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 乾杯が済むと、私は自分が置かれた立場をハービソン侯爵に説明しました。彼は度肝を抜かれた様子で、アーティとバーナード様に対して激しい憤りを覚えたようです。


「いくら伯爵令嬢になろうと、アーティとかいう娘は最低の尻軽女だな。イブリン嬢が彼女に愛と理解と支えを与えたことは、普通じゃないよ」


 半世紀前くらいまで、王侯貴族は平民を不浄な存在とみなしていました。触れたら穢れるし、言葉を交わすなどもってのほかだと。ハービソン侯爵は高位貴族ですから、よけいにその傾向が残っているのでしょう。


「貴族社会では、結婚前に間違いをしでかした女が幸せになることは滅多にない。本当に運がよかったな」


 ハービソン侯爵はシャンパンを飲み干し、ため息をつきます。


「イブリン嬢は心が優しすぎる。アーティが貴女にした仕打ちは、たとえ鞭打ちの刑に処しても贖えないというのに。恨み言ひとつ言わず、自分から愛人に手を差し伸べるなんて。アーティは死後に地獄に落ちて、悪魔からあらゆる拷問を受けるだろう」


「ジェイク、もう酔ったか」

 父が苦笑しました。


「酔っていないさ、ただ言わずにはおれないだけだ」

 ハービソン侯爵が眉を寄せます。


「まあ──地獄より現実の方が何倍も怖いかもしれんな。一度浮気をした男はまた浮気をする。一度あったことは二度、二度あったことは三度繰り返すよ」


「……っ!」

 壁際に立つアーティが、うつむいたまま息を呑みました。ハービソン侯爵にはわからない程度に小さく震えています。


 アーティはバーナード様の誠実さと愛情をつゆほども疑っていません。彼から愛されていることが彼女の励みなのです。

 そもそもの発端がバーナード様の浮気であることを考えれば、おめでたくて能天気ですけれど。


 とはいえ、今の時点でアーティに『疑いの種』を植え付けられるのは困ります。その権利があるのは私だけですから。


「ハービソン侯爵様。アーティの義父は優しさと思慮深さを兼ね備え、彼女が新しい人生に立ち向かう手助けができる人間でなければなりません」


 私は厳かに言いました。


「共通の目標、共通の利益のために、連携と協力体制をする必要があるのです。互いへの敬意を育めなければ、大きな利益は得られません」

「……わ、わかった」


 私の静かな迫力に、ハービソン侯爵が息を呑みました。


「では、本日はこれでお開きといたしましょう」


 私はすっと立ち上がりました。膝を曲げてお辞儀をし、執事が開けてくれた扉からするりと廊下に出ます。エリスと侍女たち、そしてアーティが後からついてきます。


「七十点というところね。途中で震えてしまったのがよくなかったわ。私の部屋で反省会よ」

 真っ直ぐ前を向いて歩きながら、私は厳しい声で言いました。

「社交界では、嫌味や皮肉を素直に受け取っては駄目。不安や弱さを見せては駄目。誰が何を言おうと、全部取るに足りないことだと思いなさい」

 アーティはうつむきながら歩いています。


「顔を上げなさい。淑女がうつむいて歩いていいのは、ベールをかぶってバージンロードを歩くときだけ」

「はい」

 アーティが慌てて顔を上げました。


「エリス、しばらく二人きりにしてちょうだい」

 自室の前で私はエリスに言いました。彼女は少し不服そうに「はい」と答えます。


 扉を閉めた瞬間、アーティは肩を震わせて泣き始めました。

「うぇ……ううぅ……」


「……バーナード様に会いたい?」

「うぅっ、ひぅ、えぇぅ」

 アーティが激しくしゃくり上げます。やはり、バーナード様に会いたい気持ちが一気に高まってしまったようですね。


 私は戸棚から小さなブランデーの瓶を取り出しました。

 ティーポットから保温のためのカバーを外し、カップに紅茶を注ぎ入れます。そして、それにブランデーを混ぜました。


「お飲みなさい。ブランデーが神経を鎮めてくれるわ」


 私はアーティを椅子に座らせ、その手にカップを握らせました。彼女は妊娠中ですが、お医者様もほんの少しなら害はないと言っています。それに今は落ち着かせることが何より大切ですし。

