恋は思案の外
その日、あの人のアドレスを消去した。指先は一度躊躇うが、押した後は雲の隙間から覗かせる陽の光が射し込む光景に似た感覚だった。
好き、愛してる。
甘い囁きはなくて、肌の温もりを確かめ合う。言葉にしなくても呼吸で表すこと。
全ては私の勘違いだと明確になったのは、あの人の薬指に銀色の輪が付いていた。それも、世間がクリスマスカラーで彩られる時期にーー。
思い出を辿らせる。
ワイシャツとスラックス姿に、今思えば一目惚れだったこと。
通り過ぎる度に、胸の奥が熱くなる。声も、仕草も、そして……そしてーー。
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「ご結婚、おめでとうございます」
日報と伝票を事務所に提出した後に〈岡村課長〉に口頭で業務報告をするに紛れて、その言葉を伝えた。
「言うの忘れていた……。浅田、頼む」
気まずそうな形相で課長は、湯呑みのお茶を啜りながら言う。
「他部署の班長さんも、しっかりと覚えていますのでっ!」
「平田の爺……じゃなくて、平田さんもう少しで定年だから、我慢してくれよ。浅田班長」
「暴言をお構い無しにする人をほっといて、私にはガミガミ叱るのは不公平ですっ!」
私をわざとらしく役職名付きで呼ぶ態度に怒りが膨らみ、言葉に含ませる。
「お先に失礼しますっ! お疲れ様です」
課長と目を合わせないように事務所を後にしようとしていると
「待て、浅田。もうひとつ、忘れていた」
と、呼び止められて、渋渋と会議室に足を運んで行った。
私は岡村さんと両腕を広げる程の距離を取って、いつでも会議室から飛び出せるように扉の前にいた。
「バス……乗り遅れます」
「随分と、荒れている様子だな?」
「目の錯覚ではないのですか?」
「てっきり割り切って、今まで俺と……」
「黙ってたのがいけなかったと、思います」
「世帯を持ってしまった。しかし、俺の私生活のことであって会社での役割は変わりはしない」
「中途半端な関係に益々なってしまいました」
「……上司と部下。それにも満足してくれないのだな?」
「説得してるつもりでしょうが、置き去りにされた私の気持ちは迷走してます」
「すまなかった」
「もう、いいです。今度こそ失礼致します」
以来、私達が外で会うことはなくて、お互いそれぞれの役割で慌ただしい日々を過ごしていく。
季節は廻る。
夢中で仕事をこなして、課長に指導を受ける。
桜が満開になる頃、私が変わらず抱いていた夢が叶った。
◎〔辞令〕浅田志帆を4月1日より正社員に登用する。
「おめでとう」の言葉と一緒に用紙を受け取った。
「ありがとうございます」
「よく、頑張った。だが、これからが本当に大変だからな」
「はい、十分に承知致してます」
「一人立ち……ちゃんとしてくれよ」
「はい」
「最低でも、三年は会社を辞めるなんてしないでくれ」
「解りました」
課長は右手を差し出す。顔は柔らかく、眼差しは真っ直ぐと私に向かれていて視線を逸らせることなんて出来ず、手を重ねていった。
「育てて頂いたご恩は忘れません。更に先を目指したいです」
「でかく、言うな?」
「会社で右に出るものがいない。そんな理想を掲げてです」
「そうか……」
手はゆっくりと解れ、私は課長に深く一礼をする。
会社を出ると、近くの保育園の桜は花吹雪を風に舞い上がらせひらひらと、降らせていた。
「浅田さん、もう帰っちゃうの?」
じゃらり、じゃらりと沢山の鍵を鳴らし持つ戸田さんの声に振り返る。
「仕事、とっくに終わってますからね!」
「羨ましい。僕はご覧の通りだよ」
「相変わらず、容赦なしなのですね?」
「岡村さんだろ? 最近やたらと、厳しくてね。おかげで食欲が」
「減ってるとでも? お顔がふっくらとしてますよ」
私がそう言うと、戸田さんは苦虫を噛み締めるような形相をしていった。
「ずっと前約束していて、すっぽかしたままのーー」
「もっと、てきぱきと仕事をこなせる迄は保留です!」
「岡村さんにまだ、鍛えられとけと?」
「その通りです」
ーーやれやれ……。
ハッキリと聞き取れない戸田さんの溜息混じりの呟きの意味を私は解っていてた。
知らない振りする事で、あの人を時間を掛けて思い出に変えていきたかったからだ。
想いは胸の内。
『好き』と、いう気持ちは変わらない。今の私があるのは、あの人のおかげ。
岡村晴一。
私より7つ上の素敵な人。
私に、人と人が繋がるとはどんな事かを教えてくれた人。
それを宝物にして私は、今日も、明日も、明後日もーー。
ーー風を薫らせると、誓う……。




