13.奇妙な悲鳴を上げる者
空にある真っ黒だった雲が白く変わり、やがて消えていく。それでも、糸のように細い雨は降りやまない。天気雨という名のそれは確かに珍しいが、怪異などではなくれっきとした気象状態の一つだ。地上からはるか上空で降りはじめた雨が、強い横風で運ばれてきただけに過ぎない。
ハルベリアに住む人々は、数日ぶりに顔を出した太陽を見ようと顔を空に向けた。それにより、上空に浮かぶカラフルな半円を目撃する事になる。
「ははっ。これはまた……」
部下と共に巡回中だったイヴも、かぶっていたフードを脱いで笑顔になっていた。最近元気のなかった上司のその笑顔を見て、部下である若い兵士二人が目配せの後に、頷き合っている。
「いつまでもくよくよしていられないな。あいつの事も……うん。また今度だ。さあ、巡回を続けるぞ!」
「はい!」
部下からの返事を聞いたイヴは、笑顔を維持したまま歩き出す。人は小さなきっかけさえあれば、心境を変えられる。イヴは虹を見て、自分の悩みがちっぽけに思えたのだろう。
「むぅ……。いい笑顔だ」
若い兵士二人と同じように表情を緩めたオールバックの髭を生やした男性が、路地裏にいる。彼は少し前からイヴに気付かれないように、彼女を見守っていた。
「そうですね。隊ち……おっと、団長」
現在はイヴの部下兼お目付け役であり、その父親の古くからの戦友である年長の兵士も、嬉しそうに笑う。何故彼が追跡者である男性に同行しているかといえば、その男性こそイヴの父親で自分の友人だからだ。
「お嬢様は……いえ、隊長はよくやっておられます。多少の失敗はあれど、我らの若かりし頃よりは出来がいいといえますよ」
昔馴染みの前で、つい過去の呼び名を使ってしまいそうになる年長の兵士は、小さな声でイヴの情報を父親に漏らす。
だが、それを聞いても、イヴの父は表情がまだ少し硬い。彼はイヴの前では厳しい態度を取りながらも、過保護と言えるほど彼女を大事にしている。今も娘が心配で、内心穏やかではないのだ。休日のたびに娘をストーキングしているのも、愛ゆえになのだろう。
「や……やはり、見合いでもさせて家庭に入らせるか? いや……」
友人である年長の兵士だけが知る騎士団長の情けない顔は、他の部下にあまり見せていい物ではないようだ。ほぼ確実に、威厳を失うだろう。
「その事なんですが……。もしかすると、隊長はもういい人を見つけたかもしれませんよ。まだ、もしかすると……ですがっ! ごほっ!」
「誰だ! どこのどいつだ! 私が吟味する! 連れてこい! 殴り倒してやる!」
イヴの父親に胸元を強く掴まれた部下の男性は、咳き込みながら上司の物騒な発言を聞いた。そして、イヴの想い人が誰か分かっても、不用意に教えない様にしようと心に誓う。
「なんだ?」
路地裏から聞こえてきた大きな声に、部下である兵士は顔を向けるが、イヴは気にせず巡回を続ける。追跡者である父親の存在に気付けないのは、イヴが少し大雑把な性格でまだ修行不足だからだろう。
同時刻、イヴと同じように背後の気配に気付けなかった男が、口を押えられ物陰へと引きずり込まれた。彼は、密造酒製造組織のナンバー二だ。大きな木箱に座って煙草をふかし、失敗した五人が殴られるのを見下ろしていた。そして、出入り口からの大きな音に驚いて煙草を落とし、水蒸気の中に立つ人影を見つめていたのだ。
他の仲間達から距離を置いていたのが、彼の運のつきだったのだろう。訳も分からないうちに服の襟で首を絞められ、全身が脱力した。
(二人目ぇ……っと)
現実問題として、人を殴って気絶させるのは難しい。コツなどを掴めば可能かもしれないが、ハルはそれを選ばない。着実に数を減らさなければ、自分が生き残れないからだ。
(ちっ、時間切れか。まあいい。次は、あいつだ)
木箱の隙間からハルが確認すると、水蒸気と分身体は消えており、組織の男達は訳が分からないといった表情で周囲を見回している。その中で、もっとも端に位置している男を目標と決めたハルは、素早く木箱の後ろから木樽の裏へ移動した。焦らず迷わない行動が重要だと、彼は身にしみて分かっているのだろう。
(はい、いらっしゃい)
「うぐっ! ううぅ……」
敵の正体が分からず後退していた男は、口と襟を後ろから押さえられて倒される。ハルはその男の体重を使って、引き摺りよせながら気を失わせた。
「いたっ! いたぞ! こっの! くそだらああぁぁ!」
ハルが仲間を締め落としている事に近くの男が気付き、大きな声を出す。
(おっと……馬鹿じゃねぇの?)
