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破顔の術式  作者: 慎之介
二章:罪人で、変態で、商人で、希望
16/29

2.目で悲しみを表現する者

 数日ぶりの青空の元、人々は食事を味わいながら語らって笑い、舞っている鳥達が歌う。雨という天候も悪くはないが、晴れている日をその場の者達は好んでいるらしい。雨期に入ってから太陽を拝む機会が減っており、その事も余計に人々を喜ばせている原因だろう。


「えっ?」

 幾日かぶりの乾いた風と、心地のいい雰囲気が漂っていた昼下がりの広場から、間の抜けた声が聞こえる。

 その少し大きな声を出しているのはシャロンだ。彼女は、ハルとアルバートの会話を、他の作業に集中しているふりをして聞いていた。その為、周囲の侍女や兵士達は首を傾げ、シャロンに顔を向ける。

「あ……いえ、すみません。片付け作業を続けて下さい」

 自分に向けられた視線に気が付いたシャロンは、焦りながら笑って誤魔化す。

 ただ、そのシャロンは内心が穏やかではない。何故なら、ハルの次からは配給の手伝いに来ないという報告を、聞いてしまったからだ。

 その世界の者の中で、かなり優秀といえる頭脳を持ったシャロンは、高速で思考を巡らせていく。賃金が安すぎたのだろうかという事や、負担が徐々に増えていた為、それを不服に思ったのだろうかと、ハルの考えを読み解こうとしているのだ。

「まさか……」

 唾液を飲み込んで顔を険しくしたシャロンは、作業の手を止める。自分がハルを探ろうとしていた事が、見抜かれてしまったかもしれないという答えを出したからだ。

 それは、彼女の後ろめたい気持ちが出させた誤答であり、ハルがそこまで気付いている訳ではない。その事がすぐに理解できなかったシャロンは、鼓動を早めて掌に汗をにじませる。

「そうですかぁ……。残念です」

 アルバートにいつもの愛想笑いを向けたハルは、謝罪を口にしていたが、悪気が一切感じられない喋り方をしていた。

「すみませんねぇ。そろそろ商品がそろったんで、行商に行かないといけないんですよぉ。後、薬の仕入れもしたいですしねぇ」

(地下の探索は。もうほとんど終わった。てか、この仕事元々合わないしねぇ)

 ハルが配給の手伝いを止めようとしているのは、自分の状況を次の形に変える為だ。その地区の顧客だった子供達がほとんど施設に移った事も、それを決断させた大きな理由だろう。

 ハルの背後にまで近づき、話を聞いていたシャロンは自分の後ろめたい行動がばれていなかったと、安心して息を吐き出す。

 だがそこで、自分の心境が思わぬ方向に変化して行き、戸惑うように服の胸元を掴む。今、彼女の胸中には、なんともいえない寂しさと空しさが去来しているのだ。

「まあ、さっき話した事件のせいで、子供さんや配給先の人が嬉しくはいないですが減りましたし……。仕方ありませんね」

「アルバート! そんな、勝手は許しません!」

(うおぅ! びっくりした! 後ろにいたのかよ)

 ハルへ了解の意思を示したアルバートに、シャロンは少し強い言葉をぶつける。それはほぼ反射的に、彼女の口から出た物だ。自分の大きな声に、シャロンの綺麗な瞳が泳ぐ。

「あ、はぁ……。すみません。あの……何かまずかったでしょうか?」

 頭のいい彼女は、そのアルバートが口にした質問までをすでに予想できていた。そして、その回答を探そうと目を泳がせたのだ。

 勿論、その答えなど見つかられなかった。賃金を払っているとはいえ、来られないと正式に申告されれば強制など出来ない。何よりも、アルバートがいった通り、密造酒組織のせいで仕事が減っており、人数的には余裕が出来ていた。

「あ……そうですね。すみません。私がうっかりしていました。あの、ハルさん? なんとかもうしばらく続けて頂けないでしょうか? まだちょっと厳しくて……」

 黙って俯いてしまったシャロンを見て、アルバートは彼女の葛藤を感じ取る。そして、理由など後からこじつけてしまえばいいと、嘘をついてハルを引き留めようとした。

(お断りです、この野郎。合わないんだよぉ。一番の理由は合わないからなんだよぉ。後、姫さんに説教されるのきついしねぇ)

「あ、無理です。もう、行商準備済ませたんで」

 ハルはアルバートの申し出を切って捨てる。期待に満ちた目で顔を上げたシャロンの視線が鋭くなった。どうやら彼女は、自分とアルバートの出す空気を全く読まないハルに、苛立ったようだ。

(あれ? 姫さん? えっ? 怒ってるよね、これ? えっ? 違うの? どっちなの?)