 アーティは鼻水をすすり上げ、そっとひと口飲みました。熱くないことがわかると、ひと息に飲み干します。


「あ、会いたいなんて……言える立場じゃ、ないんですけれど……」

 アーティがあえぐような声で言います。


「不安になってしまった?」

 私が問うと、アーティはこくんとうなずきました。


『一度浮気をした男はまた浮気をする』


 自分に対するバーナード様の気持ちに一度も疑問を持ったことがないアーティですが、ハービソン侯爵にあんなことを言われたら流石に揺らいだようです。

 バーナード様は『結婚前に愛人を作ったこと』に対する処分として謹慎している。アーティにはそう伝えてあります。

 彼が落馬して骨折したことを、アーティは知りません。知れば屋敷を飛び出してしまいかねないからです。

 

「アーティ。あの日あの時、バーナード様が私に言った言葉を覚えている? 八大公爵家の令嬢を貶める言葉の数々を」


 私の言葉に、アーティがはっとしたような顔をします。

 今の彼女なら多少なりともわかるはず。あの日のバーナード様がどれほど私のプライドを傷つけたか。八大公爵家に生まれた令息が平民の馬糞係と恋に落ちた、そのありえなさも。


「ミルバーン公爵家の娘相手にあそこまで言い切った人に『一度浮気をした男はまた浮気をする』という俗説が当てはまると思う?」

「……絶対に当てはまらないと思います。そうでなければイブリン様に向かって、あんなことは言えません」


 アーティの涙が止まります。


「私を愛人にすると宣言することは、貴族として……八大公爵家の令息としてありえないことだったと……今ならわかります。バーナード様はよほどの覚悟がおありだったはず。浮気なんてするはずがありません」


 私はうなずいてみせました。

 

(一か月半で随分真っ当になったわね。このタイミングで教育の成果を確認できてよかったわ。あとは、どの方法で気分を上げてやるか……)


 私が脳内の引き出しを開けようとした次の瞬間、扉の向こうで物音がしました。どうやら誰かが立ち聞きしているようです。


「誰ですか、そこにいるのは」


 私が言うとすぐに扉が開き、フレデリック様が顔をのぞかせました。


「立ち聞きするつもりはなかったんだ。ノックをしようとしたらエリスに止められて、どうしようかと考えていただけで」

「わざわざ扉にもたれてですか?」

「あー、うん、まあね」

 フレデリック様が私の言葉に苦笑します。


 彼に会うのは二週間ぶりですが、目が充血していて、随分やつれた顔をしています。目の下に黒い隈があり、疲れ切っているのがひと目でわかりました。

 ふらふらしながら入ってきた彼は、分厚い紙の束を私の手に押し付けました。


「なんですか、これは」

「新作の原稿だよ。アーティとバーナードをモデルに、ロマンス色を濃くした小説を書いたんだ。イブリン、前に言っていたじゃないか。二人の恋物語を題材に、素敵な小説を書いてほしいって」


「まあ……」

 私は思わずぽかんと口を開けてしまいました。これは大変珍しいことです。その証拠に、フレデリック様の後ろにいるエリスがびっくりしています。


「私はてっきり……ついに婚約なさったのだろうと思っていました」

「はあ? なんでそうなるのさ」

 フレデリック様が盛大に顔をしかめます。


「ほとんど毎日のように来ていた人が急に来なくなったら、誰だって『極秘かつ重大な話』が進行していると思いますよ」

「見合いは全部蹴散らしたよ。ここに来られなかったのは、早く新作を見せてあげたかったからでさ。ああもう、私の本気がどうやったら君に伝わるのか……っ!」

 フレデリック様は頭を抱えてしゃがみこんでしまいました。


 いつの間にか立ち上がったアーティが、目をキラキラさせて私の手元を覗き込んできます。

「フェリー・ルイス先生の新作……あの、読んでもよろしいですか?」

「いいだろう、最高傑作だから夢中になるさ。イブリン、渡してやってくれ」

 私はアーティに原稿を手渡しました。


 彼女は原稿を抱きしめるといそいそと椅子に腰かけ、一心不乱に読みふけります。ハービソン侯爵はおろかバーナード様さえもすっかり忘れてしまうほど夢中になっています。

 小説に書かれた話は現実とは違う。いずれはそれを知らないといけない。それでも今は、ロマンチックな小説に胸を躍らせてくれた方がいい。


「ありがとうございます。新作小説がアーティの活力源になることは間違いありませんわ」


 私はにっこり笑いました。

 侯爵令嬢テストまであと二週間、主だった準備は終わりました。あとは未来に向かって一直線に進むだけ──これからの日々は、加速度的な早さで進むに違いありません。



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