第七話「もしも三人の冒険者がシェアハウスで暮らしたら」
その日は土曜日だが、巽はいつものように町工場でのアルバイト中だった。ただ、最近その会社の売上が芳しくないようで、生産量が減っている。土曜の今日も昼過ぎには製造作業がなくなり、巽は工場内の掃除をしているところだった。
「明日も休みか……どうしようかな。狩りの方は順調だからバイトを減らしてもいいかもしれないけど」
巽は高さ一メートル程のコンプレッサーという機械を「よいしょ」と動かし、その下を箒で掃いている。塵取りでゴミを集めているところに部長さんがやってきた。
「花園君よ。さっきから君の携帯がロッカーの中で何度も鳴っとるんだが」
「そうですか。ちょっと出てきてもいいですか?」
「ああ、今日はもうやってもらうこともないし、これで上がったらいいわ」
巽は「判りました」と返答し、コンプレッサーを元の位置に戻した。
「これでよし。それじゃお先に失礼します」
「お……おう。おつかれ」
部長さんが目を丸くしていることに首を傾げながら、巽は更衣室へと向かう。部長さんは普段は糸のように細い目を見開いてその背中を見送った。
巽が立ち去った後、部長さんはそのコンプレッサーに近付き、それを持ち上げようとした。
「ふんがあーーっっ!!」
若い頃は暴れ者で、力自慢で鳴らした部長さんだが、渾身の力を込めてもわずかに浮かすのが精一杯だ。力尽きた部長さんの手から機械の一端が滑り、重々しい音を立ててコンクリートの床に落ちた。
「これ……確か二〇〇キロくらいあったわな」
部長さんの丸い目が元の細目に戻るまで今しばらくの時間が必要だった。
一方、更衣室の巽は作業服のままスマートフォンの着信履歴を確認する。確かに着信が一分置きに何件も入っていて、その全てが美咲からのものだった。巽は美咲へと折り返し発信をする。呼び出し音が一回分鳴らないうちに美咲が出た。
「もしもし?」
『ああ、やっと捕まりました。花園先輩、すぐに来てもらえませんか?』
「別にいいけど、何があったんだ?」
『何かも何も……』
美咲はため息混じりに言葉を途切れさせた。呆れやら焦りやら怒りやらが混濁した、複雑なため息である。
『とにかく、早く来てください』
「判った。それで場所は?」
美咲が場所の説明をし、通話は切られてしまう。巽は戸惑いで顔を埋め尽くした。
「そんなところに何が……?」
私服に着替えた巽は自転車に乗って目的地へと向かった。全力に近い速度で自転車を漕ぐこと一〇分足らず、巽は目的地へと到着する。そこは巽の住んでいるアパートから間近の、住宅地の外れの、寂れた神社だった。
鍵も掛けずに自転車を門前に放置し、巽は境内へと入っていく。小さな神社の狭い境内であり、目当ての人間はすぐに見つかった。美咲が、しのぶが、ゆかりがいる。呆れ顔の美咲と、困り顔のゆかり。しのぶは全身で「恐縮」を表現しているかのようだった。
「何があったんだ? こんなところに三人揃って」
「実家が遠くて毎週梅田まで通うのが大変だから、下宿することを考えているって話をしていたでしょう?」
「ああ。深草と二人でシェアハウスをしようかって話もしていたな」
美咲は腰に手を当て、今一度ため息をついた。
「しのぶ先輩が今どんなところに住んでいるのか訊いたんですが、教えてくれなくて。何か怪しい、と思ってゆかりさんと二人で押しかけることにしたんです」
その強引な距離の詰め方はどうなんだろう、とも感じたが、巽はとりあえず「うん、それで?」と続きを促した。
美咲は何も言わず、巽を伴ってわずかに移動。境内の片隅に設置されている物置の前へとやってきた。大きさは二メートル四方。美咲がその戸を開け放ち、その中を巽へと見せつける。
中に入っているのは芝刈り機や鎌や熊手や箒などの、主に掃除用具。それが物置内の片側に集められ、積み上げられている。そうやってもう半分に空きスペースが作られていて、そこには段ボールが敷かれ、いくつかのスポーツバッグや寝袋が置かれていた。バッグの上に放置されているのは手回し式の充電器のようである。
ここがどうかしたのか?と巽が顔で美咲に問う。
「ここです! ここ!」
美咲は地団駄を踏むようにその物置内を強く指差す。
「ここ?」
「しのぶ先輩が今住んでいる場所が!」
巽が首を傾げ……四人の間に沈黙が漂った。美咲の言っている言葉の意味は理解できる、だがその内容は理解の外にあった。
「ここが?」
「ここです!」
そのやりとりが一度ならずくり返される。巽は無言のまま事実かどうかをしのぶに問い、しのぶはそれを否定しない。否定できないでいる。
「いやでもまさか……トイレはどうするんだよ。風呂は?」
「トイレは道の途中の公園に……お風呂は駅の近くの銭湯に」
