第一二話「つぎはぎの英雄」その1
三月三〇日金曜日、巽の復帰を目前に控えたその日の夕方。ゆかりの下に高辻からの連絡が入った。
「緊急討伐ぅ? 安い仕事はやらないわよ?」
『んなこと言わないでさぁ、おっちゃんもちょっと困ってるのよ』
受話器の向こう側では高辻が本当に困っている様子であり、色々と世話になっているゆかりとしては無碍にもできなかった。
『第二二九開拓地で大規模なゴブリンの群れが発生、って聞いてるでしょ? 緊急討伐の招集をかけたんだけど、集まったのは一月試験の合格者とかその前とかのひよっこばかりで、ベテランがいないのよ』
「ゴブリン相手ならそれで充分じゃない」
『相手がゴブリンだけならね。狩り場では何が出てくるか判らないし、ゴブリンの中にだって油断できない奴がいることもある』
むー、と唸るゆかり。面倒くささと、義理と人情がゆかりの中で綱引きを演じている。
――ゴブリンはメルクリアでは最もありふれたモンスターであり、冒険者がどれだけ狩ろうと尽きることなく湧いてくる。ときにそれは理由もなく大量発生することがあり、放置しておけば規模をさらに拡大させ、図に乗ったその群れはいずれ人間の町へと襲いかかることになる。そうなる前に、群れの規模がまだ小さいうちに冒険者を集めて一気に掃討してしまうのが緊急討伐だった。
「要するに保険がほしいってこと?」
まさしく、と高辻は強く頷いた。
『おっちゃんはバックアップの責任者で、監督役ももう選出されている。あと必要なのは保険の切り札なんだけどなかなか引き受けてくれるパーティがなくてねー。おっちゃんが頼れるのは巽ちゃんのとこだけなのよー』
「……即答はできないよ? 今日の夜にみんなと相談するから」
『遅くなってもいいから今日中に返事してくれれば助かるなぁ』
高辻との電話はそれで終わり、それから三時間ほど後。ゆかりは夕食の前に美咲、しのぶ、それに巽を集め、この件について相談した。
「クマさんは何て?」
「『積極的にやりたいわけじゃないが、反対もしない』って」
美咲としのぶが顔を見合わせている。二人もまた熊野と同意見の様子だった。
「いつ討伐に?」
「明後日、四月一日になるって」
「え、ってことは日曜に狩りを? 今週はもう狩りに行ってますよ?」
ゆかりの口が「あ」と開いたままとなる。数秒を経て、
「ちょっと待って、確認するね」
ゆかりが高辻に電話を入れ、「狩りに行けるのは週に一度、のルールに抵触するんじゃ?」と確認。それに対する返答は、
『一日経ったら翌週じゃん? 今回本当に困ってるし、一日くらい大目に見てくれるようおっちゃんのコネで何とかするから』
「でもその場合、来週分の狩りはもうやっちゃったことになるわけよね」
『それはそうなるな』
その会話を横で聞いていた美咲としのぶは「不参加」を決定していた。四月一日には「登録式」という儀式的な最後の手続きがあり、巽が狩りに行けるのは二日以降になるからだ。
「ようやく巽先輩と一緒に狩りに行けるようになったのに……」
「緊急討伐に参加して来週分の狩りを終わらせたなら、また一週間延びちゃいます」
二人がそう言い合っているのを横で聞いていたゆかりもまた「うん、そうよね」と頷く。
「ってことで、悪いけど緊急討伐は不参加ねー」
高辻が『ああー、ちょっと待って!』とか言っているのも構わずゆかりは通話を終了しようとする。だが、
「ゆかりさん、ちょっと待ってくれ」
それに異議を唱えたのは巽だった。巽はゆかりからスマートフォンを受け取り「少し後でまたかけます」と伝えた上で通話を終了する。
「……巽君は緊急討伐に参加した方がいいと思うの?」
「行けるのなら行きたい。ただ、実際には行けない俺がみんなにこんなことを強要するのは筋違いだと思う。でも……」
巽は我知らずのうちに拳を握り締めていた。しのぶが巽の顔と、その拳を等分に見つめている。
「……何ていう方でしたっけ。ゴブリンの群れを狩ったときに臨時パーティを組んだメイジ」
「一乗寺ひかり。その子の双子のもう一方と、三人で臨時パーティを組んだんだ。……もう九ヶ月も前になるか」
美咲とゆかりもそれぞれ理解の表情を示す。その一乗寺ひかりというメイジが巽の目の前でゴブリンに殺されたことは、彼女達も既に聞いている話だった。