自分に向かって拳を握った男が駆け寄っても、ハルは全く動じない。それどころか、小馬鹿にする。相手が素人で恐れる必要がないからだ。
その男は術を使える腕輪をつけているのだから、駆け寄らずに術を出すべきだろう。
しかし、所詮は町のチンピラ。反射的に拳での攻撃を選んでしまい、ハルに膝の皿を正面から蹴られてしまう。
「こっ……ぐがっ!」
ハルが選んだのは、膝への軽い蹴りという地味な技だが、自分の隙が出来にくく相手をかなりの確率で足止めできる。転んだ男は立ち上がろうとしたが、膝の痛みで丸まってしまった。自分の走る勢いで膝が曲げてはいけない方向に曲がったのだから、痛くないはずがない。
「やめっ! おまっ! くそっ!」
ハルはその男の両腕を後ろに回させ、左手から出現させたワイヤーで素早く拘束する。縛られた男は、自分はまだ負けてないと言いたげに騒ぐが、その状態から逆転など不可能だ。
「やっろうっ! 囲め! 囲んじまえ!」
縛った男性を盾にするように、ハルは部屋の隅から中央に向けて移動し始めた。勿論、考えがあっての事だ。
「術だ! 近付き過ぎるな! 早くしろよ!」
(遅ぉぉぉぉい。おっらああああああぁぁぁぁ!)
その時は、声を封じていた事がいい方に働く。今のハルは、いくら叫ぼうとしても言葉が仮面に吸収される為、周囲からは無言で動いているようにしか見えない。
「なっ! うがっ! く……そ……」
部屋の中央付近まで男を引き摺ったハルは、そのまま男の両足も後ろに折りたたんで縛り、ワイヤーを伸ばす。ハルが選んだのは、人間ハンマー投げだ。強化の術で七十キロはある男を放り投げたハルは、そのまま独楽のように回転し始める。
縛られている男性は、一人の仲間にぶつかり、床へ落ちる前にワイヤーで引っ張られて空中を移動し始めた。先程とは違う仲間へ頭をぶつけたその男は、また次の仲間へ胸をぶつける。
人間そのものを高速でぶつけられて、無事でいられる者などその場にはいない。人を殺す為の術は組織の人間も持っているようだが、防御の術など持っていないからだ。
(おら! おら! おら! おら!)
頭の線を切り、笑いながら回転する狂った鼠は、ワイヤーの長さを調整し、確実に敵の数を減らす。人が思いつかない事もしくは、思いついてもやらない事を敢えてする事で、相手の隙を突く。それが彼の戦い方だ。
(最後だ! 飛んでけっ!)
