11.笑顔を消してしまう者
聖都に雨が降る。激しい雨が降り注ぐ雨季を迎えた平原とは違い、ハルベリアの雨は静かな物だ。ハルベリアと平原は小さいとはいえ、山脈に隔てられているのだから、天候が違っても不思議はない。
ただ、その二つは同じ地方といえる距離しか離れておらず、雨が多い時期と少ない時期は似通っており、降り方が少し違うだけだ。
一週間の半分以上も雨が降るその時期は、町全体の気温が下がり、出歩く者も少なくなる。だからと言って、人々がただ屋内で降り止むのを待つかと聞かれれば、そうではないと答えなければいけない。
日頃の日よけを雨水除けに転用した露店は変わらず営業しているし、農業を営む者達はフードをかぶって畑に出ている。その時期以外は、雨が降れば休んでいる大工等の土木関係を仕事にしている者達も、各家の雨漏りを直す為に働いていた。自分達が国を支えているという意識が強いゼノビアの国民は、皆働き者のようだ。
「このっ! このっ! このっ! このっ! このっ! こんのおおおぉぉぉ!」
聖都の住民達以上に働く者が、雨水の流れ込む地下にいた。鉄製のヘルメットをかぶり、スコップを背負ってツルハシを振り下ろすその男は、ハルだ。
「よし……。ふぅぅぅ。開通」
(なんか……。こんなシーンを、脱獄する映画で見たような気がする……)
泥で汚れた顔を首にかけたタオルで拭く彼の原動力は、愛国心などではなく人より強いらしい我欲だ。古代の宝を手に入れようとしているハルは、人知れず地下を整備していた。
(元々水は流れ出すようになってたから、これだけ広げれば十分だな。大よその見取り図も完成したし……。後は、必要なとこだけ固めちまえば、次に移れる)
流れ込む雨水の水路を整備し終えた地下道は、耐えられないほどの腐敗臭がかなり薄まっている。長時間そこに居る為に、ハルが故意的に水を術で操作して地下道全体を洗い流したせいだろう。
「ふぅぅ……。苦節一週間……。俺もやれば出来るじゃん」
ランタンの隣に置いていたザックから竹筒を取り出し、両手を洗い流したハルは、胸を張って誇らしげにかび臭い地下道を一望する。その場所が綺麗か汚いかは、今の彼にとってどうでもいい事なのだろう。
「さて、もういい時間だ。固めてしまうか」
右手にグルーブをはめたハルは、空中に小さな魔方陣を五つほど発生させる。そして、見取り図で何度も確かめながら、目的の位置へとそれをフリスビーのように投げつけた。
魔方陣は所定の位置で直径一メートルほどに広がり、少し強く光った後、地面に染み込むように消えていく。
魔方陣の消えた地面が振動して盛り上がり始め、見る間に硬い土柱を天井まで伸ばした。その土柱達は天井まで伸びきると横幅を広げて行き、地下に新たな壁を形成する。
(よし。次は……。ここと……ここと、ここだ)
土を高圧縮して作った分厚く硬い壁を満足そうに叩いたハルは、更に魔方陣を空中に出現させた。それをまた、見取り図で確認した位置に投げつけ、地下道を別物に作り変えていく。
「これぐらいでいいのか? もう、大丈夫だとは思うけど。どうすっかなぁ……。ま、いいや。固めちまえ。生き埋めはごめんだ」
建築等の知識が少ないハルは、やり過ぎといえるほど地下道を硬い壁で補強していく。その地下道倒壊を恐れるハルの行動は、意図せず町の地盤を強くしていた。
(もういいや! めんどくせぇ! ここ全部補強しとけば、崩れるはずがない!)