 口を少しだけ開いたシャロンだが、言葉が出てこない。自分の感情を整理できていない事もそうだが、ハルの事を探りたいなどと本人に教えるほど彼女は馬鹿ではないからだ。

「んじゃ、まあ。そういうことで……お疲れ様っした!」

 空気が読めないにもかかわらず、危機を敏感に読み取るハルは、その場から逃げ出した。彼の背負った背嚢は、短い時間でシャロン達の視界から消える。

「はぁ……。すみません、姫様」

「あ、いえ。こちらこそ、すみません。ちょっと……その……先日の事件の事で、気が立っていたようで……。申し訳ありません」

 ハルが居なくなった事で頭から血が下がったシャロンは、気恥ずかしそうに笑って、作業に戻った。その彼女は、自分の胸にあるもやもやした感情を、ハルの過去について調べる機会が減ったせいだと誤魔化す。王族である彼女は、感情を抑え込む事に慣れているのかもしれない。



「先生? 何か変わったと思いませんか?」

 親のいない子供を預かる施設で働く女性が、炊事場から少しだけ離れた位置にいた。水の入ったタライや桶が並べられた前には、大勢の子供達がおり、自分達の使った食器を洗っている最中だ。施設の職員である女性は、食器を洗う子供達の背を見ながら、先輩である同僚女性に問いかけている。

「あっ! やめっ! 止めてったらぁ。服のしみになるんだからぁ」

「へへぇ」

 水飛沫をわざと飛ばしてきた男児に、皿を擦っていた女児は文句を言うが、本気で怒っている訳ではない。それが分かっている相手も、おどけた様に笑う。

「そうねぇ……。確かに、何か嬉しそうに見える」

 後輩からの質問で、子供達を注意深く観察した中年の女性職員は、首を縦に振った。その二人の女性職員は、密造酒事件の被害者である子供達を担当している。数日前に始めて会った子供達とは、まだ打ち解けきれていない。その為か、些細な事からでも子供達を知ろうとしていた。

「ですよねぇ……。なんでしょうかねぇ?」

「うぅぅぅん。何かしら? 今日が特別な日って訳でもないし……」

 首を傾げあった彼女達が食器の片付けを子供達だけにさせ、監視に徹しているのには理由がある。

 メル達のいるその施設は、子供達をただ遊ばせるだけの場所ではない。早く社会に出られるように、各々が望む内職や農業の手伝いをさせ、食事を与えて教育の機会を与える。その一環として、食事の準備や片付けも子供達にやらせる事があるのだ。虐めなどと呼ばれる事をしている訳ではない。

「あ、ここに来る前は、酷い生活だったらしいですから、今の生活に満足し始めた……とか?」

 彼女達には、親を亡くし、泣いて落ち込んでばかりいた子供達が、その日笑っている理由が分からないようだ。

「ねぇねぇ? まだぁ? んぎゅ」

 鼻水を服の袖で拭いて問いかけてきた少女の口を、メルは急いで塞ぎ、首を横に振る。

「駄目なの。ね? 内緒でしょ?」

 頷いた少女を見てメルは手を離す。そのメルに、少女は笑顔を向けていた。

「あ、そっかぁ。いひぃ」

「ふふっ。大丈夫。もうすぐだよ。約束は守ってくれるもん」

 メルとその少女だけでなく、年長の少年や、他の子供達も笑っている。よほど、昼食後の休憩時間が楽しみなのだろう。


 食器の片付けを済ませた子供達は、施設の外へと走り出す。メル達の預けられた施設は、休憩時間に危険な事等をしない限り、子供達にルールを押し付けない。その為、時間通りに戻りさえすれば、外出も自由なのだ。

「にいぢゃあああああぁぁぁん!」

 大人達の目を避けるように、中華風の建屋に入った子供達は、一人の男性にこぼれるような笑みで駆け寄っていく。

「はいはい。まいどぉ」

 子供を預かる施設の近くにある旅人用である休憩所の一室を、安い金額で無理矢理貸し切りにして待っていたのは、背嚢を背負ったハルだ。例の地区で子供達と会えなくなったからといって、ハルの商売が駄目になった訳ではない。