「巽先輩はリベンジをしたいんですか?」
「今さらゴブリンごときにそんな敵愾心なんて」
まず巽は苦笑し、次いで真剣な顔となった。
「そんなことより、緊急討伐に参加している冒険者にはあのときの俺みたいな奴も多いと思うんだ。あのときベテランの冒険者が助けに来てくれなかったら俺もあの子と一緒に死んでいたのは間違いない。だから……」
美咲達は「なるほど」と頷くが、その顔には暖かな想いが宿っていた。
「巽先輩と一緒に狩りに行けるのがまた一週間延びるのは残念ですが……」
「それくらいは我慢しましょうか」
そう言って笑う美咲としのぶに巽は「ごめん、ありがとう」と頭を下げる。それを眺めつつ、ゆかりは高辻へと連絡を入れた。
「緊急討伐、わたし達四人が参加するから。この貸しは大きいよぉ?」
『いや、本当助かる! もちろんみんなには悪いようにはしないぜぇ? 巽ちゃんも含めてね』
こうしてゆかり達四人はゴブリンの緊急討伐に参加することとなった。三一日土曜日を経て、四月一日日曜日の朝早く、巽達四人はJRでマジックゲート社大阪支部へと向かう。ビルの前で熊野と合流し、それと入れ替わりのように巽は皆とは別行動だ。
「じゃあ行ってくるねー」
「それじゃまた夜に」
「ええ、みんなも気をつけて」
巽は駅の自動改札のようなゲートの向こう側に消えていく四人を見送った。そして方向を変え、ビル内大ホール、登録式の会場へと向かう。
……何時間かを無為に過ごし、登録式がようやく始まった。今回の三月試験の合格者は二〇〇人程度、そのうちの半分がこの大阪支部に集まっている。彼等の顔は一様に希望と緊張に満ちているように思われた。マジックゲート社の、それなりに偉そうな肩書きの人が退屈な訓示を垂れ、一同はそれをありがたく拝聴する――巽は欠伸を噛み殺していたが。
訓辞は比較的手短に終わり、その後名前を一人一人呼ばれて冒険者カードを手渡される。以前失ったカードを再び手にし、巽もそれなりの感慨を抱いていた。
その後、新人冒険者一同は「棺桶部屋」へと案内され、「シュレディンガーボックス」を使用してメルクリア大陸へと移動。マジックゲート社ヴェルゲラン支部にて、今度は冒険者メダルの授与をするのだ。
それが終わると――新人冒険者に対する最初の洗礼、最初の過酷な現実が突き付けられる。約一〇〇人の新人は全員ヴェルゲラン支部の一角、倉庫みたいな場所へと案内されて、
「こちらの装備はマジックゲート社の所有物で、皆さんにローンで格安で販売します。どうぞご自由に選んでください」
職員がそう言い終えると新人達は一斉にその広い部屋の隅々まで散って、自分の職業・体格に合う装備を探し出した。そして値札を見て絶句し、絶叫し、あるいは頭を抱えるのだ。
「ひ、一〇〇メルク……一〇〇メルクっていくらだっけ?」
「さ、三〇〇メルク?! 返済できるのか? こんなの」
「こ、これ、値引きはないんですか?」
巽は流れで付いてきてしまったが、ここで借金して装備を買う必要は巽にはない。一〇〇〇メルクを優に超える金属鎧の他、装備一式はゆかり達を通じてマジックゲート社に預けてあり、それを受け取りにいくだけなのだから。
巽は装備一式を受け取り、一人ヴェルゲランの町を歩いて回った。夕方、ゆかり達が緊急討伐から帰ってくるまでの時間潰しに青空市場を見て回ったり、鍛錬場でトレーニングをしたりする。
そして長い一日がようやく終わり、日が暮れて夜となり――
しのぶ、美咲、ゆかり、そして熊野の四人はヴェルゲランに戻ってこなかった。
時計の短針を半周ほど戻し、日中。第二二九開拓地のベースキャンプを出発した緊急討伐の攻撃部隊は砂漠のような不毛の荒野を進んでいるところだった。
「メルクリアにもこんな場所があるんですね」
「そうですね。第二二九開拓地は一度狩りに来たことがありますが、そのときは森の中でした。あのときは確か一つ前の中継地点から狩り場に向かったはず……」
美咲としのぶは物珍しげに周囲を見回している。道らしい道はなく、自分がどこを歩いているのかもよく判らなくなる。砂漠は地平線の果てまで続くかと思われた。
日差しは穏やかでその点は助かっているが、強い風が吹いて全身が砂まみれとなるのが閉口させられる。攻撃部隊の誰もが自然と口数を減らしていた。
「見てください、何か飛んでいます」