考えるのが億劫になったハルは、自分に必要な数本のルート以外を、壁や柱で埋め尽くす。それ以降、ハルベリアの道路が陥没する事はほぼなくなった。彼の臆病さも、人の役に立つ事はあるようだ。
地下に出来た土柱の森の中で、ハルは満足したように幾度かうなずいた。そして、スコップやヘルメットを先ほどとは別の魔方陣の中へ押し込み、地上へと向かって歩き出す。
(さあっ! ちょっと休憩して、次の商売だ! くけけ……)
上機嫌で自分の整備した道を進んだハルは、地下の端へと到着した。そして、周囲と色が違う新しい壁の前に立ち、それを足で蹴破る。
土の壁を蹴破った先は、町の外にある森に囲まれた絶壁だ。術の実験も兼ねて、ハルは自分の使いやすい出入り口をわざわざ新しく作ってしまっていたのだ。
「これでよしっと!」
術によって出入り口にカムフラージュ用の薄い壁を作り終えたハルは、現在の自宅である宿舎へ向かって歩き出す。その彼が傘をささないのは、雨で体についた泥を落そうとしているかららしい。
(さってとぉ。今日はいいのが手に入ると良いなぁ。ふへへ)
「へくしょん!」
ずぶ濡れになりながらも、鼻歌混じりで帰宅するハルを言い表すならば、豪放磊落よりも考えなしが適切なのかもしれない。
ハルが今住んでいる異邦人用の宿舎は木造の部分も多いが、鉄骨やコンクリートが取り入れられた、かなり近代的なアパートと呼んでいい建物だ。異邦人の建築家と大工が手を組み、最近完成させた試作的な集合住宅。それを作らせたのは、シャロン達だ。
森や山に妖魔達がいるせいで、町を広げられる大きさに限りがあり、その対策として集合住宅を試験的に作ったらしい。古くなった城をビルに建て替えたのも、その一環だ。
宿舎に安く住まわせてもらえる異邦人達は、月に一度住んでみた感想を提出する義務があり、ある意味でモルモットなのだろう。
「ふぅぅ……」
雨に打たれながら宿舎の自室に帰り着いたハルは、汚れた服を脱ぎ捨てて全裸で室内を徘徊する。
(作業用の安物の服は……。うん。買い直そう。どうせすぐ、ぼろぼろになるしねぇ)
汚れ物が溜まったかごの中を見つめたハルだったが、洗濯は得意ではないらしく、視線を逸らして次の行動に移る。
ハルの住む四畳二間の狭い一階の部屋には、キッチンとトイレはあっても風呂はない。試験的に色々な種類の部屋がその宿舎には作られており、その中でハルが選んだのは一番グレードが低い所だ。彼は眠るだけの場所に、お金を掛けたくなかったのだろう。
(さてと、またどうせ汚れるし……。公衆浴場は後でいいや)
乾いてはいるが、ろくに畳みもしなかったせいで皺だらけの服を着たハルは、背嚢を背負って玄関を出る。今度はちゃんと傘を差して、次の仕事場に向かうようだ。
元の世界にどうしても帰りたいらしい彼は、生き抜くために金と力を誰よりも求めて、精力的に活動を続けている。
「どうぞ。あの……姫様? どうかなさいましたでしょうか?」
食事の配給を終えたシャロンにタオルを差し出した侍女は、相手がそのタオルを受け取らなかった為、問いかけていた。
「あ……ごめんなさい。ありがとう」
シャロンはタオルを受け取って濡れた髪を拭きながら、尚も食事をとる者達を見つめる。それは、彼女が住民達の小さな変化に気が付いたからだ。
「ねぇ? リリー……。何か変わったと思いませんか? 特に子供達」
調理機材を片付けていた侍女は手を止め、目を細めた。その視線の先には、雨よけとして仮設されたテントの下で、身を寄せ合って食事をとる子供達がいる。
「はぁ……。私には、いつもと変わらないように見えますが……」
心のどこかでその地区の住民達を見下している侍女や兵士達ではなく、シャロンが逸早く気が付いたのは必然なのだろう。
「そう……でしょうか。子供達の血色がいいような……。皆、仲良くなっているように思えますし、この寒い時期はもっと……」
「よく分かりませんが……。いい事ではないでしょうか? 姫様の努力が実を結んだといえると思います」
(そいやっ!)
