64.我慢の限界
「……全く、本当に君はどうしようもない子だね」
施してくれている治癒術の優しい光とはかけ離れた怒りに歪んだ形相で、エドワルド様は深い溜息を吐いた。
「すみません。でも、違うんです」
「何がどう違うんだい。部屋を飛び出して、立ち入り禁止区域になっている城の修繕現場に入り込んだ挙句、二階分の高さから飛び降りたんだからね」
さあ、次はそっちの手だよ、と促されて、酷い擦り傷を負った左手を差し出しながら訂正する。
「飛び降りたんじゃなくて、落ちてしまっただけなんです。わざとじゃないんです。それに、積み上げた建材の上に落ちたので、実際にはそれほどの高さはなかったんです……」
「その後、そこから更に下まで転がり落ちたんだから、同じことだよ」
エドワルド様はニッコリと笑顔を作る。その笑顔はまるで般若のお面のようで、強い口調も相まって、どれだけエドワルド様が怒っているか思い知らされた。
ほぼ二階分の高さから落ちた私は、セメントの砂のような建材を人の背丈ほどの高さに積み重ねていた場所に運よく落ちたお蔭で、幸いにも命に別状はなかった。その代わり、その建材の山に落ちた後、衝撃で更にそこから下に転がり落ちてしまった。その落ちた先が工具置場だったせいで、いろいろ痛い目に遭ってしまったのだった。
駆けつけてくれた人達にすぐに助け出されたものの、作業員さん達には好奇の目で見られるし、アンジェさんは気絶してしまうし、フレアさんは蒼白な顔で震えているばかりだし、自分だって好き好んでこんな状況になった訳じゃなかったのに、と思うと悔しさと痛みでボロボロと泣いてしまった。
……で、怪我人の治癒依頼を受けて駆けつけてきたエドワルドさんに説教され、どうしようもない子だなんて言われて、凹みながらも言い訳をしている。情けないことに、ぐしゅぐしゅ泣きながらだけれど。でも、ちゃんと誤解を解いておかないと、またいい噂のネタにされてしまう。
その頃には、駆け付けて来た衛兵達によって作業員さん達は遠くへ押しやられ、監督者のような人の指示で作業に戻っている。そして、フレアさんは、気絶して運ばれて行ったアンジェさんに付き添って姿を消していた。
怪我の治癒が終わると、エドワルド様はついていた片膝の汚れを払いながら立ち上がった。
「それで、どうしてこんな馬鹿な真似をしたんだい?」
「ですから、本当に飛び降りたんじゃなくて、風に煽られて、うっかり足を踏み外してしまっただけなんです」
「じゃあ、何故、あんなところにいたんだい」
エドワルド様が、私が落ちた場所を見上げて目を細める。童顔で柔和ないつものエドワルド様とは少し違い、今は厳しい大人の表情をしていた。
「リナ?」
言いなさい、と促すように名を呼ばれて、仕方なく本当のことを話す。
「アデルハイドさんを、追いかけようとしていたんです」
すると、エドワルド様は目を丸くした。
「何故そんなことを。何か言い忘れたか、渡し忘れたものでもあったのかい?」
……言い忘れたも渡し忘れたもない。だって、アデルハイドさんは、私の所へ来てくれなかったんだから。
不意に、鼻の奥がキュンと痛んで、胸の奥から感情が込み上げてきて溢れた。
「リナ。どうし……」
「……エドワルド様あぁ」
そして、私はしゃくり上げつつ、涙ながらに全て話した。
アデルハイドさんへの気持ちに気付いたこと。一緒にテナリオへ連れて行って欲しいと言って断られたこと。リザヴェント様に婚約解消をしないと言われ、侍女さん達に部屋から出して貰えなかったこと。そして、その間アデルハイドさんは私に一度も会いに来ないままで、しかも知らないうちに城を出て行ってしまったこと……。
「なるほど。……で、その格好で部屋を飛び出して、城下へ降りたアデルハイドに追いつけるとでも思ったのかい? まず、西門を突破する前に、誰かに取り押さえられていると思うけどね」
あ、でも、城から出ようとしているのに、あんな所に迷い込んでいるようでは、まず西門まで辿り着けそうにもないね、とエドワルド様に呆れたような視線を向けられ、恥ずかしさと悔しさで止まりかけていた涙が再び溢れる。
エドワルド様の言う事はいちいち尤もで、返す言葉もない。でも、そんな意地悪な言い方をしなくてもいいのに。
「それで、アデルハイドを追いかけてどうするつもりだったんだい? まさか、縋りついてでもテナリオへ連れて行ってもらうつもり?」
「それは……」
そうできるものならそうしたい。でも、そんなことをしてもアデルハイドさんの迷惑になるだけだ。
そう自分に言い聞かせて、力なく首を横に振って我儘な自分の気持ちに蓋をする。
「……最後に、ちゃんと会ってお別れが言いたいんです」
そう答えると、エドワルド様は数秒の沈黙の後、深い溜息を吐いた。
「行動には問題ありだけれど、リナの言うことは間違っていないよ。どんな理由があってアデルハイドがリナに会わずに行ってしまったのかは分からないけれど、仲間なんだから直接別れの挨拶ぐらいするべきだ。彼がしたことは間違っている」
まさかそんな風に肯定して貰えるとは思っていなかったので、思わず涙が滲み出てきそうなくらいホッとした。
「ですよね。私だって、アデルハイドさんにこれまでのお礼もちゃんと言いたかったのに」
目尻に溜まった涙を拭いながら見上げると、エドワルド様は少し思案するようにじっとこちらを見下ろした後、小さく溜息を吐いた。
「そうだね。……じゃあ、僕が君の願いを叶えてあげようか」
「えっ……」
思ってもみない言葉に戸惑う私に、エドワルド様は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「その代わり、僕と約束してほしい」
――そうして私は、エドワルド様とある約束を交わした。
エドワルド様の手を借りて、腰を下ろしていた角材から立ち上がった時だった。
ザワッと作業員達がざわめき、人波が割れる。その向こうから軍靴を鳴らして駆け寄ってきたのは、数人の騎士を従えたファリス様だった。
「リナ……!」
そのままラリアットでも食らわされるんじゃないか、という勢いで近づいてきたファリス様に慄いていると、エドワルド様が自然に一歩前に出て、私を背に庇ってくれた。
「何だ、邪魔するな」
ファリス様の眉間に皺が寄り、一気に不機嫌そうな表情になる。ああ、そんな顔をしたら、爽やかイケメンが台無しですよ!
