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砂漠に降る銀の月~花の刻印があるスルタンの妃は盗賊と出会う~  作者: 高瀬さくら


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54.月が満ちる

 首をかしげながらシャーラが後をついていくと、ラズールは途中で手を一度離して、今度は掌を絡めるように握ってくる。


 その指を絡める握り方が、妙に心を落ち着かせなくする。指から伝わる感触が鋭敏で、恥ずかしくて、シャーラは顔を赤くするしかない。


「帝国管理の遺書――つまり遺物の書物に、魔神が都の王になった話があるんだ。その話が、アンタの話に似ている。そこでは、魔神から逃げるための“門”を月の神の神官が託されたとあるんだ」

「それって……」

「ああ。おそらく“門”によってアンタは逃げてきた」


「門、って……それが、ここにあるの?」

「わからない。けれど、満月と水、それが関係あるのかもしれない」


 シャーラが戸惑っていると、ミミズの巣穴の部屋――落とし穴があった空間に連れて行かれる。

 今は地面が閉じているが、この下にたくさんのミミズがいたことを思い出すと、シャーラは身が竦んで、足が動かなくなる。


(それに、ここでは男の人が……亡くなって)


 シャーラの目の前で、床板に挟まって死んだ男がいた。その死体は今も、この地下にあるのだろう。


 不意にラズールが目の前で屈んだと思えば、いきなりシャーラの腰を持ち上げて抱き上げる。小さな叫び声をあげたシャーラは、慌てて彼の首に抱きつくようにしがみつく。

 

 ラズールは喉の奥で笑いを漏らし、シャーラを縦に抱き上げたまま歩き出し、壁の方まで歩んでいく。


「ラズール! 下ろして、歩ける!」

「ん、そうだな」

「ねえ、重いから!!」


「ん。丁度いい」

「丁度って、ね、ねえ!? は、離して」

「この文字、やっぱり俺には低いんだよな」


 ラズールは、シャーラを抱えたまま壁を見つめ、思索を続ける。

 冷静な声、自分ばかりが混乱してる。


「お、重いから、重いから」

「もう少し、肉がついても俺は全然大歓迎。――そして、文字の下の石壁に触れると仕掛けが作動する、か」

「に、肉って」


(ふ、太った方がいいの?  じゃなくて、なんでそんなに平然と!)


「ラズール!」


 ようやく、床に下ろしてくれる。地面にしゃがみ込むシャーラが、混乱と恥ずかしさで顔を両手で隠すと、頭頂部に触れる手。


「少しは気が紛れたか?」


 苦笑する顔が、しゃがんで覗き込んでくる。その近さに、シャーラは別の意味で顔を赤らめた。そしてまた、ラズールがシャーラを気遣ってくれたのだと悟る。


「ラズール、ごめん……なさい」

「気にすんな、この先に一緒に行って、一緒に帰ってこよう、な」


 返事はしなかった。顔をラズールの胸に埋めると、背中をあやすように叩く手。


 ――この距離を、この時を、この感触、思いも全部……覚えておきたい。何があっても。


 体を離したラズールはシャーラを壁の端に立たせて、「待ってろ」と穏やかに言う。

 彼はそこから歩いて、文字のあった壁に向かい合うように立つ。壁を上から眺め、文字に軽く手を触れ、そして一部を押す。

 

 すると、ゆっくりと地面が動き出す。


「最初見たとき、仕掛けを作動させる石壁が随分低いところにあると思ったんだ」


 ラズールが歩んできて、シャーラの横に立つ。シャーラが落とし穴に怯えているとわかっているからか、すぐそばから離れないでいてくれるのだろう。


「俺は屈まないとそこを押せない。けれど、シャーラ。アンタがちょうど手を伸ばしたところにあるだろ? 月の神の神殿の神官は、代々女が務める。つまり、仕掛けは神官が作動させていたんだ」

「落とし穴を? どうして……」


 地面に開ききった穴は、ただ虚ろで何も出てくる様子がない。ラズールが覗こうとするので、シャーラは思わずその長衣を引っ張って止める。


 「大丈夫だ」と笑って、ラズールはシャーラの手を外させる。

 シャーラが、不安と恥ずかしさを混ぜたような表情で手を下ろすと、彼は安心させるようにシャーラの肩を軽く叩き、軽い足取りで穴の淵に立つ。


「ラズール、気を付けて」


 ラズールが返事のように手を軽く振る。彼は、懐から何かを取り出すと明るく光ったそれを、穴の中に落としてしまう。


「ラズール!」

「平気だ。明かりを投げただけ」


 覗き込むラズールが心配だからシャーラは叫んだのだが、彼は気にした様子もなく戻ってくる。そしてラズールは、シャーラを見て安心させるように笑う、同時に音がして穴が閉じ始める。