不思議そうに首を傾げたシャロンだったが、別の事に気が付いてその綺麗な目を吊り上げる。
「何をしていらっしゃるのかしら? 貴方は」
早足でテントから出たシャロンが、こめかみに青筋を立てて見下ろしているのは、石畳の上に倒れ込んでいるハルだ。
(やべっ! 配給終わってたのかよ! 見つかった! くそ……嘘は……つける状況じゃないか……くぅ)
「えと……ですね。これは……ドロップキックというですね。見た目が派手でそんなに痛くない技でぇっ! すみません! 勘弁してください!」
シャロンが片手をあげると、後ろについて来ていた兵士達が、ハルに槍の先を向ける。握っていた傘を手放したハルは、寝転んだまま両手を上げていた。
(ちきしょう! 地味なローキックにしとけばよかった!)
雨からシャロンを守ろうと傘を持ってテントを出た侍女よりも早く、幾人かの子供がハルの前に駆け寄る。
自分の分を食べ終えた男性が、高齢の女性から食事を奪い取ろうとしていたのを、ハルは力で阻止した。彼がそれを選択したのは、問題の男性が何度注意されても止めないからだ。子供達はそれを見ていた為、シャロンを止めようとした。
「姫様! 違っいぐっ!」
事情を説明しようとした子供の口を、ハルは急いで後ろから押さえ、喋れないようにしてしまう。
「馬鹿か、お前等。あの男に逆恨みされるぞ。黙って、下がってろよ」
ハルに耳元で囁かれた子供達は、恐る恐る先程蹴り飛ばされた男性を見て、俯いたまま下がっていく。大人達から酷い目に合わされる事の多かった子供達は、悔しいと思っているようだが、ハルの言葉に従う。彼等にとって大人は、信頼出来ない恐怖の対象なのだから仕方のない事だ。
シャロンは、蹴り飛ばされた男性を助け起こした。そして、ハルを厭味ったらしく見下ろしたその男性に、笑いかける。
「何が嬉しいのかは存じ上げませんが、次も同じことをするのであれば、配給について考えさせていただきますので……。そのつもりで」
笑顔になりながらも、青筋を消さないシャロンに気圧された男性は、すごすごと引き下がっていく。
(み……見てたのかよ! なら、槍を向けさせるってどういう理由? 頭おかしいの?)
逃げていく男性を見送り終えたシャロンは、ハルへと顔を向ける。当然ながら、その彼女は作り笑顔を消して、青筋を維持したままだ。
「貴方という人は……。何度言えば分るんですか! 立場の弱い方に手を上げてはいけません! 口があるのだから、口で言いなさい! 何度でもです!」
(おまっ! 俺にはすぐ槍向けさせてるじゃねぇか! これ刺されたら、俺死んじゃうんだぞ! って言ったら、マジで刺されるよねぇ)
悲しそうに眉を下げたハルは、命の為にあっさりとプライドを投げ捨て、謝罪を口にする。
「以後……気を付けます。申し訳ございません」
「本当に……。お願いしますからねっ!」
フード付きのコートを着た男性が、二人を不思議そうに見つめていた。その異邦人が作った天然ゴムでコーティングされたコートを着ているのは、用事でその場を離れていたアルバートだ。
「やはりハルさんは……他の方と違うんでしょうかねぇ」
アルバートが疑問を持っても仕方がないだろう。日頃のシャロンは、気が強くはあるのだが、立場上の事もあって不用意に怒りを面に出さない。ハルと出会った時は異常事態だった為、シャロンも多少いつもと違うのは当然だろうとアルバートは考えた。
だが、ハルが配給の手伝いに来るようになってからシャロンは、彼に対してだけよく怒りを顔へ出すようになっている。アルバートはそれをシャロンが気を許した証だろうと推測し、侍女や兵達はハルが余りにも不出来なのだろうと考えていた。どちらが正解かは、まだ当人であるシャロンも分かっていないようだ。
「はぁぁ……。あら? 戻っていましたか、アルバート。いかがでした?」
数人の兵士を引き連れて配給品を配ってきたアルバートは、少し戻りが遅くなった。それは、その地区の崩れた箇所が増えていないかをチェックしてきたからだ。
「はい。朗報です。新たな陥没は見つかりませんでした。もしかすると、弱っていた部分はもう全て崩れ落ちた可能性があります」
地図を広げて笑うアルバートと違い、シャロンはどこか納得のいっていない表情を作っていた。八年前に来た異邦人のアルバートと違って、小さい頃から道が徐々に崩れるのを見てきたシャロンは、楽観的には捉えられないらしい。
「大きく倒壊する前触れでなければいいのですが……」
シャロンの心配は、ハルに建築の知識がなかったおかげで杞憂に終わる事になる。
だが、その事は、ハル本人ですらまだ理解できていない。
(言って分からん奴には……アックスボンバー!)