三半規管の限界を感じたハルは、ワイヤーを消して男を開放する。空中でいきなり拘束を解かれた男は、すでに意識を無くしており、少し離れていた仲間に向かって飛んでいく。気を失っている仲間に激突された男は、言うまでもないかもしれないが、戦闘不能に陥る。
「この……舐めやがって! おいっ!」
「今だ! 動きが止まったぞ!」
自分に掌を向ける男達を、ハルは口角を上げて見つめる。その状態のハルは、ほとんど恐怖を感じない。何よりも、次の策は用意してあるのだから、恐れることなど何もないのだろう。
(ほれ……行くぞっ!)
ハルが念じると同時に、部屋の天井が爆発して崩れ、中へ水蒸気が吹き込んでくる。男達の視界は、その白い水蒸気で不鮮明になった。
それは、ハルが建物の中へ入る前に、雨水を利用する術を仕込んでおいた結果だ。地下での作業経験が、活かされているらしい。
「うおおぉぉ! くそ! 仲間がいやがったんだ!」
「焦んな! 馬鹿が! 術だ! やっちまえ!」
水蒸気の中に浮かび上がった複数の人影に、男達は全員が後ずさりしていく。その場にいる組織の男達は、誰一人として本当の勇気など持っていないのだから、当然だろう。
ハルに仲間などいない。人影は全て、ハルが魔方陣で作り出した分身体だ。右手から発生させた魔方陣は、仮面をつけたハルそっくりに変わり、水蒸気の中へと走り込んでいく。
(捕まえたぁ! ほい!)
地上に仕込んである魔方陣をもう一つ発動させたハルは、混乱している男の背後に近寄り、背中へ手を添える。元の世界にいた頃と違い、術が使えるハルは、それだけで相手を行動不能に出来るのだ。
「いぎぃ!」
ハルに背中を触れられた男達が、悲鳴の後に倒れ込んでいく。彼等を襲ったのはスタンガンをヒントにハルが開発した、高電圧低電流の術。命を失いはしないが、しばらくはまともに動けなくなる。
「なんだよ! ちくしょう! どうなってるんだ! おい! しっかりしろ!」
敵の正体も人数も分からず、気が付けば仲間が倒れているのだから、男達が混乱するのは当然だ。男達は、その混乱すらもハルに計算されていると分かっていない。
「見つけた! このくそがああぁぁぁ!」
五回目となる水蒸気が薄れた所で、ハルの本体を見つけた男が、剣を握って走り出す。ハルがメダルを服に変えた為、少し目立ってしまったのだ。
だが、今のハルが、考えなしに不用意な事をするはずがない。
(はい。六回目ぇっと)
「ぎゃああああぁぁぁ!」
新たに吹き込んだ水蒸気も気にせず、男はハルに真っ直ぐ向かったが、苦しげな悲鳴を上げる。単純な話だが、煙幕ではなく水蒸気なのだから、高温なのだ。ハルのように術を無効化できる服でも着ていない限り、無闇につっこんではいけない。
「あ……あぁぁ。ぐぎぃ!」
顔や腕を軽くではあるが火傷した男は、ハルの作った魔方陣からの雷で倒れて、口から泡を吹く。
(これで……残り四人。けけけけっ)
仮面の下にあるハルの顔は、仮面以上の笑顔になっており、真っ黒い感情をそのまま表現している。
(おう? ったく。逃げろって言ったのに……)
子供達三人は、瞬く間に敵の大多数を倒したハルに見とれ、逃げずに笑っていた。それを見たハルは、呆れたように大きく息を吐く。
「なんなんだよ。いったい……」
水蒸気と分身体が全て消え、残ったのは倒れて呻く仲間達と異様な風体の男が一人。組織のボスがその言葉を呟いた気持ちが分かる者は、少なくないはずだ。
グローブから新たな魔方陣を空中に浮かばせたハルを見て、スキンヘッドの男性が肩をびくりと跳ね上げる。もうすでに、彼にとってハルは恐怖の対象になってしまったようだ。
「止まれっ! ええい! 来るな! このいかれた変人が!」
ナイフを構えたボスは、自分にゆっくり歩み寄るハルから逃げようと、周囲を見回した。そして、逃げるのを忘れていた子供の一人を、人質として自分の前に立たせる。
(ああ……やっぱりねぇ。そうなる気がしてたよ)
「兄ちゃん! 俺はいい! こいつを……ぐぅ!」
そのスキンヘッドの太った男は、少年の喉元にナイフをあてて黙らせ、仲間に目配せを送った。視線だけで指示された仲間は、腰を抜かしていたがなんとか立ち上がり、ハルに向けて掌を向ける。彼等の腕には、術式が仕込まれた小手が装備されていた。
「動くなよ! 何もするな! いいな!」
首を左右に振ったハルは、掌の上に浮かべていた魔方陣を床に投げ捨て、両手をあげる。そのハルに向けて、男達二人は人を殺傷できるであろう火球を飛ばした。
「なんで……兄ちゃん……」
「やった! やったぞ! くそったれが!」
人質にされた少年は悲しそうに顔を歪め、組織の男達は歓喜の声を上げる。ハルの思惑に、誰も何も気が付かない。
(くけけけけっ!)