「ミミズはよく見えなかった。ただ生物の巨大化は、このあたりの遺物の影響だ。巨大ミミズの増殖も誰かの意図したものじゃなく、遺物の影響なら、この穴は罠じゃない」


 ゴンという音を立てて、目の前に穴は完全に閉まる。


「――昔は、貯水槽だったのかもしれないな」


 ラズールは軽快に、ここでも地面に耳をつけ、床を手でなぞったりしている。 


「貯水槽?」

「ああ、河川の水増しした水量を、調整するためのものだ」

「どういう……こと」


「大河の側に宮殿はあったんだろ。そして神殿には貯水槽。生活用水を貯めていたのかもしれないが、むしろ水量を調節する役目を神官は担っていたんじゃないか。神官は”命の水”であり”清めの水”を管理し、実際は水害も防いでいた」


 ラズールは、ここでも天井を見上げる。この部屋は、天窓はなく、月は見えない。


「たぶん、感潮河川かんちょうかせんだ」

「かん……?」


 何を言われたのかわからず、シャーラが言葉に詰まると、ラズールはもう一度繰り返す。


「調査してないからわからないが、この遺跡の遥か地下には水脈がありそうだ。そして遥かな昔は、このそばに河があったんだろう」

「河が? でもそれが、何の関係があるの……」

「昔、ここは海も近く、河には海水が流れ込んでいた」

「海?」


「海を知らないか? 川よりも大きくて、この地は海に囲まれている」

「見たことないわ。でもすごく大きいものなのね」

「そして、海の水はしょっぱい。ほら結晶化した塩だ」


 ラズールは、シャーラに粉が付いた手袋を見せる。


「以前、ここに水が溜まっていた時は、塩水で飲料水に適さないと判断したんだ。だからここは、砂漠の旅人の水場として使えなかった」


 先ほどラズールは、手袋のまま内壁に触れて、その白いをものを舐めて顔をしかめていた。


「ここにあったのは、月による潮汐ちょうせきの影響を受ける河だった」

「月?」


「ああ。アンタの記憶の神殿の石槽は、並々と水が満たされていたんだろう? たぶん月の神殿は、河の水を引き入れていて、石槽は満潮で水が満たされる仕組みなんだ。水嵩が変わるという不思議な現象を、月の神の恩恵だと人は信じた。その月の神の使いとして、祭事を行っていたんだろ」

「じゃあ、今日も満潮時には槽に水が満たされるの?」

 

 満潮はいつだろうか? シャーラが月を探すように視線をめぐらすが、この部屋からは夜空が見えない。


「いや。前に一晩泊まり込んだ時は、水が出てこなかった。満月の晩という条件に従えば、干満差の激しい大潮の時期というのが重要じゃないかと思う」


「大潮? 門が開くのは、その大潮の満潮じゃないとだめなの?」

「ああ。それに満月というのは、月の神の力が強いだろ? 月の神が関係するなら、その力が強いときに“門”として作動するのかもしれない」


 そう言って黙り込むラズールに、シャーラも同じように口を閉ざす。


(……六日後には、魔神に捕まってしまう)


 けれど、次の満月まではまだ先だ。


「……ちょうど四十日目というのは、新月の時だ。新月の時も大潮だから、魔神はその時にアンタを取り戻しに来るのかもな」

「月の神の加護が受けられない、新月に……」


 シャーラは、ラズールを見上げる。


「ラズール。もし満月の晩に門が開くとして、それはイラムだと思う? それとも、私の逃げてきた場所だと思う?」


 ラズールは黙る。シャーラは自分の考えが、ラズールと同じものだと思い頷いた。


「たぶん私も、逃げてきたところに繋がっていると思う。ただ、私のいた宮殿がイラムと呼ばれる都のことならば、同じことだけど」

「遺書には滅びの都と書かれていた。イラムとは書かれていない」


(イラムじゃないのかもしれない。あの男のもとに……行くための門)


「もし新月になったら、夢の中の男は、どうやって私を捕まえに来るのかしら」


 シャーラが深刻な顔で、震えるこぶしを握り締めてラズールに言うと、彼はシャーラを抱きしめる。耳元に口を寄せて囁く。


「夢ならば、そうだな……俺がアンタを寝かさないっていうのはどうだ? 月が出るまで――三日三晩、な」

「ラ、ラズール!? それって……」


(どういう意味?)



 シャーラが顔を赤くすると、ラズールはそんな顔を見て笑い、ふいに目を細めて口を動かした。「来たな」と一言。


 気配が張りつめたものに変わる。

 

 眇められた目は、冷ややかで殺意さえ宿しているよう。シャーラの肩を壁の方へと押しやる。


「シャーラ。決めた通りにな。――ファリド、頼むぞ」


 シャーラは、背後を気にしながらも走り出す。途端に響く爆音。地面が縦に揺れて、よろけながら振り返ろうとしたが、ファリドに『走れ!』と怒鳴られる。

 

 壁際まで逃げ振り返ると、辺りは噴煙が立ち込め何も見えない。


(ファリド!? ジャファルが来たの?)


 ジャファルが現れたら即座に避難する。それがラズールとの約束だった。


「ラズール、ラズール!! どこっ?」


 煙と瓦礫の合間に二つの人影。打ち鳴らされる金属音、白煙に煌めきが散る。


 シャーラは壁に背中を押し付け、戦いを凝視した。


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