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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
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3.遠くから見つめる者達

 大勢の人間が、船で海を渡っている。それは大航海時代から千年以上未来の話であり、船とは宇宙船で海とは宇宙の事だ。その時代の人類は、資源が枯渇した地球から飛び出し、手頃な惑星を見つけ、環境を作り変えて移住していた。

 物語の主となる宇宙船に、異物が入り込んだ所から話が展開されていく。異物とは、グロテスクな姿をした、人間を襲う凶暴な宇宙生物だ。次々と仲間が手強い宇宙生物に倒されていく中、主人公は勝てるのかもしくは生き残れるかというのが見所だろう。

 勿論これは、ただの作り話。ハルの夢に、元の世界で見た映画の映像がでてきたのだ。

 いつもと同じ時間に目を覚ましたハルは、夢で見たホラー映画のワンシーンで、主人公よりも輝いていたある登場人物を思い出す。

(けっ……。あの頃から俺は冷めてたのかもなぁ。でも……)

 ハルはその映画を怖いとも面白いとも思わなかったが、人間を守る為に作られた人造人間の最後はよく覚えている。命を掛けて戦い、宇宙生物に負けて擬似体液を口から吐き出すシーンが、印象深かったからだ。

(怖くて夢に出たとかで、寝小便漏らしてた奴がいたよなぁ。あ、トイレに行けなかったんだったか? まあ、どっちでもいい)

 まだ完全に目を開ききっていないハルは、元の世界にいる自分にとって大事な女性の事を考えている。その彼女も同じ映画を見て、夜眠りながら涙を流していた事を同時に思い出したからだ。


 しばらくの微睡を楽しんだハルは、ベッドから上半身を起こす。

「ふああぁぁぁ……」

 欠伸をしたハルは、まだ眠そうな目で室内を見回す。ハルの部屋に家具は少ない。机二つにタンスとベッドが一つずつ。それだけで生活に困らないというのもあるが、それ以上家具を置ける場所がないのだ。

 ハルの部屋は物で溢れかえっており、あまりきれいとは表現し難い。机の一つには術に関する本が山積みになっているし、もう一つには薬品関係の道具や材料が並べられている。タンスの隣に置かれたかごからは汚れ物が溢れ出しており、床には商品を入れた箱が所狭しと並んでいた。

 ベッドから起き出したハルは、術研究に使っている机の前まで進み、地下で見つけた本を軽く指で叩く。彼に映画の夢を見せたのは、その本が原因だからだ。

(仮面もそうだが、売れねぇよ。おっかねぇもん。これを作った頃は、宝だったんだろうけどさぁ。たく……)

 ハルが見つけた本の中には、かなり危険な内容が書かれていた。魔法科学の力で、人間を作り変えるという物だ。精が生まれつき大きい者や、体が妖魔並に強い者を、過去の文明は人工的に作り出していたらしい。それを読んだせいでハルは、映画の中に出てきた人造人間を夢にまで見てしまったのだろう。

(こっちもそうだ。仮面以上に使えねぇ。うん。使えねぇ……)

 漆のようなてかりのある塗装がなされている棒は、よく見ると中央部分に切れ込みがある。両端を持って引っ張ると、中から短い刃が顔を出す。それはただの棒ではなく、ナイフだったのだ。

 そのナイフには握る柄の部分に、術式が掘り込まれている。刺して術を発動させれば、人工的に作られた者達の力を封じる事が出来ると、本には記載されていた。つまり、今のハルには使い道もないし、売れもしない物だ。


(そろそろ汚れた服がやばいな……。地下に潜り始めてから、凄い早さで溜まったもんなぁ。替えも少ないし……)

 通り道として残したスペースで筋トレをしながら、薬を作る場所が不潔になり過ぎてはいけないと、ハルは少しだけ笑う。掃除だけは毎日寝る前にしているハルだが、洗濯はどうしても好きになれないらしい。

「よし。あれ、やるか」

 筋トレを済ませて服を着替えたハルは、汚れ物を全て袋に詰める。そして、背嚢とその袋を持って部屋を出た。

 洗濯をしたくないハルは、洗濯をしない。不要な布を再利用する業者に汚れ物を引き取らせ、露店で安い服を大量に買い込むのだ。贅沢にも思えるその手抜きだが、ハルはある一定量の洗濯をする時間で、服代以上を稼げる。結果的に、洗濯をしない方が儲かるのだから、問題はないのだろう。