「最近、酔って道端で寝ている者が増えているのも気になりますし……。ああ! また! 何をしているんですか! 貴方は!」
他人の配給品を盗んで逃げようとした者が、先回りをしたハルに薙ぎ倒され、顔を赤くしたシャロンがテントから飛び出す。
「もっとクールなイメージでしたが、会うたび……。いえ、会話をするたびに印象が変わる。どこからどこまでが、本当で嘘なんでしょうかねぇ」
勘弁して欲しいと言った表情でシャロンに続く侍女や兵達と違い、アルバートは槍に包囲されて両手を上げたハルを、テントの下から見つめ続ける。その顔からは、いつもの優しい笑顔が消えていた。
その日の配給が終わり、日当を受け取ったハルがシャロン達の前から消えて半時間が経過する。汚れた服を着た子供達が、周囲をきょろきょろと警戒しながら、一軒の空家へと向かっていく。
その普通にしか見えない空家の裏には、大人一人が匍匐してぎりぎり通れる穴が開いていた。子供達は皆、開かなくなっている正面出入り口ではなく、その裏口から中へと入っていく。
「見られてない?」
空家の中には暗幕が張られており、その前には一週間ほど前に死にかけていたメルが待ち構えていた。
「うん。大丈夫」
少年からの確認を取ったメルは、暗幕を素早く上げて中へと通す。そして、明かりがあまり漏れ出さないように素早く閉める。
「うわっ。今日は皆早いなぁ」
内部から密閉され、暗幕で光が漏れないようになっている空家の中には、すでに大勢の子供達が座っていた。その中心に置かれたランタンの前には、薄ら笑いを浮かべたハルが座っている。勿論、その怪しい場所を作った黒幕は、ハルだ。
(こっちはガラス片……これは……純度が低すぎる……これもガラスっと)
子供達がハルの前に差し出しているのは、カラフルなガラス片に見えるが、そのほとんどは精結晶だ。今ハルは、その結晶の鑑定を行っている。
「ほれ。次」
ガラス片と使えない精を弾いたハルは、その場で子供に硬貨を渡す。嬉しそうにお金を受け取った子供は部屋の隅に移動して、鑑定が終わった後に開かれるハルの店を待つ。
ハルは背嚢につめて子供達が欲しがるであろう、食料や日用雑貨品等を持ってきているが、買い取りは硬貨で行う。そうすれば、鑑定が早く済ませられる上に、物ではなくお金が欲しい子供から文句が出ないからだ。
(これもガラス片だ。しっかし……ガラス多いな。ここで核戦争でもやらかしたのか?)