「顔を洗うのは? 飯は?」
「歯磨きは、境内に水道があるからそれで。ご飯はコンビニのおにぎりを……」
その質疑を経て、短くない時間を費やし、ようやく巽の脳が事態を受け入れようとしていた。
「……本当に? 本当の本当に?」
「その……ごめんなさい」
しのぶは消え入りそうなほどに身を縮めている。今「隠形」の固有スキルを使用したならしのぶの姿はヴァンパイアの目にも映らないかもしれなかった。巽の口からはため息しか出てこない。
「どこに住んでいるのか教えたがらないのはてっきり男の俺を警戒してのことだと思って、だから無理には訊かなかったんだけど……」
そんなわけはないです、そういうわけではないです、というしのぶの必死の言葉も巽の耳には届いていない。巽は後悔の念で頭がいっぱいだった。
「まあ、巽君は男の子だもん。あまり立ち入ったことは訊けないよね」
とゆかりがフォローをするが巽は「いえ」と首を振った。
「それでもやっぱり訊いておくべきでした。何もなかったから良かったようなものの」
「いえ、あの、このつっかえ棒を使えば外からは開けられませんし」
としのぶは伝説の武器のように鉄パイプを掲げている。ゆかりに「そういう問題じゃないでしょ?」と叱られ、しのぶはしょんぼりした。
「でも、どうして俺の家の近くに。偶然なのか?」
そう首を傾げる巽に対し、ゆかりが「そんなわけないでしょ」と笑った。
「巽君の近くにいたかったからだもんねー」
とにやにやするゆかり。しのぶは焦りながら言い訳した。
「そ、その、やっぱりパートナーですし、近くの方が安心できると言うか」
「それで引っ越してきたのか」
「は、はい」
この物置に引っ越してきたのは研修期間中の、それもかなり最初の方だ、という事実には最後まで触れられないままだった。
「確かにこれなら家賃はゼロだろうけど……でもアルバイト先にはどう言ってるんだ?」
「アルバイトはしていないです。毎週少しだけメルクを換金して、それで……」
おはようからお休みまで巽を見守ることに忙しくてアルバイトをしている暇がない、という現実はこのまま墓場まで持っていけそうだった。
「それで生活できるのか……」
巽はつくづくとため息をついた。
「これを生活しているとは言いません。少なくとも『真っ当に生活している』とは言えません、ホームレスと何が違うんですか」
と美咲。
「家賃をケチってこんなところに住んで、それで履歴書も書けなくてバイトもできず、収入がないからこんな生活をして――本末転倒もいいところです」
と美咲は憤り、巽とゆかりもそれに完全に同意する。しのぶは何か言いたげな顔をしたが何も言わない。この生活が、巽を見守ることを他の何にも増して最優先にした結果だという真実は永遠に闇の中だった。
「ともかく……手遅れになる前に発覚したのは良かった。ここはすぐに引き払おう」
「はい……」
と肩を落とすしのぶだが、
「ちゃんとした部屋が見つかるまでは俺の部屋を使ったらいいから」
との一言に顔を輝かせた。
「え? え? 巽君としのぶちゃんが同棲しちゃうの?」
とゆかりが心底愉しげにする。しのぶは顔を赤らめるが、
「ああ。その間俺は漫画喫茶にでも行って寝ますから」
巽が素でそう返し、しのぶは表情を消した。
「そんなのおかしいです。わたしが花園さんの家を横取りするみたいな……余計なお金だってかかるのに」
「確かに、部屋を借りられるまで何日かかるか判りませんね」
と美咲。巽は、
「それなら別にここで寝たっていい」
と物置を指し示した。しのぶは首を横に振ってそれを否定する。
「そんなわけにはいかないです。わたしがこのままここを使います」
「――そりゃあ、ちょっと往生するねえ」
巽達四人以外の、誰かの声。声のした方を振り返ると、そこには一人の老婆がいて、巽達に近付いてくるところだった。
「何かおかしいとは思うてたんやけどねぇ。まさか本当に、こんなところに人が住んではるなんて。それもこんな可愛い女の子が」
「あの、おばさんは?」
「わたしゃこの神社を管理しとるもんやよ」
巽は即座に直立不動となり、その老婆に向かって深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません! すぐに片付けさせます!」
「どうかご容赦いただきたい。しのぶ先輩は大切な仲間なんです。何らかの弁済が必要でしたらわたし達も負担しますから」
美咲もまた巽に続き、きれいな礼で謝罪の意を示した。しのぶもまた遅ればせながら、慌てながら「ごめんなさいごめんなさい」とくり返し頭を下げている。そしてゆかりも、
「わたしの監督不行届でこんなことに……面目次第もありません」
と神妙な顔をして見せた。