「邪魔する? 何の事だい?」
シラッと言い放ったエドワルド様は、チラッと私の方を振り返った。
「それより、君も聞いただろう? リナが何を仕出かしたか」
「ああ。知らせを聞いて駆けつけてきた。まさかとは思ったが、本当だったとは」
若干青褪めたファリス様は、見ていて身の危険を感じるような目でエドワルド様越しに私の方を見つめている。
「一体、誰がリナをここまで追い詰めたんだろうね」
背後にいるから表情までは分からないけれど、これまで聞いたこともないくらいエドワルド様の声は不穏なものだった。
「追い詰めた、だと?」
訝しげに眉を顰めたファリス様は、エドワルド様の背後に庇われている私の方に回り込もうと立ち位置をずらす。それを阻止しようとしてか、エドワルド様は微妙に体の向きを変えた。
「リナは、これまでどんな状況を強いられても、全て受け入れ努力してくれた。でも、さすがに我慢の限界だったんだろうね。もう、リナの好きなようにさせてあげるべきじゃないのか? ……でないと、今度はどんなことを仕出かすか」
エドワルド様が、チラッと私が落ちてきた建物を見上げる。その視線を追ったファリス様の表情が更に険しくなる。
「そうなのか? リナ」
真剣な顔で、悲しげにそう訊ねてくるファリス様。
思わず、「違いますよ」と答えそうになって、必死に言葉を飲み込んだ。
今回、自分のとった行動に、実は自分が一番驚いていた。エドワルド様の言う通り、私は自分でも気付かないうちに、我慢の限界を超えていたのかも知れない。それは、アデルハイドさんのことだけじゃなくて、この世界に来てからの色んなストレスが積み重なったせいもあるんだろうと思う。
小さく頷くと、それが見えたのか、ファリス様がクッと息を詰めるのが聞こえてきた。
「……しかし、身の安全を考えると、リナの望みを全て叶えてやるという訳にはいかんぞ」
胸の前で腕を組み、考え込むように唸るファリス様。すると、エドワルド様は私の背に腕を回して、そっとファリス様の前に押し出した。
「心配する必要はないよ。リナはただ、アデルハイドに直接会って、別れを言いたいだけなんだそうだから」
「何?」
ファリス様は、私の顔を見ながら何度も目を瞬かせた。
「あいつ、まさかリナに別れの挨拶もせずに出て行ったのか?」
「らしいね」
エドワルド様の答えと共に、私も何度も首を縦に振る。
「何を考えているんだ、あいつは。まさか、リザヴェントに気を遣った訳でもあるまいに」
ファリス様は天を仰いで低く唸り、何か考え込んでいる様子だったけれど、不意に射るような視線をこちらに向けた。
「リナ」
「……っ、はい」
不意に名前を呼ばれて、思わずビクッと肩を揺らす。今度は一体、どうしろと言われるんだろう。自室で謹慎だろうか、それとも、またファリス様の別宅がある地方の領地に移るつもりはないか、とでも言われるんだろうか……。
「お前は本当に、リザヴェントと結婚できなくなってもいいんだな?」
確か、前にも同じことを聞かれた。でも、その時とは違う言葉のニュアンスに違和感を覚える。勿論、結婚するつもりはないのですぐに頷くと、ファリス様は表情を引き締めた。
「エドワルド。リナの怪我はもう完全に治癒しているんだな」
「勿論」
「おい、馬を引け。これから、城下の視察に出る」
突然、ファリス様は後ろを振り返り、私達に気を遣って会話の聞こえない距離を取って待っていた部下の騎士さん達に声を掛けた。
「よし。来い、リナ」
「えっ?」
不意に差し出されたファリス様の手を疑心暗鬼になりつつ見つめていると、「参ったな」と苦笑されてしまった。
「そんなに、俺は信用無いか?」
その言葉に慌てて顔を上げると、ファリス様は眩いばかりの笑みを浮かべ、グイッと私の腕を引くと耳元で囁いた。
「アデルハイドのところへ、連れて行ってやる」