「集めて来たよぉ! ほらぁ!」

「当然だ。ほれ、並べ。順番だ」

 ハルの言葉で並んだ子供達は、暇を見つけては集めた精の結晶を差し出す。それを受け取ったハルは、以前と全く同じで鑑定から始めた。

(うんうん。いいねぇ。自分で集めるより、効率がいい。ひへへへへ……)

 歪んだ笑顔を浮かべた彼を、子供達はきらきらと輝かせた瞳で見つめる。異様な光景ではある為、事情を知らない者が見れば通報するかもしれない。


 鑑定を終えて販売の段階に移行したハルは、腕を組んで眉間に皺を寄せていた。

(ぐぅ……。数日でここまでか。くそ。見誤った……)

「あ、この髪止めかわいい。でも、こっちもいいなぁ」

「あ、だめぇ! それ私の!」

 ハルが予想していたよりも子供達のニーズが変わっていた為、用意していた商品が思ったように売れない。それで、彼は難しい顔をしているのだ。

「なぁなぁ、兄ちゃん。もっと……こう。農作業中にこっそり食える物ないの?」

(なんだ、そのよく分からない要求は?)

 食事に困らなくなった子供達の要望が変わるのは、当然だろう。それを見越して、ハルも商品ラインナップを変更したが、上手くかみ合っていない。

 比較的成功しているハルだが、商人としてはまだ修行不足だ。聖都内で流行るだろうと仕入れた香辛料はまだ不良在庫を抱えているし、薬販売が成功するまではずいぶんと損もしている。そして今回は、子供達の要望をかなり読み違えたらしい。

(お……おもちゃ的な物じゃだめなのか? え? なんで一番高い髪飾りや指輪がもうないの? あ、果物は売れたか)

「えと……ごめんね。お兄ちゃん」

 欲しい物を見つけられなかったメルの謝罪は、ハルの胸に突き刺さる。

(ちぃぃぃくしょおおおおおおおおおぉぉ!)

「いや。気にするな。欲しい物がなければ、金を持ってろ……。はは……」

 なんとか天井を見上げて目から液体が流れ出さないように耐えたハルは、気持ちを切り替える。

「で? 何が欲しい? ほう……服か。で、お前は? 干し肉? ああ、施設の食事で肉の美味さを知ったと?」

 背嚢からノートを取り出したハルは、子供達一人一人に熱心な聞き込みをしていく。子供達の要望が変わる事まで読み当てながら、見当違いの商品を仕入れてしまった事がかなり悔しかったらしい。

「あちしねぇ……。えと、パン! にいちゃんのパン好きぃ!」

(なるほど。そのくせ、パンじゃなくて果物を買った……っと。分かった。お前はいいや)

 最後となった年長の少年への聞き取り中に、鉛筆を握ったハルの手が止まる。

「は……はいぃ?」

「だからな。農園の管理者の息子が襲われたんだよ。妖魔に。それも、町中でだぜ。施設で新しく出来た舎弟の一人も……」

 裸で街中を走り抜けた変態ほどではないが、町中に妖魔が出た事は、人々の間で話題になっていた。少年は、その事についてハルに喋り始めていたのだ。

「あ、お兄ちゃん。私も、お父さんと町中で襲われたって子と話したよ。うちに昨日入って来たの。今も、毛布をかぶって震えてる。かわいそうなの」

 少年だけでなく、他の子供達もハルへ自分達の持つ妖魔の情報を伝える。首を傾げたままのハルは、笑顔が歪む。

(いや……。あのね、くそガキ共よ……)

「で? どうする? やっぱり、退治してくれるんだろ? あんたにゃ恩がある。俺達に出来る事があればなんでも言ってくれ」

 年長の少年から、密造酒組織壊滅の話を聞いていた子供達は、ハルについて何かを大きく勘違いしたらしい。

「あのな……。俺は商人なんだよ! 妖魔退治は、兵士もしくは傭兵の仕事! てか、危ない事したくないから、俺は商人なの!」

 ハルの身も蓋もない言葉を、少年は鼻で笑い飛ばす。

「なんだよ。俺達に危ない事させたくないってのか? 水臭いな。俺達だって……」

「違うわ! 後、妖魔舐めんな」

 少年に向かって大人げなく反論していくハルへの視線は、本来冷たくなってもいいはずだが、何故か変わらない。それだけ、間違った方向にハルは信頼されてしまっているらしい。