先程ハルが投げ捨てた魔方陣は、人質を取るボスの足元で広がり、少しだけ光って地面の中へ消えた。ハルが魔方陣を武器であるかのように投げ捨てた事で、男達は安心したようだが、その魔方陣は地面に接触して初めて発動するタイプの物だ。
「ぐおおおぉぉ! なっ! なんだ!」
現在、ハルベリアの地面を支えている土柱が、ボスの足元から天井に向けて伸びる。そして、人質の少年とボスを柱の中に取り込んでしまった。今その二人は、顔や手足の先しか、柱から出ていない。
人間の力は分散されるとかなり弱くなる。浜辺で首だけを出して体を砂に埋められれば、動けなくなってしまう程度だ。それが砂ではなく圧縮された土なのだから、今のボスはどう足掻いても抜け出せない。
「くうぅぅ! 動けねぇ! おい! 助け……」
仲間に助けを求めようとしたボスの顔が、みるみる青ざめていく。何故なら、仲間達が幾度もぶつけている火球は、ハルの服に無効化されており、空中で霧散してしまっているからだ。
「ぐがああぁぁ!」
(さてさて……どうしてくれようかぁ)
仲間二人をあっさりと気絶させ、自分に揉み手をしながら近づくハルに、ボスは震えて声も出せない。彼自体には戦闘能力がほとんどなく、ハルが脅しも効かない相手だと分かっているのだから、もう打つ手はないだろう。
『ちょっと下がれ。もしくは仲間の縄でも解いてろ』
新しい魔方陣を出したハルは、それを土柱へとぶつけ、少年の周りだけを削り落とした。
「あ、ああ! 分かった」
空中に浮かぶ光の文字を見て、笑顔の少年は仲間の元へ向かうが、ハルからは目を離さない。
「やめ……何? 何を……」
土柱から距離を取ったハルは、わざとらしく首と腕を回し、準備運動をする。そして、ボスに向かって走り始め、土柱の少し手前で跳び上がった。
(性別……変えたらああああぁぁぁ!)
ハルが選んだのはとび蹴り。それは、数日前に使ったドロップキックのような、生易しい物ではない。体重、落下速度等全ての力を一点集中させて、男性の急所へ直撃させる。
「はふぅぅ!」
いくらハルが裸足でも、後ろから土柱に押さえられた状態でそれを食らえば、ただで済むはずがない。涙を流して白目をむいたボスは、そのまま動かなくなった。
(黙っとけよ、くそガキ。過剰防衛で訴えられたら負ける気がするし)
土柱を崩し、子供達に光の文字でこの事は秘密だと言い聞かせるハルは、仮面の下でいい笑顔を作っている。足の裏からの感触が、お気に召したのかもしれない。
「ひ……ひぃぃぃ!」
(あ、いけね。忘れてた。あはははははっ。待てよぉ、こいつぅ!)