四人から一斉に謝罪を受けた老婆はため息をつき、
「見てみよし」
と周囲を指し示す。巽達四人は寂れた、雑草が茂り放題となった神社の境内を見渡した。
「旦那が神主代わりやったんやけどもう随分前に亡くなってねえ。わたし一人やとなかなか手入れが行き届かへんでねぇ」
巽は「ふむ」と周囲を見回し、即決した。
「とりあえず雑草を全部抜くか。夕方までには終わるだろう」
「そうですね。それで大分見違えるでしょう」
と美咲。二人が物置に入っていき、適当な除草道具を用意している。しのぶとゆかりもまた二人の指示に従い、除草作業に取りかかった。
……そして約二時間後、日差しも傾きつつある時間帯。
「ちょっと疲れたな」
「ジドラよりも厄介でしたね」
と美咲は笑っている。ジドラはレベル二、三の植物系モンスターの名前である。
狭い神社と言っても四人で全部除草をするにはそれなりに大変ではあったが、体力自慢の冒険者が四人もいるのだ。特に巽は美咲をして「ばけもの」と言わしめた、体力と腕力の怪物である。巽はブルドーザーのように地面を根こそぎにして除草していき、境内にはもう雑草の一本も残っていない。
「おつかれやす。よう冷えとるよ」
老婆がよく冷えた麦茶を用意してくれたので、巽達は喜んでそれを飲み干した。
「おばさん、ビールはないの?」
と言うゆかりは美咲にハリセンで殴られている。
「あの、これでわたしはあそこに住んでいいんでしょうか?」
と言うしのぶに巽がチョップを喰らわせた。
「住むところを探してはるんか?」
老婆の問いに美咲が「ええ」と頷く。老婆が少し考え、
「……わたしの弟夫婦が住んではった家が近くにあるんやけど、もう二人とも亡くなってしもうてねえ。弟の子供達はそれぞれ家を買って、住む人がおらへんのよ。不動産屋に買う人か借りる人がおらへんか探してもろうとるんやけど、なかなか見つからへんでねえ」
四人が顔を見合わせる。四人を代表して美咲が、
「その家、見せてもらっていいですか?」
と申し出た。
そしてしばらく後。巽達四人は老婆に連れられて移動。田んぼや林を挟んで神社の隣の隣の隣辺りに建っているその家へとやってきた。昔ながらの農家といった、純和風の家である。建てられたのが昭和なのは疑いなく、下手をすると三〇年代。庭と建屋を合わせれば百坪を優に超えるだろう。
「水回りは少し前に改装しとったからねぇ、きれいやろう?」
老婆に案内され、家の中も見せてもらった。確かに風呂場やトイレ等は近年の様式にリフォームされている。他の部屋もハウスクリーニングの後であり、古びてはいても清潔だった。二階建てで部屋も五つも六つもあり、多すぎるくらいである。
「ああ、あれ俺のアパートだ」
と二階に上がった巽が窓の向こうの、百メートル程先のアパートを指差す。
「へえ、近いんですね」
と美咲は感心し、しのぶは無言のまま瞳を煌々と光らせていた。
「この家、月いくらで借りれますか?」
「一〇万……と言いたいところやけど、借りてくれるんなら勉強するで?」
しのぶと美咲は顔を突き合わせ、こそこそと相談を始めた。
「正直、かなり心が揺れているんですが……」
「はい、わたしも。ただ、一人五万も負担するのがちょっと……ここまで広い家は必要ありませんし、家賃はもうちょっと安い方が」
残念ながら二人の間では前向きな意見が出てこなかった。どう言って断ろうか、と美咲が考えていると、
「ねえ、一万まけて家賃を九万にしてくれたらここを借りるけど?」
とゆかりが勝手に交渉をしている。老婆は即座に、
「貸した」
「借りた」
ゆかりもそう即答し、両者は手を打ち合った。美咲はちょっと慌てる。
「ゆかりさん、何を勝手に」
「わたしもここに住むから!」
晴れやかな笑顔でそう言うゆかりに、美咲は言葉を途切れさせた。
「三人なら家賃は一人三万。とってもお手頃物件じゃない?」
しのぶと美咲が顔を見合わせ、
「……確かに三万なら抵抗ありません」
「唯一の障害がクリアされたわけですし……」
と結局二人もゆかりの決断を追認した。
その後四人は駅まで移動、不動産屋に赴いて契約の段取りとなった。巽はその必要はなかったのだがそれに付き合うこととなる。全ての手続きが終わる頃には日が完全に暮れ、夜となっていた。
「今日からあの家に住めるわけじゃないんですね」
「そりゃ、水道や電気の開栓工事が必要だからな。住めるのは来週の水曜からか」
「それじゃそれまではあの物置に」
と言い出すしのぶの脳天に巽はチョップを喰らわせた。
「さて、深草をどこに泊めたらいいかな」
と悩む巽に対し、美咲が遠慮がちに手を挙げて見せた。
「あの、済みません。わたしも……今から実家に戻るのは時間的にちょっと厳しくて」
悩みの種が倍となるが、それもゆかりが解決を申し出た。