美咲がやや斜め後方を指し示す。振り仰ぐと、そこには鳥のような何かがかなりの上空を飛んでいた。だが鳥にしてはそのシルエットが奇怪である。しのぶは訝しげな顔をした。
「もしかして、吸血コウモリ?」
「こんな場所にもいるんですね。あれは太陽が苦手だったはずなのに」
吸血コウモリはしばらく上空を旋回していたが、やがてどこかへと飛び去ってしまう。しのぶも美咲も、それ以上は上に対して注意を払わなかった。
攻撃部隊は総勢五〇人を超える冒険者の集団で、美咲やしのぶ、ゆかりや熊野はその中の一員だ。
「わたし達はみんな初めてなんだけど、クマやんは緊急討伐に参加したことは?」
「ひよっこの頃に二回ほど。俺がベテランの側に回るとはな」
と熊野は感慨深げな様子である。だがゆかりはそんな暢気な気分になれないようだった。
「ぶっちゃけ言ってさぁ……みんな頼りなくない?」
声を潜めてゆかりが言い、熊野は苦笑する。攻撃部隊の参加者はその大部分が一万と四桁番台。一万と三桁番台がいればこの中では高順位の扱いだ――もちろんゆかり達を除いての話だが。
「しのぶちゃんが七千番台、ゆかりさんや美咲ちゃんももうそれが目前だ。そこから見れば五桁の連中が頼りなく思えるのも仕方ないさ」
「大丈夫なのかなぁ、この子達」
「ゴブリン相手ならこいつらでも充分だ。よほどのことがない限り俺達に出番なんて回ってこないさ」
だといいけど、とゆかりは呟く。ゆかりの考えすぎだ、と熊野は思っていたが……メイジの勘はよく当たると言われ、女の勘も同様に言われ、さらには悪い予感はよく当たるのがお約束であり――そうであるならこの事態もあるいは必然だったのかもしれない。
「よし、やっと見つけたぞ」
望遠鏡を覗いているのは三〇過ぎの、軽装のレザーアーマーを身にした戦士の男。彼の名は葛野大五、マジックゲート社から派遣された今回の緊急討伐の監督役であり、この攻撃部隊の指揮官だ。石ころではあるが国内順位は四千番台、経験・実力共にこの部隊の中で一番の冒険者である。
周囲に斥候を放って捜索を続けること約半日、昼を過ぎて大分経った頃にようやく攻撃部隊はゴブリンの群れの捕捉に成功する。葛野は自分の下に熊野達四人を集めた。葛野から受け取った望遠鏡を熊野達が順番に覗き込むと、そこに写っているのは大きな砂埃だった。地平線の向こうで大規模な集団が動いているのだ。
「砂埃がちょっと小さいような気もするが、それでも千を超える群れになるはずだ。これから全速であれを追いかける」
葛野がそう言い、熊野達四人が頷く。
「君のパーティには忍者がいただろう。先行して群れの様子を窺ってきてほしい」
その依頼に美咲やゆかりは難色を示したが、しのぶ本人が「判りました」と頷いたので何も言わなかった。しのぶが一人で先行し、それを攻撃部隊の五〇人が追いかける。熊野達は最後尾にいて、部隊全体に目を配らせた。
「こっちに気付いたの? 逃げ足が速くなっている」
砂埃は近付くどころか遠ざかっていた。ゴブリンの群れが全速で逃げているようで、しのぶはアクセルを踏み込んだ。しのぶは既に七千番台に達し、冒険者としての経験ももう一年になる。足の速さだけなら熊野も彼女には及ばず、本気の美咲がかろうじてついていけるくらいだ。五桁番台の集団が死ぬ気で走っても後塵を拝することすらできない。しのぶは攻撃部隊を置き去りにし、一気にゴブリンの群れへと近付いた。しのぶが群れに追いつき、その姿を両眼に捉え――
「……これ、は」
驚愕がしのぶの足を止めた。短くない時間、しのぶはその場に立ち尽くす。しばらくしてようやく我に返ったしのぶはきびすを返し、全速で攻撃部隊の下へと引き返した。群れに追いつこうとしたときの比ではない、本気の全速である。
最速で攻撃部隊へと戻ってきたしのぶはその集団に正面から突っ込み、集団を二つに割って葛野の前へと滑り込む。息を切らしたしのぶは四つん這いとなって酸素を貪った。
「どうしたの? しのぶちゃん」
「何かあったんですか?」
「群れで何を見たんだ?」
攻撃部隊は一旦足を止め、しのぶの報告を待っている。しのぶは呼吸を乱したまま、それでも立ち上がり、葛野へと向き直った。
「偽装……あれは群れじゃありません、ゴブリンは百もいません」
「どういう意味だ」