なんの利益もなくハルが、瀕死の少女に初回サービスなどするはずもない。メルを介抱して薬まで飲ませる間に、彼女を起点として新しい商売を立ち上げようと仕組みを考え出していたのだ。
大人を相手にすると、どうしてもその地区にいる非合法な組織が出てくると考えたハルは、商売相手を子供だけに限定する事を思いつく。その顧客となる子供達を、メルに秘密さえ守ればいいバイトがあると口コミで集めさせたのだ。
地面を少し掘れば出てくる、ハル以外の者にはあまり価値のない精結晶を集まるだけでいいのだから、子供達はそれに飛びついた。そして、そのバイト先を失いたくないと考え、秘密をお互いに監視し合うように守っている。
ハルにとっていい意味で誤算だったのは、その地区の子供達が大人に強い不信感を抱いていた事だ。その子供達は秘密を共有した子供達だけで、固く結びついた。そのおかげで情報が外に漏れる事もなく、子供達による奪い合いや争いがほぼなくなった。
利益が絡めば、脊髄反射的に色々と閃いてしまうハルは、実はシャロン達も利用している。彼が嫌々ながらも配給の手伝いをしているのは、その子供達との商売を成り立たせ、宝を掘り出す為だ。
配給を手伝う事で、決まった日に子供達と取引が出来、その地区に足を頻繁に踏み入れても不審に思われない。更に、地下へ潜って収益が得られない分を、シャロンからの日当で相殺しているのだ。これならハルは、自分以外に価値があまりない精を買い取りつつ、溜めたお金を減らさないで済む。
これは、精をそのまま術に利用できるハルならではの、商売といえるだろう。精結晶を溜め込めば、力そのものが増していくに等しいハルは、最小限の労力で済むと怪しく笑っている。
(ガラス……精……ガラス……ガラス……宝石……じ……うん?)
子供達に持って帰ってもいいと言ってある、ガラス片や純度の低い精を入れる袋に、ハルは急いで手を差し込む。そして、取り出した緑色の輝く欠片を、ランタンの光にかざして凝視する。
(なんか! 凄いの混じってた! これ……よく分からんが、宝石じゃねぇか? え? 普通に価値があるんじゃないの?)
「これ……町に持って行っても、多分売れるぞ。どうする? 俺はこれのレートがいまいち分からんのだが……」
ハルの前にしゃがんでいる少女は、垂れている鼻水を服の袖で拭い、少しの間不思議そうに眺めた後、笑いかけた。
「へへぇ。買って。あちし、白いパン、食べるの」
(やべぇ……。こいつも話を聞かない系か。てか、これが俺のいた世界と同じレートなら、腹が張り裂けるほど食えるぞ)
「あのなぁ、くそガキよ。これは……」
溜息をついて頭を掻き毟ったハルは、なんとか笑ったままの少女に分からせようと口を開いた。
しかし、その少女ではなく、暗幕の前に立っている子供達の中では比較的年長の少年が、返事をする。
「そいつに説明しても、分からないさ。金の計算もまだ出来ないしな。あんたのいい値で買ってやってくれ」
「いや、でもよぉ。俺は……」
困った表情を作るハルは、少年に向き直って口を開くが、相手からの強い言葉で自分の言葉をさえぎられてしまう。
「どうせ俺達が町に持って行っても、泥棒だと騒がれるか、安く買いたたかれるかだ。だから、俺達は大人を信用してねぇ。だが、あんたは信用できる。買ってやってくれ」
周囲の子供達から一斉に笑顔を向けられたハルは、首を振って大きく息を吐く。そして、少しだけ施設にいた子供時代の自分と彼等を照らし合わせた。
「ただの商売だっつてるだろうが。俺を含めて、大人は信用するな。痛い目に合わされるぞ。いいな。はぁ……これは手付けだけ渡して、預かるぞ? 差分が出たら今度渡す」
もう一度垂れてきた鼻水を拭いた少女は、よく分かっていないようだが乳歯の抜けた口を大きく開いて笑い、ハルに頷いて見せる。
メルと年長の少年も、差分を渡すといったハルがおかしかったのか、笑い合っていた。一週間ほど前にメルから食料を奪ったのは、その少年と仲間なのだが、二人の関係はいつの間にか良好になっているようだ。
