急いで…………はっ? なんで?)

 化け物に恐怖を刻まれたハルは、老人を連れている事もあり、極力人通りの多い場所を選んで動いていた。それは、かなりの時間損失を生んでしまう。その結果、ハルは会いたくない人物と遭遇する。

「お……お前ら……」

「おせぇよ、兄ちゃん。言ったろ。ここは俺達のテリトリーだ。さあ、行こうぜ」

(いや……もう……勘弁してくれよ。危ないんだって)

 年長の少年以下五名ほどの子供を見て、ハルは顔をしかめた。ブロウ卿もハルを疑って、眉を歪めている。その二人を気にもしようとしない子供達は、走り出す。

 溜息をついて頭を掻き毟ったハルだが、結局向かう場所は同じである為、付いて行くしかない。

「他の建物は、俺達が先に調べて何もなかった。残るはここだけだ」

 子供達がハルを導いたのは、崩れた建物の前だった。そこはノーマークだった為、ハルは少しだけ子供達に心の中で感謝する。

「あのね。この中から、猫ちゃんの声がするの。ここだと思うの」

 メルの言葉を聞き、崩れて出入り口がふさがった建物の壁に、ハルは耳をつけ全神経を集中させる。そして、覚えのある子猫の呼び声を聞き取った。

(なんかやばい気がする……。くそっ! 仕方ない!)

「この中にノーマさんがいるかもしれません。それで……ブロウ卿……。今からする事は、他言無用でお願い出来ますか?」

 ハルが何をするかも分からないブロウ卿は、首を傾げたがすぐに怒声を吐き出す。

「ええい! いいようにしてやる! 早くせんか! 馬鹿もんがっ!」

 取り敢えずではあるが許可を取ったハルは、時間がないと感じ、グローブから出した魔方陣を瓦礫にぶつける。光ってから瓦礫に染み込んだ魔方陣は、邪魔になる煉瓦全てを砂状に変化させた。

「お前……。なんだ? その訳の分からん術は? 術者か?」

「いえ、ただの商人ですよ。どうやら大当たりです。急ぎましょう」

(あいつの精は感じない……が、油断できんし、余裕もない)

 出入り口から漂ってきた独特の鉄臭さで、中をなんとなく察したハルは、最初に建物内へと入っていく。子供達へ外で待てと言うのも忘れたハルは、ノーマの笑顔を思い出しながら走った。


「うっ! こりゃ……きついな……」

 通路を走り抜けたハルは突き当りにあった扉を開き、真っ暗な部屋に立ち込める強い腐敗臭に口と鼻をふさぐ。そして、ランタンの光と子猫の鳴き声を頼りに、部屋の最端で倒れているノーマを見つけ、駆け寄った。

「ノーマさん! ああ……よかった。脈も息もある……」

 服がぼろぼろに破けているノーマの確認を終えて、ハルが息を吐き出す。子猫を抱え込む様に倒れていたノーマは、足や腕の骨が折れ、口の端から血を流しているが、生きてはいる。

 ハルがノーマの体を動かした事で、子猫はなんとか這い出した。その子猫も両足や背中に酷い怪我をしているが、必死にノーマの頬を舐める。

(やばいな。かなり衰弱してるか?)


 息を切らせたブロウ卿と子供達が、部屋に入って臭いに顔を歪めたのと同時に、ハルの張り付けた魔方陣が発動した。その魔方陣は回転を始め、ノーマと子猫の体を回復させていく。

 子猫には薬が使えず、ノーマには外傷がほとんどない為、ハルは術による回復だけを行っている。

「お……おおおお! ノーマ!」

「兄ちゃん!」

 新しい回復用の魔方陣を手の上に浮かべたハルは、幾つものランタンの光で、室内をぐるりと見回す。刺激の強い臭いとおびただしい血痕らしき物は残っているが、部屋の中にはそれ以外に何もない。

(なんだ? この部屋全体に、精の流れがある? 流れの起点は……ノーマさん? どうなってるんだ? 呪いの元になるようなのが何もない)

 状況をかなり的確に読み解いたハルだが、それは全てではなかった。状況判断の遅れが、自分の首を絞めると分かっていながら、ハルは次の行動をすぐには起こせない。かなり迷っているようだ。

 そんな中で、意識を失っていたノーマがゆっくりと目蓋を開き始めた。

「う……ん……」

「ノーマさん! 分かりますか? 大丈夫ですか?」

 ハルはその時、ノーマの処置を最優先で行う。それを間違いだとは言い切れないが、正しいとも言い切れない。

「ハル……さん? 旦那様……」

 細い目を開ききったノーマは、ハルとブロウ卿を見て、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。幾日もその部屋にいた彼女は声が枯れており、泣き声も微かにしか聞こえない。その彼女の上半身を起こしたハルは、砂糖水の入った竹筒を魔方陣から取り出し、相手の口へ近づける。

「ノーマさん? 大丈夫ですか? 水と……これ、痛み止めです。飲んでください。何があったんですか?」

 自分の術で骨まではつなげられない事が分かっているハルは、ノーマにそのまま水を飲ませながら、運び出す方法を模索した。

「あの……私……その……」

 水を飲んで一息ついたノーマを、ハルは優しく床へと寝かせる。まだ弱々しい呼吸しか出来ないその彼女は、自分で思い出していくかのように、ぽつりぽつりと経緯を喋り出した。