「はいはーい、わたしの家に泊まったらいいよー」
「そうだな。お願いできますか紫野さん」
「二人とも可愛いもん、大歓迎だよー」
とゆかりが明るく笑う。ごく常識的な宿泊先の選定にしのぶも美咲も異議を唱えることなく、ありがたくゆかりの家に泊めてもらうこととした。
「それじゃ、またな」
「はい。今日はありがとうございます」
「あの……済みませんでした」
「またねー」
別れの挨拶を交わし、ゆかり達が立ち去っていく。巽は手を振って駅へと消えていく彼女達を見送った。
「済みません……少し休ませてください」
翌日の日曜の朝一番、巽の住むアパートを美咲としのぶが突然訪れた。疲れ切った様子の二人に巽は目を丸くする。巽はとりあえず二人を部屋の中へと招き入れた。
「ありがとうございます」
「その、いただきます」
出されたお茶を口にし、二人はようやく人心地ついたようだった。巽は腕を組んで二人に問う。
「それで、どうしたんだ? 昨日は紫野さんの家に泊まったんだろう?」
美咲は「はい」とだけ言ってそのまま黙ってしまった。沈黙がかなりの時間続き、巽は助けを求めるようにしのぶを見る。
「……物置の方がまだマシでした」
しのぶはそれ以上何も言わなかったが、言いたいことの大半は伝わってくる。巽は「そうか」としか言えなかった。
「ええっと、それじゃ今日はどうする予定で?」
「はい。あの家の鍵はもらっていますし、まずはしのぶ先輩の荷物を運び込んで、必要なものを色々買い物して、夜には二人でわたしの実家に行って、明日はしのぶ先輩に手伝ってもらってわたしの荷造りをして……と考えていたのですが」
「が?」
美咲は力尽きたように卓袱台に突っ伏した。
「……昨日はほとんど眠れなくて。とりあえずここで睡眠を取らせてもらえないでしょうか……」
見れば、座ったまま船を漕いでいるのはしのぶも同じである。もちろん巽に「だめ」等と言う選択肢はない。
「ああ、うん。好きなだけ休んだらいいから」
「ありがとうございます……」
巽が卓袱台をどかすと二人の身体は横倒しとなり、そのまま寝入ってしまった。季節は秋だがまだまだ暑く、二人ともかなりの薄着である。目のやり場に困った巽は意味もなく周囲を見回した。
「ええっと、暑いだろうから扇風機……でも風邪ひくとまずいから毛布も」
巽は扇風機の風が二人に当たるようにし、毛布を用意しようとした。が、来客用の毛布があるはずもなく、普段自分が使っているものしかない。その汗臭さが気になった巽は大判のバスタオルを二枚用意し、それを二人に掛けた。
「ふう」
多少なりとも肌が隠れ、巽はようやく一安心していた。……それでも、非常に可愛らしい二人が無防備に横になり、すやすやと眠っているのを見ているととても平静ではいられない。
「よし、もう開店の時間か」
巽は二人を残して外出した。目指すは近所のスーパーだ。
「せっかくだから腕によりをかけるか」
巽は張り切ってスーパーへと向かった。普段は節約第一だが、今日はちょっと特別である。
……それから二時間半ほどを経て。
「ん……」
包丁とまな板がリズムを奏で、鍋がことことと歌を歌っている。美咲は心地良いその音で目を覚ました。
「ここは……」
九割方寝ぼけたまま周囲を見回す美咲、脳はまだ現状を把握していない。
「もうちょっとかかるからまだ寝ていていいぞ」
誰かにそう言われ、美咲はごく素直に「判りました」と頷く。そして横になって再び夢の世界へと旅立った。美咲がようやく本当に目を覚ましたのはもう半時間過ぎてからである。
洗面台を借りて軽く顔を洗い、眠気を払う。その二人の前に、不気味な笑顔を湛える巽の姿があった。
「ふっふっふ。二人とも腹が減っているだろう」
美咲としのぶは卓袱台へと案内される。その上にはいくつもの料理が用意されていた。
「さあ、食うがいい」
とまるで悪のメイジのようなことを言う巽。巽の態度はともかく実際腹ぺこだったし、それらの料理は非常に美味しいそうである。二人は「いただきます」とありがたくそのご飯をいただくこととした。
並んでいるのはご飯やみそ汁の他、だし巻き卵にポテトサラダに煮豆、それにメインディッシュは豚の冷しゃぶだ。それを口にした美咲は、
「お、おいしい」
その一言が口を突いて出た。梅のタレは刺激的だがさっぱりとしていて、いくらでも入りそうだ。しのぶは無言のまま夢中になってそれを食べている。
「……はあ、ごちそうさまでした」
そして食事は無事終わった。食べきれるのか、と心配になるくらいに出された料理は余すことなく全て二人の腹の中へと消えている。さすがに二人ともお腹いっぱいだったが、美咲としのぶの二人分を一人で食べたとしか思えない巽はまだまだ余裕がありそうだった。
