50.葛藤
月が天頂に登る前、猫の鳴き声もまだない。
シャーラは寝台の近くの茶卓を見つめる。
銀の器に盛られた、数々の華やかなお菓子達。
鮮やかな緑色のピスタチオに真っ白な砂糖を絡め金色の麺で鳥の巣を模ったイシュル・アスフール、バラの香りのチーズクリームケーキのハラヴァ。
砕いたナッツをバターたっぷりのフィロ生地で挟んでバラの香りのたっぷりのシロップをかけたヴァクラバ、ピスタチオとクリームのお菓子のマドルーカ。
全部ラズールが名前を教えてくれた。
青と赤と緑の鮮やかなアラベスク模様の陶器の器には、レモンの砂糖漬けにマルメロ、干しブドウにリンゴ。
どれもおいしそうなのに、胸にナッツがつかえてしまい、ようやく菓子をひとつ喉の奥に流しこんだシャーラは、それでもむせてしまいそれ以上食べられなかった。
ラズールは何も言わずに優しく頭を撫でて、「無理しなくていい」とだけ言った。申し訳ないと俯くシャーラを抱きしめて、頭に顎を載せてただ背を撫でてくれた。
(何も……言えなかった)
ただ、ラズールの力強い腕の中で、シャーラは目を閉じてこの感触を、この腕を、匂いを、最後まで忘れないように精一杯、記憶に留めるしかできなかった。
――夜も更けて、ラズールは先に寝ろと、シャーラを寝台に押し込んで出ていった。
その時の物言いたげで案じる瞳が忘れられない。
前髪を撫でていった手が、その感触がまだ残っている。
(みんなは、下の階で話し合いをしている)
もう少ししたら、ラズールが戻ってくる。抜け出すには、今しかない。
寝台から足を下ろしたシャーラは、ラズールの男物のカーキ色の上着を纏い、白いターヴァンで髪を隠す。男性に見せかけるのは無理があるけれど、女性の格好で出かけるよりはいいだろう。
ジャファルから渡された小袋を手にして、廊下の香炉の前でシャーラは動きを止める。
(ねえ、ファリド。ラズールは……)
口を引き結ぶ。泣いてしまいそうになる。
(ラズールは、わかってたの? 私とイラムに行けば死んでしまうかもしれないって)
『アイツはそれでもいいって、思ってるんだよ!』
頬を冷たいものが、伝い落ちる。我慢できず、震える声を漏らす。
「……よくない」
『シャーラ?』
「よくないよ、それでもいいなんて、私はよくないよ!!」
『アイツはシャーラに惚れてたから。助けたいって』
「ラズールが、本当はイラムに興味がないの、知ってる。ううん、気乗りがしてないの、わかってた」
『それは、シャーラが心配で。イラムに行ってどんな目にあうのかって』
「私は、ラズールが私のために死ぬのは嫌!」
行くのを止めろ、なんて言わない。でも最初から止めたがっていたのを知ってる。
「ファリド、どうしてラズールと私の……」
喉が痙攣する。深呼吸をして、続ける。
「――関係を持たせようとしたの?」
ファリドが絶句する。
『知っていたのか?』
(全部、わかっていたわけじゃないけど、なんとなく感じてた)
朧げに理解したのだ、自分の行動を。ファリドが何をしたのか。
『ラズールに、シャーラと関係を持たせれば……アイツは、シャーラを守るから』
「そう、でも、それは駄目、駄目なの」
『どうして!? アイツが守りたいって思ってるのだから、いいだろう!』
シャーラは押し黙って、香炉の蓋をあける。揺れる炎をじっと見つめる。
(……奴隷、だったのかもしれない)
――妃なんて嘘だ。
各地から集められてきた少女たち、虚ろな眼差し、仕えることだけを教え込まれていた。いずれ死ぬために、生贄にされるために。
だから逃げた。朧気にしか覚えていないけれど、何かから追われていることだけはわかる。
――ラズールを、殺させない。
息を深く吐いて、ぎゅっと小袋を握り締める。
(これを……使えば)
手が震える。これを使えば、ラズールとは……お別れだ。
これで、離れる。彼が寝ている間に、ここを立ち去ることができる。
(もう、巻き込まないで――済む)
シャーラは香炉を揺れる視界で眺めて、蓋を閉じる。
ずるずると膝をくずし、床に座り込む。モザイク模様の冷たいタイルが足に凸凹した感触を伝えてくる。
「うっ……うう――」
引き結んだはずの唇から、唸り声が漏れる。
巻き込んだのに、中途半端に彼の手を切り離す。それが、どんなに酷いことか、私は知っている。
(でも――殺させない、殺さない)
ラズールを、助ける。
『シャーラ』
呼びかけるファリドには無言で、壁に手をついてゆっくり立ち上がる。胸の中に、ジャファルからの小袋を仕舞う。
そのまま静かにそっと階段を下りたシャーラは、ギクリと足を止めた。角から音もなく姿を見せたのは、口髭のバシュルだ。
「君が、それを火に焚べなくてよかった。そうしていたら君を許せなくなるところだった」
「どうして……」
ラズールの命令だろうか? 呆然としていたら、岩のような巨体がシャーラに手を差し出してくる。意味を悟り震える手で小袋を渡すと、彼は袋の口を開いて頷いた後、懐に入れた。
「阿片だ。加工されてるな。我々は、中毒死させられていた」
シャーラは、目を見開く。記憶がなくても、それがどんなに危険なものかは、わかる。
(知らなかったじゃ済まされない)
謝罪の言葉さえも白々しい。唇を震わせるシャーラに、彼は淡々と問う。
「教えてもらおう、どうして使わなかった」
「……」
「危険なものだと知らなかったのだろう。だとすると、出発を思い留めたのか、それとも、わざと追いかけてほしかったのか」
シャーラは力なく首を垂れた。
「わからない。けど……きっとラズールは来てくれる」
「アイツを試したかったのか? 君は見かけによらず、性悪なのだな」
おどけたように話されて、シャーラは泣き笑いを浮かべた。
「何をしても。きっと助けに来てくれちゃうから、困る」
「別れたいなら、そう言えばいい。別れさせてやる」
シャーラは寂しげに笑って胸を押さえた。
離れたくない。でも――離れなきゃいけない。
「――みんなを巻き込んで、危険な目に合わせてごめんなさい。それから、ラズールにも伝えて。ありがとうと――さよならと」
「――それは、本人に言ってくれ――」
バシュルがあっさりと言い、身体をどかす。バシュルの巨体の後ろからのぞいた姿に、肩が跳ね上がる。
「……ラズール」
足が、手が震えるのはどうして? 怖いの? 誰が? 何が?
何を言われるのか、何を言わなきゃいけないのか、わからなくなる。
「――ラズール」
怒りに染まった彼の顔に、シャーラは息を止めた。