 商店街にある開店前の店に商品を下し終えたハルは、そのまま朝市に向かう。汚れ物を処分して、新しい服を買い込む為だ。

(お……これ、いいな)

 背嚢に新しい服を詰め込んでいたハルは、自分が使わないであろう物に目を止めた。露店で雑貨を売っていた店主は、ハルに声をかける。

「兄さん、どうだい? 買ってってくれよ」

「いいですよぉ。でも、値段をもうひと頑張りしてくれたら、二つ買ってもいいんですけど……。どうです?」

 元々二つ買うつもりのハルにまんまと騙された店主は、四割近くまで値引きさせられてしまう。最近交渉能力も上がっているハルに声をかけてしまったのが、運のつきなのだろう。

「ああ、もう分かったよ。それでいい。ただ、よそでその値段の事はいわないでくれよ?」

(くくくっ……。原価割れまでは無理だったけど、ほぼ二束三文だろうな。俺の勝ちだ)

 礼儀として店主に笑顔で頭を下げたハルは、自分で作るよりも安くつく露店で朝食を済ませる。出費を限界まで抑えてほぼ毎日利益を得ているハルは、すでに成金とまでは言えないが、小金持ちにまではなっていた。

 それでも、商売の手を緩めない。精結晶に替えられるお金を溜められるだけ溜めて、元の世界に戻ろうとしているからだ。

(さてと! もう、開いているよな?)



 城の近くには、細部にまで装飾がされた石造りの豪華な建屋がある。そこは、ハルベリア国時代に元王族が作った、舞踏会場だ。それが舞踏会など開かないゼノビアに何故残っているかといえば、別用途で再利用されているからだ。

 異邦人達の知恵を得て、その元舞踏会場は図書館として使われている。国民達が自発的に知恵をつけ、豊かになって欲しいと今の王族達は考えたらしい。

(さてさてと……)

 入り口で兵士にタグを見せて図書館内に入ったハルは、妖魔達の資料がある棚を探す。町中に出る妖魔探しを、子供達にお金をもらっているせいで、真面目には行っているらしい。

「ここからの棚か……。流石に多いな……。どれから手をつければいいんだ?」

 生きる為に必要だった為、妖魔を研究する術者は昔から大勢いた。必然的に、その者達が書き残した資料も、膨大だ。本の詰まった大量の棚を見て、ハルは息を吐き出す。

(一冊見れば、なんでも分かる大全みたいのってないかなぁ。この世界の本て、目次がないのも有るし、文字もちょっと違うから分かり難いんだよなぁ)

「嘘……」

 題名だけでは分からない為、本を数冊ランダムで選んだハルは、机が並べられた閲覧スペースに移動する。その彼に見つからないように、シャロンは本棚の裏へ急いで隠れた。

「なんで? 行商に出てるんじゃないの? え? 嘘」

 本棚の陰から顔だけを出したシャロンは、口元を持っていた資料で隠して本を読み始めたハルを見つめ、心音を高鳴らせる。

(魔獣と妖魔の関係か。うん。今はこれじゃない。妖魔の繁殖方法……。これも、違うな)

 軽く流し読みしていたハルは、持ってきた本が全て外れだった為、立ち上がって本棚の前へと戻る。シャロンは、ハルが立ち上がった所で急いで顔をひっこめていた。その場に他者がいなかった事は、彼女にとって幸運だったのだろう。

 呼吸を早めている彼女が、ハルに見つかってもなんの問題もないと気付くのは、その一連の流れが五セットほど終了してからだった。

「そうよね。そう。知り合いと会って声をかけるのは、普通の事よ。別になんでもない普通の事。そう」

 小声で自分にそう言い聞かせたシャロンは、強く拳を握る。

 しかし、そこで彼女は固まってしまった。どのように声を掛ければ自然で、何を喋ればいいのだろうと、思考が停止したからだ。

(お……。妖魔の分類。成り立ちに……特性。これ、いいな。うん? こっちもおもしろそうだが、事実はほぼ未検証か……)

「落ち着いて。そう、落ち着くの。普通でいいのよ。普通で。えと……。え? 普通って」

 シャロンは顔を歪め、脳内でハルとの会話を入念にシミュレートしていく。ハルの前で、どうしても恥をかきたくないのだろう。その彼女は考え込んでしまった時点で、対応が普通に出来なくなるだろう事が分かっていない。