戦闘に加わっていなかった異邦人男性は、部屋の隅で震えていたが、恐怖から悲鳴を上げて奥の部屋へと逃げ出した。笑顔のハルは、その男性を全速力で追いかける。敵に容赦しない性格も、彼を生き残らせた要因ではあるのだろう。
「ぐひぃ! あぐ……」
細い通路を抜け、木の扉を開けて奥の部屋へと逃げ込んだ男性は、部屋に入ったところで背後から拳を受け、転げるように倒れ込む。その男に、ハルは容赦なく電圧を見舞う。
(ふぅぅ……これで終わりだな。うん? あれは……)
ハルが顔を上げた視線の先には、酒が入っている樽や、蒸溜用の装置が置いてあった。ハルはそれを一つ一つ確認していく。
(こっちのラベルはメタノールで、こっちはエタノール。なんだよ。普通の酒も造ってるんじゃないか。それも、こんなにたくさん。危ない酒ばらまくなよな。馬鹿が)
密造酒組織の事がよく分かっていないハルは、呆れたように息を吐いた。
だが、高純度のエタノールを見つけ、にやりと笑い。その瓶を魔方陣の中へと仕舞い込んでいく。
(ここの奴等は、兵士に突き出す。なら……持ち主がいない物は、俺の物! ぐへへっ)
ハルはそれらを、飲料用として使うつもりはないが、医薬品としては使えると笑ったのだ。彼の中ではまた、新しい利益を生む考えが浮かんだのだろう。
(これで、収支はかなりプラスだな。ガキ共に、食料か何かは返してやるか。くくくっ。今日も、俺の財布は暖かい)
必要なエタノールを全て回収したハルは、蒸留装置を持ちだせないかと腕を組むが、大きすぎて一人では運び出せないと諦める。それを持っているだけで罪になる事は、子供達からの話でハルにも予測できたらしい。
(まあ、仕方ないか。軽犯罪でも、外交調査官になれなくなっちまう。それよりもっと……)
部屋の隅にあった木で出来た梯子を、ハルはなんとなく上って行く。敵が残っていないかの確認と、逃げ道をどこに作っていたのだろうという、軽い好奇心からだ。良くも悪くも、人生はそういった小さな分岐の連続で出来ている。
(ちょっ! これ! おまっ! マジか!)
梯子を上り切った先には何もない湿気た煤だらけの、男が二人は入れない小さな部屋があり、細い光が一本だけ差し込んでいた。光は壁の煉瓦の隙間から漏れており、ハルは首を傾げてその隙間を覗く。そして、鼻息を荒くして興奮し始めた。
(ちきしょう! あいつら! 今まで、こんないい思いしてやがったのか! くそっ! 羨ましい!)
ハルは公衆浴場の女性用浴室を覗きながら、荒い呼吸を続けている。
地下から上れば、そこは地上なのだ。元は物置として気付かれないように作ったであろうその部屋は、ハル行きつけの公衆浴場の建物をくり抜いて作られていた。
すでにハルが入浴してからかなりの時間が経過しており、公衆浴場には客もかなり入っていた。
(ちょっ! 湯気! 邪魔! てか、遠い! あの! あのねえちゃん! あのねえちゃんのを! 違う! お前じゃ……おやおや、こっちもいい物をお持ちで……)
どうやら、ハルのストライクゾーンは広いらしい。自分よりかなり年上の女性を見ても、とてもいい笑顔を作っていた。
(天国……この世の天国見つけたぁ。ふへへへへへへぇ。ここ……買い取ろうかなぁ。それいいなぁ。あははぁ。はい?)
偶然ではあるが、軽犯罪を楽しんだハルは、浮ついた笑顔のまま梯子を下り、絶句していた。何故か、呼んでもいない兵士達がそこにはいたからだ。
(なっ? なんでだ? イヴに……姫さんも? どうなってるんだ?)