「てか、俺も新聞読んで知ってるよ。手練れの傭兵が、三人もやられてるんだよ。俺が出ていく話じゃって……。えぇぇぇ……」

 頷き合った子供達は、必死にやりたくないというハルの前に、商品に変えなかった硬貨を置いていく。依頼料のつもりなのだろう。

(この金額で命を掛けろと? 俺にどうしてもやれと?)

 それからもハルは、情けなくいい訳を続けたが、子供達は真っ直ぐな瞳を全く逸らさない。

「いやいやいや! 馬鹿か、お前等! 俺はただの商人なの!」

「兄ちゃん……。そう照れんなって。な? ここまで来たらやるしかないだろ?」

 いつの間にか、笑顔の子供達はハルの服を全方向から掴んでいた。最後に年長の少年から送られた言葉で、ハルの瞳から光が消える。

(やべぇ……。話を聞いてくれない。聞く気すらない……)

 いまだに正体すらつかめていない神出鬼没の妖魔について、調べるだけならばとハルは仕方なく硬貨を受け取った。そうしなければ、その場から逃がしてもらえそうになかったからだ。

 己の意思と関係なく、未来が変わる事もある。ついつい子供達に流されてしまった今のハルは、まさにそれだろう。



(勘弁してよぉ……。もぉぉぉぉぉ……)

 休憩所を後にしたハルは、いつもと同じように地下へと潜って座り込み、ランタンの火をぼんやりと見つめていた。どこへ行っても聞こえてくる変態の話に加えて、子供達からの依頼でストレスがかなり溜まってしまったようだ。


(そうだ! もう、妖魔の正体だけ掴んで兵士呼ぼう! うん! それがいい! 危ないのやだ!)

 なんとか気持ちを整理したハルが、勢いよく立ち上がって背伸びをする。長時間頬杖をついていたハルの頬には、赤い手形が残っていた。

「依頼料は受け取っちまったから……。うん。とっとと、調べちまおう。それで、集落に行って行商だ。利益が俺を待っている!」

 地下空洞の、大理石で出来た床の上に置かれたランタンとヘルメットを掴んだハルは、後回しにしていた柱奥の探索へと向かう。

(柱の文字は全部書き写したし……。後はこの壁の奥だけだな)

 大理石で作られた壁を、ハルは鉄で出来たヘルメットで叩く。数日前にハルはそこへツルハシの先をぶつけ、音の感じから中に空洞がある事を察していた。

 その調査を後回しにしたのは、壁が術で守られているからだ。二つあるツルハシの先の片方は、その壁に勢いよくぶつけ過ぎたせいで折れている。

「うおっ! くそ……。やっぱ駄目か」

 地下道に鈍い破裂音が響く。ハルの使った大理石を砕く為の術式が、弾き返されたのだ。反動を受けたせいで、ハルの頬にあったかさぶたから血が流れ始めていた。

「やっぱ、これじゃないよな。ふぅ……落ち着け……」

(多分ここも、ゴーレムが居た場所や、ここの入り口になってた壁と同じで、なんらかの条件がそろうと崩れるはずだ)

 ハルは数日かけて考えた方法を、一つずつ試していく。条件の選択肢が無限と思えるほどある為、それ以外にどうしようもないと考えたのだ。

(この術式も駄目か。これが一番、可能性高いと思ったんだがな。くそ……)

 新開発した、道具に刻まれている術式を無理矢理抑え込む術も、壊す術も壁には通じない。それだけ、壁を守る術が強いのだろう。

「はぁ! はぁ! くっそ……」

 爆発や術式が反発する不快な音が、幾度にも渡って繰り返された。地下に住まう小動物達は巣穴の中でおびえ、それがおさまるのを待っている。

(もう、やるだけやって駄目ならまた考え直すしかねぇな。あ、ババァに聞いてみるのもいいかもしれん……。てか、無理……)

 やけくそ気味に、精の固まりである分身体をぶつけ、術ではない火や水を壁に接触させた所で、ハルがしゃがみ込んだ。荒い呼吸から、彼の体内から精が尽きかけている事が分かる。精結晶も、それなりの量を消費してしまっていた。

 竹筒を取り出して水を飲んだハルは、首を左右に振りながら壁の表面を撫でる。つるつるとして手触りのいいその壁は、傷一つついていない。

(昔の術って……凄かったんだろうなぁ。はぁぁ……くっそおおおおぉぉ! この先に宝がありそうなのにぃぃぃぃ!)