「百足らずのゴブリンが、みんなで丸太や木の枝を引きずっていたんです。それで砂埃を大げさに見せて……」
しのぶの報告に全員が顔を見合わせた。ほとんどの者の顔に浮かんでいるのは当惑の表情だ。ゆかりや美咲、熊野がしのぶの報告を疑う理由はない。だが葛野や他の面々は信じかねているようだった。
「そんな馬鹿な」
「ゴブリンがそんな偽装工作をするはずが」
誰かがそんなことを言い、否定的な空気が流れる。美咲が一同の前に一歩進み出、注目を集めた。
「わたし達のパーティメンバー……今回は参加できませんでしたが、彼は以前しゃべるゴブリンと戦ったことがあるそうです。冒険者殺しに成功したそのゴブリンは高い知能を持っていて、落とし穴を掘ったり、スリングを武器に使ったりしたと言います」
美咲の補足説明に多くの者は困惑を深めるばかりだが、
「俺自身には経験はないが、そういう報告があったのは読んでいる。今回のゴブリンの群れを統率しているのもそういう高い知能を持った個体ということか」
葛野は自分自身を納得させるようにそう言う。それでしのぶの報告を受け入れる空気が優勢となった。
「厄介なことになったわね」
熊野とゆかりは険しい表情だ。葛野もまた冒険者としての長年の経験から「これは容易ならざる事態になるかもしれない」という予感を抱いていた。
(敵は我々をこの辺りに誘導したかった……それは何故だ? 罠でも用意しているのか? ……判断を下すには情報が足りんか)
葛野は一同を見回し、「一旦引き返す」と決然と宣言した。
「来たときと同じように斥候を放って敵集団を探しながら、元来た道を引き返す」
あるいはそれは消極的な方針に思えたかもしれず、攻撃部隊の全員がそれを是としたわけではない。だが明確な反対もなく、中核メンバーの熊野達は葛野の決断を支持している。攻撃部隊は速やかに方向転換し、元来た道をそのまま辿って移動を開始した。
……来たときよりもより慎重に、念入りに索敵をしながらの進軍は時間がかかるばかりだった。それでもゴブリンの群れは見つからず、間もなく夕方になろうとしている。
「この分じゃ空振りのままベースキャンプに戻ることになりそうだな」
「ええ。それで終わってくれたなら平和なんだけどね」
「それじゃ何千ていうゴブリンの群れは残ったままだろう。逃げられたままじゃ面白くないし、また緊急討伐の準備をする手間を考えるなら今日勝負をつけないと」
そうなんだけどねー、と独り言のように言うゆかり。熊野の言うことはもっともだが、ゆかりが抱く嫌な予感は消えないままだった。そしてゆかりの予感は当たり、熊野の希望も叶えられることとなる。
「見ろ! 狼煙だ!」
誰かがそう言って空を指差し、全員が顔を上げた。空に向かってまっすぐに立ち上っているのは、色つきの狼煙だ。それは連絡用のマジックアイテムである狼煙玉の煙であり、ベースキャンプの比較的近い場所を索敵している哨戒部隊の誰かがそれを使用したのだ。
「『ゴブリンの群れ発見、規模千以上』……」
「ようやく敵が見つかったか。急いで戻らないと」
葛野は部隊の進軍速度を上げた。まだまだひよっこの冒険者達は疲れた身体に鞭打って駆け足を速めている。上空へと立ち昇る狼煙は長い時間そのままの形を留めていたが、やがて空気に解けて消えそうになる。その狼煙の柱に大分近付いた頃、
「み、見ろ!」
「あれは、狼煙じゃない……のか?」
煙が立ち昇っている。それはマジックアイテムのような人為的なものではない、普通の煙のように思われた。ただ、その煙は非常に大きい。よほど大きな何かを燃やさないとこれほどの煙は出ないだろう……それこそ火事のような。
「くそっ、どうなっている。何が起こっている?」
不可解な状況に苛立ちは深まるが、葛野が成すべきことには変わりない。一刻も早く狼煙の下に向かうだけだ。最初に立ち上った狼煙、その次の大きな煙、そのいずれもがベースキャンプの方角であり、結果として攻撃部隊はまっすぐにベースキャンプへと帰還する道を辿っていた。
時刻は夕方、その少し早い時間帯。攻撃部隊の五〇人はようやくベースキャンプへと到着する――いや、ベースキャンプだった場所に。
「これは……」