「お粗末様でした。口に合ったのなら何よりだ」
と巽も満足そうである。
「花園先輩は料理が得意なんですね」
「まあ、自炊するのに困らない程度には。身体を作るにはちゃんとしたものを食う必要があるし、自炊なら節約もできるしな」
「なるほど、そうやってあの体力を培ったわけですか」
「二人は料理をしないのか?」
その問いに二人は揃って気まずそうに目を逸らした。
「全くできないわけではないですが……」
「お母さんが全部やってくれて……あの、今度料理を教えてもらえませんか?」
しのぶの頼みに「構わないぞそれくらい」と軽く頷く巽。しのぶは嬉しそうな笑みを見せた。
「花園先輩は何かスポーツを?」
「高校のときは野球部だった」
「ああ、道理でときどき……」
美咲は語尾を立ち消えさせるが、巽が「剣の振りがバッターのスイングみたいになっていたな」と笑って補足した。
「その頃から冒険者を志望していたわけじゃないんですか?」
しのぶの問いに巽は「していたぞ」と即答する。
「冒険者になるのは子供の頃からの夢で、ずっと変わっていない。ただ、親に猛反対されててなー。小学生の頃に少しだけ剣道やってたんだけど、理由が冒険者になるためだって判ったら止めさせられた」
美咲が「そうなんですか」と眉を顰めた。
「それで野球部に?」
「とにかく体力だけでも、って思ってな。甲子園には無縁だったけど、近隣の高校の中じゃ一番練習がきついって評判だったから」
三人は食休みをしながらおしゃべりをする。和やかで楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去り、気が付けば思いがけないほどの時刻になっていた。
「もうこんな時間ですか。実家に戻るのがあまり遅くなるのはまずいです」
「そうか。でも深草の荷物の移動だけはやっておこう」
三人はアパートを出、まず神社へと移動。物置から荷物を取り出してそれを持って新居に持っていって、荷物の移動を完了させた。そして美咲としのぶは駅へと向かい、巽もそれを送っていく。
「それじゃまた火曜日に」
「はい、さようなら」
「火曜日は頑張りましょう」
そうして巽は二人と別れ、アパートへの帰路に就いた。明日月曜は休養日で、その次が狩りの日である。
「い、生きて帰ってこれた……」
ときは火曜日の夕方、間もなく太陽が没する時間帯。場所は大阪梅田、マジックゲート社大阪支部のビルの前。ちょっとした公園のようなその場所で、巽達四人はベンチに身体を投げ出し、ぐったりとしていた。
「……花園先輩の言うことが心底理解できました。先週のわたしは何を考えてあんなものに挑もうとしていたんでしょうか」
「うん。さすがに今日はやばかった」
先週に引き続き第二一三開拓地を狩り場とした巽達だが、先週と比較してあまり獲物が狩れなかった上に、レベル三〇のギガントタランチュラに目を付けられたのだ。今回は逃げる間もなく襲われてしまい、全力で防戦し、隙を突いて何とか逃げ出し、それでも敵は追ってきて、必死に逃げ回り……結局狩りどころではない状態で、這々の体でベースキャンプに逃げ込むしかなかったのである。
「今日は赤字ですね。あまり稼げなかったのにポーションはほとんど使い切っちゃって」
「わたしも触媒使いまくってなくなっちゃうし、大赤字もいいとこよー」
しのぶは暗い顔をし、ゆかりも天を仰いで自棄になったように吠えた。急にゆかりが立ち上がり、
「こーなったらもー、飲んで憂さを晴らすしか!」
拳を握り締めて決然と宣言するゆかりに対し、美咲が無言のままハリセンで突っ込みを入れた。
「……余計な体力を使わせないでください」
冷たくそう言う美咲に対し、ゆかりは涙目になっている。
「まあ、こんな日もあるさ」
気持ちを切り替えるべく、巽は三人に対して励ますように言った。
「幸い大きな怪我もなく無事に帰ってこれた。来週また頑張ればいい、生きていれば狩りができるんだから」
美咲が「そうですね」と微笑み、「『生命を大事に』!」と付け加える。ゆかりとしのぶもまた、
「『生命を大事に』!」
「『生命を大事に』!」
とそれに続いた。巽もまた「『生命を大事に』!」と笑って応える。
「それで、深草と鷹峯は今日はどうする予定なんだ? 鷹峯の実家に戻るのか?」
「いえ、今夜はこっちのどこかで泊まるつもりで……荷物は明日、父が自動車で運んでくれる予定ですし、早めにあの家に行ってそれを受け取る準備をするために」
そう言う美咲に対し、
「はいはーい、二人ともまたうちに泊まったらいいよー」
とゆかりが手を挙げているが、美咲もしのぶもきっぱりとそれを無視した。
「あの、花園先輩。今日一晩だけお邪魔しても……」
「ああ、うん。まあいいけど」