(何がそんなに面白いんだかねぇ。けっ……)
その場を居心地が悪いと感じたハルは、先程までの怪しい笑みを消して鑑定作業に戻る。それからしばらく、ハルは作り笑顔さえ出せなかった。とある出来事のせいで、彼は心の大事な部品を失っているからだろう。
「並べ。いいな。順番を守らないと、今日はデコピン二発だ。後、大きな声を出してもだ。さて……さあ、買ってくれ。今日は燻製肉もあるぞ」
精の換金が全て済むと、ハルは胸の前で手を叩き、作り笑顔で次の商売を始める。すでにハルの前で列を作っていた目を輝かせる子供達は、並べられた商品をハルにもらったお金で買っていく。
「ぼっ……僕、卵。欲しい。買える?」
「パン。パンを下さい。買えるだけでいいです。買えるだけ……」
子供達は精をハルのレートで売ったのだから、十分な数の食料や日用品を手に出来る。
「落ち着け、この野郎。声がでかくなってるぞ。後、出る時は一度に三人までだ。目立つからな。あ、そこのガキ。食料は袋に隠せ。取られちまうぞ」
ハルの秘密の商売は、出入りの管理をしてもらったメルと年長の少年に駄賃として小銭を渡し、その日も終了した。
「お兄ちゃん。ありがとう」
「あ、そういうのはいらない。じゃあ、また配給の日にな。精集めといてくれよ」
背嚢を背負って傘を差したハルは、メルに見送られながら大通りをゆっくりと去っていく。
(酔っ払いが多いなぁ。やっぱ、雨で皆暇なんだなぁ)
その日の予定をほとんど消化し終えたハルは、町の最端にある地区から出てすぐの商店街へと向かう。そこは、貴族達やその使用人が通う場所で、今のハルが浮いてしまうほどに通行人の身なりが整っている。
「おっ。待ってたぞぉ」
店に入って来たハルを、雑貨品店の店主は笑顔で迎えた。客ではないハルを店主が何故笑顔で迎えるかといえば、利益を運んでくるからだ。
「どうですか? なかなかいいでしょ?」
(てか、売れるのは実証済みだもんねぇ)
ハルはその店に、作った秘薬を下している。商店街の中でその店の店主だけが、使用方法等をきちんと提示して、利益を妥当な額しか上乗せしないと約束してくれたからだ。
「おう。気が付きゃ、今じゃうちで一番の売れ筋商品だ。姫様や貴族様まで直接買いに来て下さる。約束通り、試用期間は今日まででいいぞ」
店主は硬貨の詰まった布袋をハルに渡した。そして、売れた分だけの原価支払いだった試用期間を終了し、今後は買い取り方式にすると約束した。店主も十分な金への欲は持っているようだが、商売に必要な最低限のマナーは守ろうとしているようだ。
「その代りだ。次から、もう少し多く下してくれよ。見てくれ、一昨日箱一杯だったのが、もうこれだ」
店主がカウンターの上に置いた木箱には、薬が数えるほどしか残っていない。それは、ハルが宝探しに現を抜かした証明でもある。
「こりゃ……思った以上に売れましたね。了解です。明日の夕方までには、持ってきます」
「そうしてくれると助かる。しかし……お前、泥だらけでくせぇぞ。ちゃんと、風呂に入ってるか?」
(でしょうねぇ。地下って、ましになったけどまだくせぇもん。風呂には毎日入ってるんだけどねぇ)
色々と勘繰られたくないらしいハルは、答えをはぐらかし、店主に頭を下げてから店を出た。そして、いつものごとく金の入った布袋を見つめて、難しい顔をする。
(三日分とはいえ……。なんと驚く事に! なかなかの額が今俺の手の中に! 公衆浴場には、今から行く。なら! ならばこそ! 女性ときゃっきゃ、うふふと同じ湯船に……)
南の繁華街へ向けようとした足を、ハルは急いで百八十度違う逆方向へと向ける。
(ちくしょう! 神か悪魔が、行くなって言ってやがる! ちくしょう! 俺の根性なし! くそおおぉぉ!)
ハルの視線の先には、巡回中のイヴと部下達がいた。彼女達に見つかりたくないハルは、商店街のはずれにある公衆浴場へと逃げ込む。
彼が夜の店もとい、女性と深い関係になる為には、トラウマを乗り越えてヘタレた根性をどうにかする必要があるだろう。その事は、本人も薄々は気付いているようだ。