 ハルはあまりの悔しさから、感情を爆発させた。それに呼応して、彼の左手首部分にある紋章が、光を放つ。

 その一連の流れは、全て偶然だ。それでも、結果に結びつく。日頃運が悪いのは、ハルがそういった場面であり得ない幸運を掴んでいるからかもしれない。

(なんだ? 見える? 術式が見える。俺の世界にあった式に近い?)

 紋章を介して壁の中に刻まれていた術式が信号として流れ込み、ハルの脳内で再生されていく。ハルからすると、急に壁から魔方陣が浮き上がってきたように映っている。

(なんで、急に? 紋章が…………そうか! 精神感応だ! こいつで同調したのか!)

 研究施設の実験としてハルの左腕に仕込まれたのは、精神や霊的な力を現実世界と直接結びつける為の紋章だ。ハルはそれを改良してワイヤーの操作等に使っているが、元々の性能は崩していない。その結果、感情爆発で起動した紋章が、術式と人を繋ぐインターフェイスとして機能し始めたのだ。

(よし! これならアンチマジックが組め……。いや、わざわざ作る必要はないな。条件を読み出すのに何日かかるか分からんし……)

 左手を壁に付けたまま、ハルは背嚢からノートを取り出して読んでいく。ハルが今読んでいる項目は、アルバートの講義中に聞いた術の概念についてだ。

(術は精……力のそのもの……。同量かそれ以上の力で、理論上は相殺可能! お宝っ!)

 空中に出した魔方陣から、精結晶を掴みだしたハルは、全てを握りつぶしてグローブ内の術式に吸い込ませる。欲に目がくらんだハルは、いつものように口角を上げていた。

(この術式の……一番弱そうな所は……とぉ……。そこだ!)

 右手も壁に付けたハルは、仕込まれた術の一番弱い部分へ、一気に精を流し込む。それがどういう結果を生むかを、ろくに考えもせずにだ。

「え? んぎゃあああああぁぁ!」

 地脈からの力を取り込んでいた壁の術式が壊れた事で、行き場を失った力が暴発した。

「ぐげっ! う……うぅぅ……」

 壁は崩れただけに留まっている。周囲の地面にも、運よく影響がなかった。

 だが、そのつけはハルに回っている。信じられない圧力で吹っ飛ばされたハルは、柱に背中から激突した。その衝撃と術の反動で、両方の穴から鼻血を噴き出していた。

(ちょっ……マジかよ……。いてぇぇぇ……)

 ハルが反射的に空中で自分の体を守る術を発動していなければ、最悪は死んでしまっていただろう。それほど暴走した力は大きかった。

(俺の……馬鹿……。そりゃ、あんだけ強い術壊せば……当然じゃないか……。ああ……死ぬかと思った……。いてて。あ、やべ。意識が……)

 柱の根元で倒れ込んで視界がホワイトアウトしたハルは、しばらく虫の息で回復を待たなければいけなくなる。


 鼻と口のまわりの血が固まった頃、ハルは活動を再開した。そのハルは誰が見ても弱っており、足元はおぼつかない。

「くそ……まだ頭がいてぇ……。吐き気がする……」

 ふらつきながらも、ハルは宝を手に入れようと崩れた壁の先へと進む。そこは、ハルの予想通りゴーレムと戦った場所と同じだった。

(あの壁そのものが、ゴーレムと同じ役目だったのか)

 白い壁で囲まれたその場所は、術式を壊したせいか真っ暗だ。ハルはランタンを頼りに部屋の中央にある台座に近付き、苦しそうにではあるが笑う。苦労した地下探索の成果が、目の前にあるからだ。

「やった……ついに……ついに……。いて! 腰が……」

 台座の上には長さ二十五センチ、直径五センチほどの真っ黒い円柱と、題名や著者名が書かれていない本が一冊。

「なんだろうな……。この棒には術式が仕込まれてるが……、発動してない。精がないからか? 仮面と同じか……」

 ランタンを台座の上に置き、本の中身を軽く読んだハルは、目を細めていく。読めないからではない。読め過ぎたからだ。

(なんだこれ? 文字が俺の世界と全く一緒? どうなってるんだ? もしかして……これは、俺の世界から来た異邦人が残したのか? あり得る。大昔の魔法を使っていた時代の人間なら……。あれ? その頃から文字って一緒? あれぇ?)