巽は平静を装ってそう答える。二人は「ありがとうございます」「お、お邪魔します」と深々と頭を下げていた。すると、
「はいはいはーい! わたしも巽君ちに泊まるー!」
ゆかりまでがそんなことを言い出し、巽は数瞬硬直した。
「いえ、あの、それに何の意味が……?」
「ええー? 同じパーティメンバーなのに。友達なのに、わたしだけ除け者にするのー?」
ゆかりがそう泣き真似をし、巽は当然「そんなことはありません」と言う。
「それじゃ構わないよねー?」
笑顔のゆかりに念押しされ、巽は首を縦に振る他なかった。
「それじゃー巽君ちに向かってれっつらごー!」
ゆかりは元気良く拳を突き上げ、三人を引き連れて歩き出す。巽達三人は似たような表情でため息をつき、その後に続いた。
……それぞれの可愛らしさや魅力を持つこの三人との一夜は、今日の狩りと同じくらいに巽を疲れさせた。
巽のアパートの風呂場を三人が使い、その間巽は外出し、
「巽君、服貸してくれるー?」
着替えを持ってきていなかったゆかりが巽のTシャツを借りてそれを着――それだけを着て。ブラも外してしまい。
「やっぱり巽君おおっきいねー」
とゆかりは笑っているが巽は視線を逸らし、心の中でひたすら般若心経を唱えている。しのぶもゆかりの真似をして巽のTシャツを借りてそれ一枚となっているが、やはり体格の差は歴然であり、戦闘力の差は圧倒的だった。「ぶかぶかのTシャツ一枚」は同じでも、しのぶの場合は子供が父親の服を着ているような微笑ましさがあるのに対し、ゆかりの場合はまさしく「事後に恋人のシャツを借るの図」だ。
「んー、この煮物美味しい! お酒が進むわー」
ただ、溢れんばかりのその色気はゆかりの言動によりあっさりと帳消しになっていた。手酌でぱかぱかとグラスを空け、あっと言う間に一升瓶を空にし、吐きそうになってトイレに放り込まれている。吐くだけ吐いたゆかりは一升瓶を枕にし、畳の上で大の字になっているが、それは百年の恋も冷めるような無様な姿だった。
「はあ……やっと寝てくれたか」
巽の目の先には白目をむいて寝転がるゆかりの姿がある。それはまるで水死体のようであり、ぱんつが丸見えになっていてもあまり嬉しくはなかった。
「それじゃもう寝るか」
「はい、そうですね。お休みなさい」
美咲はゆかりを蹴りどかして横になれるスペースを二人分作り、そこでしのぶと一緒に睡眠を取った。巽は台所に避難し、そこで一夜を過ごすこととなる。
そして翌日。美咲達三人を家に残して巽は朝早くからアルバイトに行ってしまう。鍵は美咲に預けていて、ある程度の時間になったら彼女達は新居へと移動する予定になっていた。
時刻はあっと言う間に夕方になり、巽は残業せずに定時でアルバイトを終える。巽が三人の新居に向かうと、引越作業自体はもう終わっているようだった。
「よう、こんにちは」
「ああ、おつかれさまです」
巽は美咲から鍵を返してもらい、招待されて家の中へと入った。巽はまず台所を見せてもらうこととする。台所と居間は襖を隔てて隣り合っていて、それぞれ八畳はありそうだった。
「ふむ……もう色々と揃えたんだな」
「必要最低限です」
台所にはガスコンロや炊飯器などが置いてある。包丁やまな板、何種類かの鍋も用意されていた。
「冷蔵庫と電子レンジはゆかりさんに持ってきてもらう予定ですが、他は今日買ってきました。……結構お金かかりますね」
と美咲はため息をつく。巽は「そりゃあな」と相槌を打った。
「来週はレベル一〇を二、三匹狩って、取り戻さないと」
「生活かかってるもんな」
台所から居間へと移動した巽は周囲を見回した。
「深草と紫野さんは?」
「ゆかりさんは、自分の引越の準備があるからと帰っています。明日わたしとしのぶ先輩で手伝いに行かないといけないんです……」
心底憂鬱そうに美咲が言い、巽は「頑張れ」としか言えなかった。
「しのぶ先輩は……自分の部屋で休んでいるんでしょうか」
そんな話をしているとちょうど二階からしのぶが降りてくるところだった。
「ああ、おつかれさまです。花園さん」
「おつかれ。これでまともな生活ができそうだな」
その言葉にしのぶは「あはは……」と笑ってごまかそうとした。
その後二、三言葉を交わし、巽は彼女達の家を後にする。百メートルほど離れたアパートの自室に戻ってきて巽はまず窓を開け放って空気の入れ換えをし、その間にシャワーを浴びた。風呂から上がった巽はトランクス一枚で窓際に立ち、涼しい夜風に当たりながら麦茶を飲み干している。
「ああ、巽さん……」
その姿を、しのぶが自分の部屋から双眼鏡で見つめていることを巽が知る由もない。
その週の週末。ゆかりが大阪市内から引っ越してきて、三人のシェアハウスがようやく始まろうとしていた。