そう言ったきり言葉をなくしたのは熊野だったのかもしれないし、他の誰かだったかもしれない。ベースキャンプは直径二、三十メートルの円形で、外周は木製の柵や土を盛り上げた壁によって囲まれていて……その壁が破壊されていた。土の壁は崩され、木製の柵は倒されている。壁の内側に建っているのは何軒かの丸太小屋だが、それもまた攻撃を免れてはいなかった。火をかけられたそれらの小屋は焼け崩れ、あるいは燃え落ち、あるいは未だに炎上している。
「――ちょっと待って! 中継地点は? 転移魔法は使えるの?」
ゆかりの鋭い指摘に全員が正気を取り戻したようだった。指示を求める視線が葛野に集中し、葛野はその期待に応える。
「火を消せ! 瓦礫を退けろ! 魔法陣を掘り出すんだ!」
転移魔法の魔法陣が設置されていた小屋は完全に焼け落ちていたが、未だ火が燻っていた。ある者は水を汲みに行き、ある者は砂をかけて消火する。柵に使われていた丸太を使って炭化した柱や丸太などの残骸を退かし、時間はかかったが何とか魔法陣を掘り起こし……だが、
「……ダメか、魔力が完全に消えている。これはもう死んだ魔法陣よ」
火事で小屋が崩れただけではないだろう。その前に転移の魔法陣は傷を付けられ、破壊されていたのだ。ゆかりの結論に葛野は歯を軋ませ、冒険者達は不安げな顔を見合わせた。
「転移魔法が使えないって……それじゃどうやってヴェルゲランまで戻ったら」
「一つ前の中継地点まで歩いていくしかないんじゃ?」
「何キロあるんだ? もう夜になるぞ」
ひよっこ達が口々にそう言い、不安が増幅されていくかのようだ。ゆかり達四人は口を閉ざし、葛野の決断を待っていた。
葛野は眼を見開き、一同を見回した。攻撃部隊の五〇人超に加え、帰還した斥候部隊の面々、合計で約六〇名。それが人間側の全戦力だった。
「覚悟を決めろ、ここで野営する」
一同は戸惑ったような顔を見合わせた。あちこちで小さな囁きや話し合いが聞こえる。一同を代表するように熊野が葛野に問うた。
「一つ前の中継地点まで歩いていけばいいんじゃないのか? 確か一〇キロくらいだろう」
「地図で確認したがその一〇キロの間は川あり谷ありで、まともな道がない。それに調査が充分ではなく、この間に高レベルモンスターの縄張りがある可能性がある。何より……もう日が暮れる」
「昼間でも危険なのに夜にそんな道を通るなんて、ただの自殺行為よね」
ゆかりがそう言い、葛野は「そういうことだ」と結論付けた。
「敵は冒険者殺しに成功して高い知能を獲得したゴブリンで、奴は何千というゴブリンを統率している。奴は中継地点を破壊して俺達をここに足止めした。奴はおそらく、夜になるのを待っている」
「大抵のモンスターは夜目が利く上に、夜は魔力が満ちてモンスターが活性化する。同じゴブリンでもレベルは一つ上だと考えた方がいい」
このためマジックゲート社は、ランク外の冒険者が夜に狩りをすることを禁止している。引き際を決断できず、狩り場で夜を迎えてしまい、昼間より強力となったモンスターの力を見誤り、殺される――それもまた珍しくない話だった。
「確かに厄介だが、ちょっとレベルが上がったところで所詮ゴブリンはゴブリン。油断さえしなければ負ける相手じゃない。俺達全員が戻らなければマジックゲート社も事態に気付いて、遅くとも明日には救援がやってくる。それまで粘ればいいだけだ」
葛野が力強く断言し、熊野が「確かに」と頷く。それで一同の不安も多少は解消された……かもしれなかった。
「時間がない、すぐに動くぞ! この場所に一晩籠城するんだ、柵を再建して守りを固める!」
葛野は手早く班分けし、冒険者のほとんどを柵や防護壁の再建に当たらせた。
「わたし達は何をすれば?」
「忍者と侍の二人で敵の警戒。メイジと君は、何か使えるものがないか探していてくれ」
その指示に熊野達は「判った」と頷く。そしてそれぞれの行動を開始した。しのぶと美咲は哨戒に出発し、ゆかりと熊野は瓦礫を掘り起こして焼け残ったものを漁っている。
「こーゆーのを火事場泥棒って言うんだっけ」
「いや、ちょっと違うと思うぞ」
その冗談に二人は小さく笑い……また沈黙した。二人は黙々と瓦礫の中の捜索を続けている。
「……クマやん、どう思う?」
「厳しいな」
ゆかりの曖昧な質問に熊野は端的に答えた。
「味方はひよっこばかりで砦は崩れかけ。この状況で、夜に、数千のゴブリンの群れと戦うとは……」