「よしっ。行くわよ。いいわね。よし。え? そんな……」

 本棚の裏からやっと出てきたシャロンが見たのは、誰もいなくなった閲覧スペースだ。目的の本数冊を見つけたハルは、すでに貸出書類も書き終えて図書館を出ている。彼女は自分の世界に浸り過ぎてしまったようだ。

「えぇぇぇぇ……。そんなぁぁぁ……」

 床にへたり込んだシャロンが、見回りをしていた職員に声を掛けられるのは、もう少し後の話になる。



(町で収集した情報は、もう整理してあるから……。これで特定出来るか? いや……噂は尾ひれがついてるかもしれないしなぁ。分類までが関の山か)

 図書館を出たハルは、その足である貴族の邸宅へと向かっていた。そこに仕事と個人的な用があるからだ。

「あっ! ハルさん! いらっしゃい」

 庭でシーツを干していた使用人女性ノーマ・ヘクトが、ハルを見て嬉しそうに裏門へと走る。

「まいどぉ。高血圧の薬の補充に来ましたぁ」

 子猫の件があってから、ハルとノーマは毎日会話を交わして、仲を深めていた。

 ハルがノーマに対して恋愛感情を持っているかといえば、微妙ではある。ヘタレである彼が意識をしていれば喋れなくなる可能性が高いのだから、喋れている時点で違うといえるかもしれない。ただ、彼女との会話が嫌いではないと思っているようだ。

「そうなの。昨日なんて、鶏肉を三切れもぺろりと食べちゃったのよ、この子」

 裏口の石段にハルと座ったノーマは、子猫の事を嬉しそうに語っていた。それをハルも笑顔で聞いている。二人の目の前では、子猫が飛んでいく虫を追いかけて遊んでいた。

(なんだろう。この人の出す雰囲気。癒される。凄く癒される。姉ちゃん……いや、母ちゃんがいれば、こんな感じなのかな? あ、そうだ。忘れないうちに)

 ノーマの話を聞きながら、ハルは背嚢のポケットに手を伸ばし、中から朝市で購入した品物を取り出す。

「あの、これ。もしよかったら使ってください」

 ハルがノーマに差し出したのは、子猫用の首輪だ。

「この間、探すのに苦労したって言ってましたよね? ちょっとかわいそうですが、目を離す時はこれで、リードがつけられるかなっと。後、外に間違えて出ても、処分される事はなくなるでしょうし」

 首輪へと手を伸ばした所で、ノーマの顔から笑みが消える。伸ばしていた手も、すでに膝の上に戻されていた。

「あの……その……私……そのお金は……」

「あ、結構です。お得意様へのサービスですから。どうぞどうぞ。いらなければ捨ててくれて構いません」

「本当に……いいんですか?」

 ノーマは知らないが、ハルは顧客に粗品をよく渡す。彼女を特別扱いしたわけではない。そうする事で、契約を切られ難いと先輩商人から聞いて実践しているのだ。

「はい。勿論ですよぉ。後、これもどうぞ。あ、こっちもサービスで」

 首輪と一緒にハルが渡したのは、小さな花のブローチだ。ハルがそれを選んだのは、ただ安かっただけという理由だ。

(なっ! なんですとぉぉぉ!)

 ハルから首輪とブローチを受け取ったノーマは、俯いて泣き始めてしまう。それを見たハルの顔からは、粘度の高い不思議な汁が流れ出していた。女性との色々な経験が不足しているハルは、これ以上ないほどに焦っているのだ。

(なんだ? 何が悪かったんだ? あれ? えっ? あれ? 気に入らなかった? え? もしかして、俺が気持ち悪かったとか? え? え? え? え?)