 本を閉じたハルは、頭を掻き毟った。いくら考えても、無駄だ。今の彼にはまだ答えに辿りつく材料が、不足している。

「はぁぁぁ……。まあ、いいや。取り敢えず……お宝獲得! これで、最低限は達成だ」

 喜びを表現しようとしたが、体の節々が痛いハルは、よろよろと地下道から地上に向かって歩き出した。勿論、本と円柱は魔方陣の中へと押し込み済みだ。

(一回休もう。うん、それがいい。死んでしまう……)



 運よく妖魔に出くわさなかったハルが、町へたどり着く頃には、空が白んでいた。ハルは自分が思っていた以上に、気を失っていたらしい。

(仕事に……いや! 無理! もう、今日は休む! だって、死にそうな気がするから!)

「おっ? 早いなぁ……」

 宿舎に戻ろうとしたハルが足を止めたのは、ある貴族が住む邸宅の裏門前だ。そこには、頬のそばかすが印象的な使用人女性がしゃがんでおり、子猫へ皿に入った牛乳を差し出していた。

(あ……やばいな。あれは……)

「あの……すみません。ちょっといいですか?」

 余計なおせっかいかもしれないと思いつつも、ハルは使用人の女性に門の外から声をかける。

「えっ? ああ、薬屋さっ! ええ?」

 ハルに気が付いた使用人女性は、日頃細い目をいっぱいまで見開いていた。知り合いが胸元を血で染めているのだから、驚くのは当然だ。


「そうですかぁ。よかったです」

「驚かせてすみません。鼻血ってなかなか止まらないんですねぇ。ははっ、私も焦りましたよぉ」

 心配して駆け寄ってきた女性を、適当な言い訳で誤魔化したハルは、裏門から邸宅の庭の中へと入る。

「あっ! 薬屋さん?」

 牛乳に舌を伸ばした子猫をハルは掴んで持ち上げた。それは、牛乳を飲ませないようにする為だ。

「余計な事とは思いますが……。この子猫の為です。すみません。この世界の殺菌されてない牛乳は、子猫にとって毒になる可能性があります。特にその牛乳瓶の牛舎はちょっと……」

「えっ? そうなんですか?」

 驚いている女性に、ハルは離乳食の作り方を説明する。

 ハルが何故猫についての知識を持っているかといえば、研究機関で覚えさせられたからだ。神や魔女の使い魔とされる猫は、人間よりも霊的に優れていると考えられており、ハルも生態について学ばされた。それが、思わぬところで役に立ったようだ。

「この大きさなら、砂糖水と離乳食がいいですよ。ここの牛乳は危険ですよぉ。人間でも結構被害出てるらしいですしね」

「そうですか。ごめんねぇ。すぐ用意するからねぇ」

 使用人女性はハルの抱えた子猫を一度撫でて、台所に戻った。そして、ハルの言った通りに作った離乳食を持って戻ってくる。

「この子……。前足が生まれつき悪いみたいなんです。ですから、母猫がここに捨てて行ったんです」

 ハルの隣にしゃがんだ使用人女性は、食事をとる子猫をしばらく見つめた。その目には、深い悲しみが宿っている。

「あっ、そういえば……。薬屋さん? この世界って……」

 しばらく無言だった女性は、突然思い出したかのようにハルに顔を向けて喋り出した。その表情には、先程までの悲しみが消えている。

(ま……詮索はよくないな)

「ああ、すみません。言ってませんでしたか? 私は異邦人なんですよ。ほら」

 胸にネックレスとしてつけている金属のタグを見せて、ハルは笑った。それだけでハルベリアに住む者達には、ハルが異邦人であることが分かる。


 二人はそれから、笑顔で自分の事を喋る。軽い話題ではあるが、その日二人はお互いを今までよりも少しだけ知った。ハルが引き寄せたその偶然も、やがて何かの結果に結びつくだろう。善い事か悪い事かは、まだ分からない。

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