密造酒を作っていた拠点には、現在五十人以上の兵士が来ている。実は、配給に向かったシャロンが子供達に出会ってしまったからだ。
その子供達は、約束通りハルの事を喋らなかった。
しかし、ハルの助けになればと、シャロンに助けを求めてしまったのだ。配給品を持って行った家で、証拠となる息絶えた者を見ていたシャロンは、すぐに動いた。近くを巡回中だったイヴを呼び止め、兵を掻き集めさせたのだ。
イヴを呼び止めたところで、権力を持つイヴの父親まで出て来た為、兵士招集から出動までにはあまり時間が必要なかった。その結果、今に至る。
「姫様! お下がりください! あの怪しい仮面……敵の首領と見ました!」
気絶している異邦人男性を部下に任せたイヴは、ハルに向かって槍を構える。それも、親子そろってだ。
「抜かるなよ! イヴ!」
「はい! ここは通しません!」
ハルは一度だけ、梯子の上へと視線を送った。そして、信じられないほどの速度で頭を回転させていく。
(正体を……あ、駄目だ。覗きがばれる。外交調査官の道が消える。後、きっと殴られる。最悪、姫さんにも殴られて、投獄される。最悪だ! ちくしょう!)
彼の字名は、狂った鼠。普通の者達が選ばない道を、何故か選んでしまう。それは、戦闘だけに限った事ではない。
(掴まってたまるか! 逃げる! 逃げ切ってやる!)
梯子から手を離した瞬間に、ハルはグローブから魔方陣を三つほど出現させ、分身体を作った。それは、まだ完成していない分身体だ。
「いっ? いや……ぎゃあああああああぁぁぁ!」
裸で自分へ全力疾走してくる仮面をつけた敵に対して、イヴは反射で後ろへ飛び退いてしまった。それにより、狭い通路にいた兵士達は将棋倒しになる。当然、イヴも尻餅をついた。その座り込んだイヴの顔は、男性の股と同じ高さになったのだ。
分身体で人を完全に騙そうと考えたハルは、ゴーレムでの失敗を教訓にして、細部まで作り込んでいる最中だった。現在の分身体は、ハルそっくりだ。ただし、裸の状態ではと付け加えなければいけない。
密造酒組織の拠点前で、ハルは仮面部分だけを急造したが、服は間に合わなかったのだ。
「きゃああああぁぁぁ! 変態ぃぃぃ!」
イヴの隣に立っていたシャロンは、座った状態で部屋の隅まで逃げていく。彼女もまた、頭が分身体のある部分と同じ高さになっていた。
精が尽きるまで走るだけの分身体は、シャロンやイヴ達に全力で向かって行く。
(この隙っ! この隙に脱出を!)
術も透過してしまう分身体を前に、その場の兵士達は混乱してしまう。その間を縫って、ハルは逃げ出そうと考えたのだ。
「ぬぅん!」
ハルの思惑は、イヴの父によって阻まれた。本体だけが服を着ている事に気が付いた騎士団長は、的確にハルへと槍の先を向ける。
(ち……ちくしょう! ええい! くそ! プランBだっ!)
「待て! この変質者め! 続け!」
梯子の前まで戻ったハルは、そのまま上へと昇り始めた。それを見た騎士団長は、素晴らしい反射速度でハルへと手を伸ばす。
(ぎゃああああぁぁぁ! ちくしょう!)