 瞳をぐるぐると回転させているハルは、首を左右にゆっくりと振りながら、口をぱくぱくと開けては閉じている。今のハルは、即入院させるべき者にしか見えない。

(誰か……誰か助けて下さい! あの! あれっ! あ……やべ……)

 二人きりの状態で彼女の静かな涙は、女性に免疫のないハルに、信じられないダメージを与えてしまった。イヴの時のようには理由が分からなかった事と、相手に多少の好意があった事が、狼狽の原因だろう。

 どうやら、ハルは相手に好意があればあるだけ、情けない本性を晒してしまうらしい。最終的に体から精神と魂が剥離し始めたハルは、白目をむいてしまう。

「すん……ごめんなさい。あの……嬉しくて。最近ちょっと、心に余裕が……ハルさん? ハルさん! 大丈夫ですか? しっかりしてください!」

 ハルの両肩を掴んで揺さぶったノーマが、自分の事を語り始めたのは、変態の異名を持つとんでもない醜態をさらした男性が正気を取り戻して、少したってからの事だ。

 ノーマは、幼い頃に親から捨てられた。行くあてもなく、どうすればいいかが分からなかったその時のノーマは、道端で膝を抱えて座り込む。それはとても寒い日で、彼女の手足の感覚がなくなり始めた所で、ある貴族の青年が自分の家に来ないかと手を差し伸べた。それが現在の主人の息子だったしい。

「私……不器用で、元々失敗も多かったの。それで、最近ちょっと嫌な事があって……。失敗が増えてて……。旦那様にも怒られ続けて……。ここを首になったらと……」

 ハルの前でいきなり泣き始めてしまったノーマは、粗品を嬉しくは思ったらしいが、それだけでそうなったわけではない。彼女は笑っていたが、無理矢理だったらしく、ハルが与えた切っ掛けで感情が抑えられなくなっただけだ。

(なんで……俺は……。の……呪われてんのか? 魔法に関わったから? 嘘ぉぉ……)

 イヴの時もそうだったが、ハルは何故か人が精神的に限界を迎えている場面に、よく出くわしてしまう。彼の運が、良くも悪くも偏っているせいだろう。相手は女性である事が多く、異性に弱いハルにとって嬉しい事ではない。

「ごめんなさい。こんな重い話を突然。困るよね?」

「ああ、いえいえ。こっちこそ、取り乱して申し訳ないです。私も不器用でして……」

 両手を激しく左右に振るハルに、やっとノーマが笑顔を見せた。その笑顔は、ハルの先程とは違う内面に影響を与え、脈を高めさせる。

「話……聞いてくれて、ありがとう。少し楽になった。それに……これもありがたく頂きます。ふふふっ」

(あ……いや……。それ……あ……もう少しきちんと……選べばよかったぁ……)

 ノーマはハルの目の前で、胸元にブローチをつけた。安物を渡していた事で、ハルにも罪悪感が湧く。

「ノーマ! ノーマ! どこに居るんだ! ノーマ!」

 ハルが申し訳なさそうに俯くと、屋敷の中から男の怒声が聞こえてくる。それを聞いたノーマは急いで立ち上がり、いたたまれなかったハルは逃げ出した。

「何をしていたんだ! まったく……お前は! 寝室の飲み水がなくなった!」

 裏口から中へ入ったノーマは、杖を突いた手の先が震えている腰のまがった老人に、深く頭を下げる。その厚手の生地で作られた布袋を首から下げている老人は、ブロウ家当主でノーマの雇い主だ。

「申し訳ございません! すぐお持ちいたします!」

「お前はあぁぁ! 失敗はする! すぐに手を抜く! 解雇されたいのか! 馬鹿もんが! 早くしろ!」

 悲しそうに顔を歪めたノーマは、もう一度深く頭を下げてから走り出す。その彼女を見て、老人は目を細めていた。目敏い彼は、胸元のブローチに気が付いており、裏口から出ていくハルの背中を見つめる。

「ふん……、どいつもこいつも……」

 布袋を強く掴んだその彼は、元来勇猛ではあったが温厚な人物だった。人望により実力は高くなかったが、元副騎士団長になった経歴まである。

 だが、今の彼は周囲からけちで会話すら難しい変人のように扱われていた。それにも、分かり易い理由がある。かなり高齢になってから生まれた大事な一人息子が死んでから、彼の人生がおかしくなり始めた。

 貴族達は騎士として戦場に立つ為、どうしても戦死が付き纏う。その為、息子の死も老人はなんとか受け入れた。受け止められなかったのは、彼の妻だ。気落ちした彼の妻は、高齢だったこともあり、息子の死から数年後、衰弱して静かに息を引き取る。

 人生のパートナーを失った彼は、救いを求めて周囲を見渡した。人の寿命が短い世界で、かなりの高齢になっていた彼。友人と呼べる者は、誰も残っていなかった。その上で運悪く、下心のある者ばかりが弱った彼に声をかける。彼が人間不信に陥るまで、半年と時間は必要なかった。

 そんな彼が常に身に着けている布袋には、最高額の硬貨に替えた資産の大部分が入っている。もう彼には、それ以外に信じられる物がないのだ。

 何をしても罵声と怒号を浴びせる彼の屋敷には、もうノーマだけしか使用人が残っていない。あらゆる罵声を商売中だからと笑顔で全て受け流したハルでなければ、彼も置き薬を買わなかっただろう。


(ああ……。なんだろう。この胸が締め付けられる感じ。まさか! これが……心筋梗塞? ストレスか? ついにストレスまでが、俺を殺しにかかってきやがったのか?)