「ゴブリンだけならいいんだけどね」
ゆかりがそう言い、熊野は首を傾げた。
「他のモンスターが出てくるって言うのか?」
「いや、さすがにそれはないと思うけど……でもこれで終わらないような気がする。敵はまだ何か切り札を隠しているんじゃないかって」
確かにな、と熊野は嘆息した。
「何が出てきても驚かない、その覚悟はしておいた方がよさそうだ」
それから程なくして、太陽は完全に地平線の向こうへと過ぎ去っていった。残照がしばらく空を紫に染めていたが、それもやがて消えていく。そして世界は完全な暗闇に閉ざされた。人工の明かりが一切ない、完全無欠の暗闇――その中に何か光るものがある。
二、四、八、一六、三二、六四……その数が急速に増えている。無数の爛々とした光が蠢いている。まるで大地を埋め尽くすような光が集団で移動している。その何千という光は、全てゴブリンの眼だ。その眼の全てが冒険者へと向けられている――殺意と欲望をたぎらせた眼が。
「Kikikikiki!!」
群れの中で一匹が鬨の声を上げ――おそらくは群れを統率しているリーダーだろう――何千という群れが一斉に啼き声を上げた。耳をつんざく、不快な金属音。それが何千も重なっていて、他の音は何も聞き取れない。その不快な轟音に冒険者達の耳はおかしくなりそうだった……耳だけでなく、心も。
「か、葛野さん……」
「狼狽えるな」
不安げな様子のひよっこに対し葛野は頼もしげな態度を維持する。だが実際には、葛野の内側でも黒い不安が渦を巻いていた。許されるなら全てを放り出して自分一人だけで逃げてしまいたい……だが監督役という立場上逃げられるはずもなかったし、
「ゴブリンごときが……! 俺を何位だと思っている」
この一団の中で国内順位最上位だというプライドが「たかがゴブリン」に背を向けることを許さなかったのだ。
ゴブリンの群れがベースキャンプへと、冒険者の砦へと接近する。葛野は一人で砦を飛び出し、その群れの中へと突っ込んだ。
「風刃旋舞!」
葛野が固有スキルを行使、葛野の周囲にいたゴブリンは全身を切り裂かれ、血を撒き散らして絶命した。ほんの数瞬で何十というゴブリンが倒れ、大量の魔核が葛野の剣に回収される。それを見ていた冒険者が歓声を上げた。
それこそ葛野大五の固有スキル「風刃旋舞(Tornado Blade)」。無数の真空の刃を自分の周囲で高速回転させ、モンスターを切り刻む技である。葛野が普段この技を使って狩っているのはレベル六〇超の強力なモンスターであり、それと比較すればゴブリンなど豆腐と変わらない。いくら群れようとゴブリンは手も足も出ないまま刻まれ、切り裂かれ、屠られていく。
「このままじゃ葛野さんに魔核を全部持っていかれるぞ」
「冗談じゃない、何のために緊急討伐に参加したんだ!」
勢いづいた、だが考えの浅い冒険者が何人も柵の外に出てゴブリンと戦い出している。熊野はそれを止めるかどうか少し迷い、結局止めなかった。
「とりあえず、充分勝てる相手だってのを理解させる必要があるからな」
葛野や迂闊なひよっこの戦いぶりを眺める熊野の横に、ゆかりが並んだ。
「順調そうね」
「今のところはな」
そうね、とゆかりはため息をつく。熊野の言うように、夜はまだこれから更けていくところで、戦いはまだまだ始まったばかりだった。
「ゆかりさん達はいざというときの切り札だ、今は身体を休めていてくれ」
「判ってる」
熊野がゆかりに笑いかけ、ゆかりは後ろに下がっていく。その背中を見つめ、熊野が再び正面を向いたとき、その顔にはもう一片の笑みも残っていなかった。
……何千というゴブリンの群れの最奥・中央部。そこには一匹のゴブリンがいる。群れを統率するその個体は、ゴブリンの中では比較的体格の良い個体を集め、自らの親衛隊とし、傅かれていた。そのゴブリンが手に持っているのは、杖だ。それはメイジの杖で、人間のメイジから奪ったものであることは間違いない。
杖を手にしたゴブリンは笑っている。既に百以上、二百近い同胞が屠られても彼は嗤っている。夜はまだ始まったばかりで、戦いはまだまだこれから――それはこの杖のゴブリンにとっても同様だった。
同時刻、ヴェルゲラン。
「転移魔法が使えないって、どういうことだよ!」
「送り側の方には何も問題はなく、受け側の方で何か問題が発生したとしか……」