 ノーマは幼い頃、親に捨てられている。つまり、メル達とは違い、彼女の父親は他界しているが、母親は生きていたのだ。その母親が、最近ノーマに自分から接触してきた。理由は金の無心だ。

 裏の金融業者に金を借りた母親は、首が回らなくなってノーマを探し出した。そのせいで、ノーマは非合法な金融業者から付き纏われる事になる。持っていたお金を彼女は全て渡したが、足りないと嫌がらせに近い催促をされていた。

(そこまでは分かってた。情報を集めたからな……。問題はそこからだ)

「何故だ! 何故わしに相談せん!」

「旦那様……には……。私をここまで……面倒見て……頂いた旦那様には……。ご迷惑を……お掛けしたくなくて……。私……旦那様の近くに……まだ……居たくて……」


 悩んでいた彼女を奮い立たせてしまったのは、実はハルだ。ハルからブローチをもらった彼女は、母親と縁を切るつもりでその日貰った給金を持って、業者の事務所を訪ねた。

 連れていった黒い子猫を支えとして、ノーマは震えながらも強面の男性達に抵抗する。それにより、今の部屋へと連れ込まれてしまう。

 その部屋は、隣の業者事務所があった建物と地下通路で繋がった、血塗られている場所だ。業者の者達は、そこへ始末したい人間等を連れ込む。建物の入り口を崩したのは、どうも業者の者達らしい。

 部屋ですでに息絶えた母親を見て、ノーマは子猫を守る為にも、全力で抵抗した。それを良く思わなかった男達は、全員でノーマを痛めつける。ノーマの悔しく悲しいという強い感情は、化け物を呼び寄せてしまう。

 結果、化け物により業者の男達は命を絶たれる。ノーマの母親を含め、その男達の体は毎日一人ずつこの世から消えた。重症で動く事も出来なかったノーマは、それを震えながら見ている事しか出来なかったらしい。


(あの化け物は、それ以前から存在していたはずだ。この部屋に元々充満していた怨念で、パワーアップしたとでも? 分からんな。ただ、呪いの一端をノーマさんが担いだのはまずい……)

 ノーマが生かされたのは、黒猫の魔除け効果だろうかなどとハルは、魔術の知識を頭の中で掻き集める。そのハルは、化け物が活きのいい餌を最後にとっておいただけだと、すぐには気付けない。

 まだハルは自分で認識できていないようだが、前日化け物から刻まれた心の傷は血を流し続けていた。その為、思考回路がかなり逃げ腰になっており、状況を支配するどころか、流されるままになっている。その場から逃げ出さないのも、そのせいだろう。

 精神科に通わねばいけないほどのショックを受け、まだ動けただけハルは精神力が強いと言える。

 しかし、人の命まで預かれるだけの状態にはない。ノーマの命が危険にさらされ、急ぐ必要があったとはいえ、今のハルは迂闊な点が多すぎた。


(あの抑え込む用の術式ならいけるか? 呪いは切断しないとやばい。即席だが、改良しよう)

「ノーマ……お前は! お前という奴は!」

「旦那……様?」

 グローブを見つめたハルの隣で、ブロウ卿はノーマの頭を抱きしめる。その目からは、妻が死んで以来流れなくなっていた涙が零れていた。

「わしを一人にせんでくれ! わしから……このかわいい……娘を奪わんでくれ……。もう、お前しか……」

「旦那様……。ごめんなさい……ごめん……なさい……」

 よく分からないながらも、空気を読んで黙っていた子供達は、二人を見て鼻をすすっている。少し前に親を亡くした子供達には、その二人が微笑ましくも羨ましいのかもしれない。


 暖かな雰囲気に包まれた部屋の中で、子猫がいち早く反応し、毛を逆立てて威嚇を始めた。

(あ……しまった! 俺の馬鹿野郎! 事情は後でいいじゃないか! くそ! 何を動揺しているんだ! くそ!)

 煉瓦で出来た建物の床から、黒いどろどろの液体が染み出してくる。やがてそれは、巨大な化け物へと姿を変えた。

 その場にいた人間は、悲鳴を上げる。ハルの顔が、恐怖で引きつっていく。ハルが壁を壊したとしても、怪我をしているノーマだけでなく、ブロウ卿や子供達が生き延びられる可能性は薄い。勿論、それは恐怖で膝が震えているハルも同様だろう。

(殺される……。次こそ間違いなく……殺される……)

 恐怖が限界点を越えたハルの脳内に、ぶちりと何かが切れる音が響いた。その瞬間、ハルの思考回路が心の傷さえ掻き消して、いつものように狂い始める。

(死んで……たまるか! くそったれが! やられるぐらいなら、やってやる!)

 化け物に背を向けたハルは、組み上がったばかりの術式をノーマに投げつけた。そして、通常時は見せない歪んだ笑みを、ブロウ卿に向ける。


「貴方と娘さんの命……。私に賭けてみませんか? お安くしときますよ。ああ、勿論…………成功報酬で結構です」


 完全に体が固形化し、低く唸り始めた化け物は、ハル達を見つめて餌が増えたと喜んでいる。強くなり過ぎたその異形は、相手の力を計ろうともしない。

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