 裏口を出てすぐの場所で空を見上げていたハルは、両目を閉じて眉間を強くつまむ。

(勘弁してください……。俺ってやっぱり、ついてない……。いや、呪われてる)

「楽しそうじゃないか。え? そんなに今の仕事は楽しいか? 腑抜けめっ! 鍛え直してやる!」

 ハルが気分を落したのは、ノーマの事だけが原因ではない。今、目の前でイヴが槍の先を自分に構えているのだ。

「どうした! 早くしろ!」

(嫌だよ! てか、棍も槍も持ってねぇよ! なんだよ突然! 頭おかしいのか!)

 隊長の業務として、書類を城へ提出して戻ろうとしていたイヴは、偶然ハルがブローチを渡す場面を目撃した。言葉で感情を表現するのが下手なイヴは、自分でも何をしているのだろうと思いながら、鬱屈した気持ちを無理矢理晴らそうとしている。

 彼女は、ハルとは種類が違う馬鹿の可能性があるようだ。

「ああ! おい! 待て! 待てと言っているだろうが! あ……」

 槍をどっしりと構えたイヴの前から、ハルは一目散に逃げ去った。この場面では、彼でなくてもそうする者は多いだろう。

「何を……しているんだ……。私は……」

 ハルの素早い動きに対応できなかったイヴは、構えを解いて両目を閉じ、眉間に深い皺を作った。

 彼女もシャロンと同じで、自分の気持ちを整理しきれていない。二人とも、ハルのつかみどころのなさに、惑っている。

 見た目、性格、仕事ぶりと全てを高水準で持っている彼女達は、異性から逃げられた事が今までほとんどない。その為、自分から歩み寄れば、相手は相応の対応をしてくれる物だと思い込んでいた。ハルのように追えば全力で逃げようとする者とは、それまで交流を持ったことすらない。

 逃げられれば追いたくなるのが、人情なのかもしれない。彼女達は、ハルに対してまだ恋も愛も持っていないはずだ。それでも、日増しにハルの存在が自分の中で大きくなっていくのは感じているようだ。

(やばい。あのゴリさん。会うたびにおかしくなっていく。頭がバナナの毒にでもやられたか? これなら、まだ姫さんのがましだ。てか、ノーラさんがいい。あの人最高)

 ハルは自分に危害を加えないノーラを、心の拠り所にしようとしていた。それが悪かったのかもしれない。彼の偏った運は、都合よく現実に作用しないのだ。


 その日から、ハルはノーラに会えなくなった。何時通りかかっても、彼女は裏庭に出てこない。薬を補充に行っても、当主自らが裏口まで出てきた。手入れされなくなった庭や、洗い物が放置されたままの炊事場を見て、ハルは首を傾げる

 だが、その答えを持っているであろう高齢の当主は、ノーラの事を気軽に聞けるような相手ではない。ハルに残された手段は、妖魔の情報を集める合間で探る事だけだった。



 太陽が沈んでかなりの時間が経過した配給が必要な地区の通りを、ハルが一人で歩いている。ノーラが薬を買いに出てこなかった為、急いで情報を集めようと、非合法な組織の者達も通うその地区の繁華街に出向いていたのだ。

(あのじいさん、そんなに酷かったのか。ノーラさん……逃げ出した可能性が高いか……。ちょっと親の事で気になる話はあったが……。まあ、逃げたくもなるよなぁ)

 元ブロウ家の使用人から話を聞けたハルは、首を左右に振って息を吐く。ノーラの事はどうしようのないと、諦めているのだ。

(妖魔の話を聞けただけでも、良しとするしかないか。爪を使う大型哺乳類ねぇ。やっぱり熊? あ、ネコ科もそうか……。にしても、大型の癖にいつの間にか消えるか……)

 町に出る妖魔の情報は、ノーラのこと以上に集まっていた。何故かその地区によく出没し、非合法な組織の人間が多く襲われていたからだ。

(ローブを纏った魔道士だか術士の話も気になるよなぁ。妖魔って、使い魔みたいになるのか? それなら、いきなり現れたり消えたりも説明がつく。てか、それはもう妖魔じゃないよな……。うん? はいぃ?)