「だから何かって何なんだよ!」
高辻は職員に苛立ちをぶつけ、職員は返答に窮している。高辻はため息をつき、
「……とにかく情報を集めてきてくれ」
その命令を受けた駆け足で職員は事務所から出ていく。今高辻がいるのはマジックゲート社ヴェルゲラン支部の一角、事務所の一つだった。高辻の周囲では複数の職員が慌ただしく動いている。ただ、右往左往するばかりで事態解決にはあまり寄与していなかったが。
「第二二九開拓地で狩りをしていたという冒険者から話を聞いてきました!」
職員の一人がそう言って事務所に飛び込んできて、高辻は椅子から立ち上がった。
「そうか! その冒険者はどこに?」
「いえ、もう地球側に戻っているんです。私も一旦向こうに戻って、SNSで情報提供を呼びかけて、それに応えてくれた人がいまして」
その手があったかと高辻は瞠目しているが、今はそれよりも話の内容だった。
「それでその人は何と?」
「昼過ぎ……三時頃に第六ベースキャンプの方向から狼煙が上がってて、内容は『ゴブリンの群れ発見、規模千以上』と。その後に火事のような煙が立ち昇っているのを見たそうですが、そのときにはもう第五から第六への移動はできなくなっていたそうです」
そうか、と高辻は答えて、
「君はもう一度向こうに戻って、SNSで情報収集を」
判りました、と走り出す職員の背中を見送り、高辻は考え込んだ。
「何が起こっている? 何故転移魔法が使えない?」
「そんなの、ゴブリンが魔法陣を壊したからに決まってるでしょう!」
そう言って巽が突然姿を現し、高辻は目を丸くした。何人もの職員が巽を制止しようとしているが、巽は煩わしげな顔をするだけで職員をまとわりつかせたまま普通に歩いている。
「お前、どうしてここに」
「みんなが戻ってこないから心配していたところに、この人……この人だっけ? マジックゲート社の人が『第二二九開拓地から戻って来た人はいないか、何か知っている人はいないか』って呼びかけをやっていて」
「それで話を聞きに来たわけか」
巽が無言で頷き、高辻はため息をついた。
「済まん、俺が話をする」
と高辻は職員を退かせ、巽を解放する。巽は「済みません」と一応謝罪した。
「高辻さん、それで何が? みんなは無事なんですか?」
「何も判らん。判っているのは転移魔法が使えなくなっていることと、大規模なゴブリンの群れが出ていることだけだ」
高辻は巽に経緯を説明、黙ってそれを聞き終えた巽は己が推論を述べた。
「……やっぱり、どう考えてもゴブリンの仕業ですよね、それ」
「ゴブリンが第六ベースキャンプを襲撃して転移の魔法陣を破壊したと? しかしゴブリンにそんな知恵が」
巽の推測に反論しようとする高辻だが、
「以前報告したでしょう、俺はしゃべるゴブリンと戦ったことがあります。俺はそいつの掘った落とし穴に落とされましたし、そいつは自分の群れにスリングを使わせていました」
巽の指摘に高辻が少しの間沈黙する。
「……冒険者殺しに成功した個体ならそれくらいの知恵が回っても不思議はないわけか」
「ええ」
状況はある程度理解できた、次の問題はそれにどう対応するかだ。顎に手を当てて考え込む高辻を、巽が急かし立てる。
「何をしているんですか? 早く救援を送らないと。誰も行かないなら俺一人で行ってきます」
そう言って背を向ける巽を高辻が「待て」と止める。
「どうやって行くつもりだ。転移魔法は使えないんだぞ」
「第五ベースキャンプまでは行けるんでしょう? そこから走っていけば」
「死ぬ気か、これを見ろ」
高辻は巽の後ろ襟を掴み、机の前へと引っ張っていく。そして巽の顔を机に押し付けるようにし、その上の地図を見せつけた。
「ここが第五で、ここが第六。直線距離なら一〇キロほどでそれほどかからず走っていけるように思えるかもしれんが、見ろ。ここに川、ここに谷。しかもどんなモンスターが出てくるのかろくに判らん上に、とどめに夜だ。走っていこうとしても遭難するだけだ」
「そんな……」
食いしばる歯が軋んでいる。出血しそうなほどに拳を握り締める巽の姿に、高辻は心臓が潰れそうなほどの後悔に囚われていた。友人の娘であるしのぶだけではない。ゆかりも、美咲も、熊野も、高辻にとっては今後の成長を楽しみにしている、将来有望な、可愛い後輩達だ。その彼等が、あるいは今夜喪われるかもしれないのだ。もしそうなったら高辻はどれだけ後悔してもし足りないだろう。