「わたしが引っ越すって言ったら大家さん泣いて喜んでさー。失礼だと思わないー?」
そう言って頬を膨らませるゆかりに対し、巽はノーコメントを貫いていた。
「荷物はさほど量がなかったので荷造り自体はそれほど大変ではありませんでした。ただ……ゴミが」
と美咲が目を逸らしている。
「ゴミの処分は引越業者の人にお願いしましたけど、あれは大変だろうと思います」
としのぶは声に同情をにじませていた。
仕事帰りの巽は引越の手伝いがあったら、と思ってやってきたのだが、荷物の搬送は引越業者が全てやってしまい、荷解きは巽が手出しできることではない。
「巽君ほらほらー! こーゆーのは好きー?」
ゆかりがドピンクのスケスケのブラジャーを振り回し、美咲にハリセンで殴られている。巽は「手伝えることがない以上ここにいる必要はない」と判断、速やかに退散することとした。
「それじゃ帰るけど、何かあったら電話してくれ」
「はい。ありがとうございます」
そうして巽は自分のアパートに帰っていく。ゆかりから救援を求める電話がかかってきたのは翌日、日曜の夜のことである。
『ごめんー、今からそっちに行っていいかなー?』
ちょうど夕食の用意をしようとしているところにそんな電話が入ってきて、巽が返事をする間もなく通話が切られる。そしてほんの数分でインターホンが鳴らされ、ドアを開けるとそこにはゆかりが、美咲が、しのぶが立っていた。美咲は重箱を風呂敷に包んで、手に提げている。
「まあ……どうぞ」
巽は三人を部屋の中へと招き入れる。しばらくの後、巽の部屋の居間で、四人が卓袱台に着いて向かい合う状態となった。
「それで、どうしたんだ?」
「それがねー。昨日と今日、美咲ちゃんが晩ご飯作ってくれたんだけどさー」
美咲が「これです」と風呂敷を解いて重箱を開ける。中には、
「……おにぎり?」
二段の重箱に入っていたのは全ておにぎりだ。海苔巻き、とろろ昆布巻き、巻ものなしと、外見でまず何種類か。具材でさらに何種類かに別れているものと思われた。
「へえ、おいしそうだな」
「はい、自信作です」
と胸を張る美咲。が、
「でも二日続けておにぎりはないわー。おにぎりだけはないわー」
とゆかりは首を振った。美咲は頬を膨らませる。
「文句があるなら自分で作ればいいでしょう」
「あ、あの、わたしは作ってもらっている立場ですし……コンビニのおにぎりよりずっと美味しいですし」
としのぶは特に不満はないようだった。ゆかりは卓袱台を叩いて憤懣をぶちまける。
「おにぎりをアテにして酒を飲めってーの?!」
「飲まなければいいでしょう!」
美咲もまた対抗して大声を出した。
「わたしに死ねってーの?!」
「いっぺん死んだらどうですか?」
対峙する二人の間に巽が「まーまー」と割って入る。それで言い合いは一旦中断した。
「それで……まあ、ここに来た理由は想像がついたけど」
とため息をつく巽に対し、ゆかりは満面の笑みを見せた。
「巽君、おかず作って!」
巽は再びため息をつく。美咲としのぶは恐縮しながらも、
「こちらからはこのおにぎりを提供します」
「あ、あの、手伝いますから」
巽は三度ため息をつき、そして立ち上がった。
「でも四人分も材料があったかな……ああ、業務用スーパーで買った胸肉があったな」
巽は手早く料理に取りかかった。フライパンで鶏肉を茹でる一方で胡麻のソースを作り、キュウリやキャベツを千切りにする。茹で上がった鶏肉を棒で軽く殴って手で裂いて盛り付けて胡麻のソースをかけて、棒々鶏の完成である。
「さあ、召し上がれ」
「ありがとうございます」
「いただきます。おにぎりも食べてください」
「やっぱりこれよこれ! いただきまーす!」
四人が卓袱台を囲んで食事をする。美咲やしのぶが棒々鶏に舌鼓を打つ一方巽はおにぎりを頬張り、ゆかりは手酌で焼酎を飲んでいた。ただ、ゆかりの飲むペースはいつもより少し遅い。
「巽君、明日からうちでご飯作らない?」
ゆかりが突然そんなことを言い出し、巽は目を瞬かせた。思わず美咲やしのぶの方を見るが、二人は沈黙したままだ。ただ、反対しているわけではないようだった。
「えーっと?」
「まともに料理できるのが巽君だけなのよー。冒険者は身体が資本て言うじゃないー、せっかくこうしてパーティを組んでるんだから助け合うってことでさー」
そう言いながらゆかりは巽にしなだれかかる。ゆかりの体温と身体の柔らかさにどぎまぎしながら――またその酒臭さに閉口しながら、巽は距離を保つべくその身体を押した。
「その、材料費は全部わたし達が出すことにして、後片付けもわたし達がすることにすれば花園先輩だけに負担をかけるわけでは……」
「あ、あの、手伝いますから」