 腕を組んで歩いていたハルは、路地裏に目を向けて口を大きく開く。ハルが何故そちらへ目を向けたのかといえば、何かが折れる音を聞いて生臭い風を嗅いだからだ。

「グルルル……」

 三メートル以上あるのではないかと目測できる大きな影に、空の雲が動いて月の明かりを当てる。ハルの予測は、的中していた。町中に出現する妖魔は、ネコ科らしい。

 鋭い牙が生えた、首の付け根まで裂けている口。前足の先から飛び出している長い爪。針金のような全身の体毛。背中に何本も生えている太い角。幾つもネコ科とかけ離れた特徴を思っているが、全体像が虎や豹に近い為、それだと分かる。

(俺の馬鹿! 考え込みすぎた! こんな強い精が漏れ出してるじゃねぇか! くそ! やられる!)

 妖魔はすでに尻を空へ突き出した前傾姿勢で構えており、ハルへと飛び掛かろうとしていた。

(嫌だ! 死んで……死んでたまるか! くそったれぇぇぇぇ!)

 巨大な影が人間の反射速度を超えて距離をなくし、命を容易く刈り取る爪をハルに振り下ろす。


 危険な地区で聞き込みをしていた事が、ハルの命を救う。念のためにグローブを装備しており、防御の術が間に合ったのだ。ハルと影の間に二枚の丸い障壁が出現した。

「ごっ! あぁぁ……くそ……」

 障壁はハルの命だけは守ったが、ダメージを殺し切れたわけではない。凄まじい量の精を纏った化け物の爪は、障壁を引き裂いてしまったのだ。その隙で後ろに跳んだハルだが、爪の先が肩にぶつかり、通りの反対側まで吹き飛ばされてしまっている。


(そんな……)

 左肩の痛みを我慢して上半身を起こしたハルは、火と風の術を化け物へ放った。人が全くいない通りで、化け物の低いうなり声を、炸裂音が消していく。

 しかし、それらは化け物に傷を負わせる事なく、消し飛んでしまう。

 敵の体毛が驚くほど頑丈で、纏っている精が強すぎるせいだろう。妖魔を倒すには、物理的な力か、精神的な精の力で打ち勝つしかないが、そのどちらもハルが放った術では不足している。

 裂けた口のせいで笑っているように見える化け物は、縦に伸びた虹彩を怪しく光らせ、ゆっくりとハルを射程距離へいれる為に歩み寄る。

(来るな……来るなよ! 来るなあああぁぁぁぁ!)

 目の前の化け物に、どうやっても勝てないと分かった所で、ハルは半狂乱になった。頭の線はすでに切れ、反射的に後ろに跳ぶ際に役に立ったが、今はどうしようもない。

「フギャアアアアァァァ!」

 左手から出したナイフを投げつけ、右手からありったけの術を発動させていたハルは、化け物の悲鳴を聞いた。目くらまし用に作っていた、閃光手榴弾並みのさく裂型光球が、ネコ科の敵に効果をもたらしたのだ。

(生き……てる……。俺……まだ死んでない……。え? あれは……)

 顔を前足で幾度も擦った化け物は、その巨体を液体であるかのように変化させて、その場から消えていった。敵の視界を運よく完全に奪えた為、ハルは生き延びたのだ。


 全身から冷たい汗が噴き出すハルは、倒れたままその場を動けなかった。恐怖によって体が動かなくなったというのもあるが、消えていく敵の前足の体毛に引っかかったある物について考えているからだ。

 ハルが見たのは、子猫用の首輪と使用人用服の切れ端。その二つで、彼がノーマを思い出すのは当然だ。


 通りに大の字で寝転ぶハルは、星空を見つめながら可能性を探る。ノーマがすでに化け物の手に掛かった可能性や、ノーマや子猫が化け物側で深くかかわっている可能性だ。

(くそ……。なんだよ……これ……)

 胸の奥からの痛みで、ハルの顔が歪む。

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