「向こうに戻れさえすれば……はっちゃんと連絡を取れさえすれば」
もし東山迅八――シャドウ・マスターと連絡が取れたなら、彼は娘のために万難を排して救援に向かってくれるだろう。黄金クラスの冒険者なら一〇キロの距離も、千尋の谷だろうと一〇スタディアの川幅だろうと、ヴァンパイアだろうとドラゴンだろうと何の問題にもなりはしない。
「シャドウ・マスターにこの状況を連絡してくれ。彼なら救援を手伝ってくれるはずだ」
彼はとっくに職員の一人にそれを命じている。だが、
「いや、でも、この程度のことで黄金クラスを動かすなんて……鼎の軽重を問われますよ」
職員はそう言ってまともに動こうとしなかった。再三命令されてしぶしぶ動き出したが、この分なら途中で依頼が握り潰されているのは間違いない。残る手立ては高辻自身が地球側に戻って連絡を取ることだが、今の立場上ここを離れるのは許されることではなかった。
「救援部隊の手配はしているが……そうそう人も集まらんし、さすがに夜は動かせない。救援に向かうのは早くても明日の朝からだ」
「そんな悠長な! 一番危ないのは今夜なのに!」
巽は思わず掌を卓上に叩き付ける。高辻は何も言わず、巽から目を背けるだけである。高辻が成すべきことをしていない、とは巽も考えていない。打てる手は打っていて、できることは全てしていて……それでも手が届かないだけだ。こうして喚いているだけの巽など、仕事の邪魔をしているだけだろう。
「くそっ、何か、何かないのか。何か俺にできることは……」
巽は卓上の地図に視線を落とし、ある点に思い当たった。
「第二二九開拓地? そこには以前に行ったことが――」
その瞬間、巽の脳内を稲妻が走った。いくつかの記憶と知識が急速に結合し、ある結論に達する。切り離されていたケーブル同士が接続され、大量の電流が流れたかのようだ。痺れたように棒立ちとなる巽を高辻が訝しげに見ている。
「ここ!! こことここにあります! 転移の魔法陣!!」
再起動した巽が地図ごと机を突き破る勢いで二地点を指し示す。それは地図上の二箇所、第五ベースキャンプと第六ベースキャンプからそれぞれさほど離れていない場所である。だがどちらもただの森の中、ただの山の中だ。
「何を言っている? 何故そんなものがこんな場所に……」
「エラソナ! メルクリアンのヴァンパイア! あいつが設置した罠がこの場所で、あいつのアジトがここだった!」
頭を真っ白にした高辻がその指摘を理解するのに多少の時間を必要とした。理解した途端、高辻は食いつくように地図を見つめる。
「第五に近い方は?」
「洞窟の中にある、罠の入口。それを踏んで俺達はヴァンパイアのアジトに強制転移させられた」
「そのアジトが第六に近いこの地点……」
ええ、と巽が頷き、決意に満ちた瞳を高辻へと向ける。高辻もまた高揚に輝く目を巽へと返した。
「転移の魔法陣は貴重品だし、簡単に動かせるものでもない。多分まだそのまま残っているはず……ただロックは掛けられているだろうが、解錠の鍵もこの支部にあるはずだ」
「すぐに用意してください。俺一人でも行ってきます」
高辻は巽を止めようと考えたが、それも一瞬のことだった。どう考えても巽を止められるはずがない。高辻は深々とため息をつき、いつもの緩んだ笑顔を見せた。
「巽ちゃんよ、おっちゃんの依頼を引き受けてくれないかなー? 救援部隊のための斥候役、一人で先行して状況を窺うんだ。ちょっとばかり危険だけど……」
「やります。やらせてください」
「救援部隊の出発は早くても夜が明けてからだ。巽ちゃんはその少し前に出発すればいいからねー」
高辻の物言いに巽は思わず笑っていた。
「判りました。夜明けよりも少し前に出発します」
例えば出発が夜明けより一〇時間前になったとしても、長い人類の歴史を思えば一〇分前も一〇時間前も誤差の範囲というものだった。
そうこうしているうちに解錠キーとなる水晶玉が用意され、その他通信用魔道具などのマジックアイテムを預かり、巽は救援――その斥候へと出発する。
「頼んだよ、巽ちゃんよ」
高辻は事務所の窓際に立ち、走っていく巽の頼もしげな背中を見送っていた。