と美咲としのぶもその方向で話を進めている。巽はおにぎりを頬張りながらも少し考え、
「別に構わないぞ?」
ごく気楽な調子の巽の返答に美咲は思わず問い返した。
「え、本当に?」
「一人分も四人分も手間としてはそこまで変わらないし、一人じゃまとめ買いをしても食い切れないこともあるからな。俺としても好都合だ」
「やったー! ありがとう巽君!」
とゆかりが巽に抱きつき、巽はそれを押し退けた。
「ああ、でも材料費はきっちり四等分でいこう」
「いえ、そこまで甘えるのは」
巽の提案に美咲達は難色を示すが、巽の姿勢もまた強固だった。
「でもお金のことなんだからちゃんとするべきだろう」
「ええ、その通りです。巽先輩だけ負担を重くして、それで良しとするわけにはいきません」
「でも俺、お前等の倍くらい食うぞ? 四等分でちょうどだろ」
かなりの時間にわたって話し合いが続けられ、結論としては巽の主張が容れられ、食費は完全に四等分とすることとなった。
「俺一人に負担をかけたくないんだったら、二人とも料理を覚えたらいい。鷹峯は今もこれだけ作れるんだからすぐに覚えられるさ」
そう言っておにぎりを頬張る巽に、美咲は諦めの苦笑を見せた。
「そうですね。なるべく早く覚えます」
「が、頑張ります」
としのぶ。三人の間に和やかな空気が流れていく。
「巽くんー、お酒の買い置きはないのー?」
ゆかりが空の焼酎瓶を振り回してその空気を攪乱した。巽達は視線で意志を一つとする。
「あと、お酒などの嗜好品は各個人の負担にしておこう」
美咲としのぶが「異議なし」と声を揃える。ゆかりが「えー!」と抗議の声を上げているが、耳を貸す者は誰もいなかった。
そして次の狩りの日。場所はメルクリア大陸、マジックゲート社ヴェルゲラン支部の前。
「ええっと……ああ、いたいた」
巽はゆかり達三人の姿を発見した。巽が三人へと近付くが、彼女達の挙動が不審である。ゆかりがにやにやしているのは珍しくないが、美咲としのぶは何故だか恥ずかしがっているような様子だった。
「おはよう。どうしたんだ今日は? 先にこっちに来るって……」
巽が起きたとき、スマートフォンにはゆかりからの『先に行くねー』というメッセージが入っていて、彼女達は一足先に梅田へと向かっていた。巽はそれを追い、ようやく追いついたのだ。
「近所なんだから一緒に行動すればいいのに」
と思いつつも、何らかの理由があったのだろうと信じている。
「その、大した理由ではないのですが……」
躊躇っていた美咲だが、やがて意を決した。
「おはようございます。巽先輩」
「お、おはようございます。た、巽さん」
少女達は顔を赤らめながらも巽の名を――名字ではなく個人名を呼ぶ。あてられた巽は「お、おう」と応えるのが精一杯だ。
「おはよー、巽君」
とゆかりはいつもの調子である。そう言えばこの人は最初からこの呼び方だったな、と思いながらも彼女に問うた。
「紫野さん、これは……」
ゆかりが突然「ノン!」と強く言い放ち、巽は口を閉ざしてしまう。
「『ゆかり』ちゃん。りぴーと・あふたー・みー」
下手くそな英語でそう言われ、巽は途方に暮れたような顔を二人へと向けた。二人もちょっと困ったような笑顔を巽に見せる。
「その、ゆかりさんの提案で、パーティメンバーは名前で呼び合うべきだと……」
「わたし達はもう名前で呼ぶようになっていますし、た、巽さんだけ名字で呼ぶのもどうかと思って……」
二人は気恥ずかしさを隠して巽に要求した。
「わたしは年下ですし、『美咲』と呼び捨ててもらって構いません」
「あの、わたしも呼び捨てで『しのぶ』と呼んでください」
「わたしは『ゆかりちゃん』って呼んでねー」
とゆかりは小首を傾げて可愛い子ぶっている。巽は「それはないから」と冷静に告げた。
「さあさあ! 名前を呼ばなきゃ先に進めないよー? 狩りに行く時間がなくなっちゃうよー?」
とゆかりは楽しげだ。このために、俺に余計な時間を与えないために三人で先にこっちに来たのか、と巽は理解した。……この事態を受け入れる他ないということも。
「ああ、もう。判ったよ。それじゃ行こうか」
開き直った巽は、彼女達の名を、仲間達の名を、満腔の信頼を込めて呼ぶ。
「しのぶ」
「美咲」
「ゆかりさん」
はいはーい、と元気よく返答したのはゆかり一人だ。しのぶと美咲は息が止まったような顔で硬直している。巽は思わず「お前等が名前で呼べって言ったんだろ!」と噛みついた。
「もういい、行くぞ」
身を翻し、巽は先に歩き出す。しのぶと美咲が慌ててその後を追った。
「ま、待ってください。巽さん」
「今日も頑張りましょう、巽先輩」
微笑むゆかりが最後を歩き出す。そうして彼等は狩り場へと向かって歩いていった。一歩一歩、着実に前へと向けて。