ズボンのすそを掴まれたハルは、靴を履いていないと思い出す。上着をメダルに戻したハルは、ベルトを外してズボンから自分の下半身を引き抜いた。そして、下着を丸出しの状態で、梯子を上っていく。
「待てえええぇぇぇいっ! 逃がすか!」
狭い部屋の中で、まさに袋の鼠となったハルだが、魔方陣を出して迷わずに光が漏れる壁へとぶつける。
「きゃあああああぁぁぁぁ!」
絹を裂くような女性の悲鳴が、公衆浴場内全てに響き渡る。
(あははははぁ! 俺が悪いんじゃないだぁ! そう! 全ては……おっと、いい形。あ、あの子かわいい)
公衆浴場の壁に大穴を開けたハルは、全力で走りながらも脳内のフィルムを交換して、目の前の光景を焼き付けていく。信じられない状況だろうが、狂っているせいかハルの脳は活動を止めない。かなり間違えた方向へ、全力でだ。
「ぬう! くっ! 申し訳ない! これも、仕事なんだ! すまない!」
「うわああぁぁ! すみません! すみません!」
ハルの後を追おうとした騎士団長や兵達は、躊躇してしまうが後戻りも出来ず、そのまま浴室を突っ切っていく。
(くそぅ! やっぱり来たか! ならば! 禁断のこの技だっ! 全速! 脱衣!)
脱衣所に入ると同時に、ハルは着衣を全て脱いで魔方陣の中へと投げ込んだ。そして、先程よりも多く魔方陣を作り、分身体として解き放つ。
「なっ! どれだ!」
「ええい! 追いかけろ! 全て追いかけるんだ!」
壁すらもすり抜けてしまう分身体達は、街中へと全力では走り出してしまう。裸の男性が全力疾走して行くのを見て、驚いた通りを歩く者達は悲鳴を上げる。馬鹿馬鹿しいが、軽い地獄絵図ではあった。
「はぁはぁはぁ……」
「大丈夫ですか? 姫様?」
騎士団長達からかなり遅れて、イヴとシャロンが番台の隣を抜け、まだ悲鳴が聞こえる街中を見つめる。その二人に、声をかけた男がいた。
「どうしたんですかぁ? 何があったんです?」
「うっ! お前……なんて恰好……まあ、仕方ないか」
腰にタオルを巻いただけの姿になったハルは、男性用浴場から騒ぎで出てきた男達に紛れて、首をかしげている。あえて、二人に声をかけたのは、アリバイを作る為だ。
「貴方! 今日はどうしたんですか! 配給の日なんですよ?」
「あの……すみません。川に落ちちゃいまして……。増水してて、その……」
ハルから赤くした顔をそむけながらも、シャロンは文句を口にする。それを、イヴは不思議そうに見つめていた。二人の関係をイヴはまだ知らないのだから、当然だろう。
「もういいです! 話はまた今度!」
「あ、姫様! お待ちを!」
兵士達と走っていくシャロンの背中を見ながら、ハルは額の汗を拭う。その手には、まだグローブがはまったままだ。
(はぁぁぁぁぁぁぁぁ………。なんとか……なったぁぁぁぁぁぁ……)
それ以降、仮面をつけた自分が指名手配されるだけでなく、変態と囁かれる事を彼はまだ知らない。逃げるためとはいえ、裸の分身体を走り抜けさせたのだから、それぐらいは気付くべきだったのだろう。
「はぁぁぁ……。どこに行っても、裸の変態。はぁぁ……」
大変な変態が町に現れてから数日後、ハルは地下で一人うなだれる。どこへ行っても、自分の悪口が聞こえてくるからだ。
「マジで……やってらんねぇなぁ……。うん? 精の流れ? うわっ!」
地下の遺跡の中でも、一番古いと思われる場所をハルは探っていた。そのハルの前にあった壁が、術の力で崩れる。勿論、ハルは術など使っていない。
(なんだ、こりゃ? すげぇ精だ……。え? まさか、大当たり?)
壁の先にあった空洞の中心には、不思議な文字が刻まれた六角形のオベリスクを思い出させる柱があった。その柱からは、ハルが今まで感じた事がないほど強い力が漏れ出している。
ハルがそこにたどり着いたのは、ただの偶然ではなく運命なのかもしれない。変態として指名手配されたのと同様に。




