4
フェリー・ルイスの小説は令嬢たちを熱狂させているだけあって、装丁がとても豪華です。値が張るので、サビナ通りかルネド通りにある貴族御用達の書店でしか買えません。
私はページをめくり、何の前置きもなく朗読を始めました。
「かつて神の恵み豊かなカークレイ王国に、ラデュアードという名の王子がいた。ある日、彼は下位貴族の娘に恋をして……」
アーティに劇的な変化が起こりました。目の焦点が合わなくなり、得体のしれない表情を浮かべています。まるで夢遊病者か催眠術にかかった人のよう。
ぼんやりとして見えるのは、耳から入ってくる物語だけに集中しているせいで、他のことに意識を割く余裕がないから。
(やはりアーティは、おとぎ話限定で集中力が高い)
アーティの脳にとって一番大切な仕事は、想像の世界でヒロインになりきること。他の物を一切排除して、そのことだけに集中するように発達している。
「……ヴァンス子爵家の娘シンシアのドレスは薄汚れていたが、堂々と背筋を伸ばして立っている。真新しいドレスを着た義妹のキャシーが、勝ち誇った眼差しでシンシアを見ている。しかしシンシアの方が、キャシーよりも遥かに美しい……」
私は『王子様と宿命の花嫁』の第一章を朗読しました。要約するとこんな話になります。
カークレイ王国の架空の王子ラデュアードは、王宮舞踏会でひとりの娘に出会う。着古したドレス姿ながら堂々とした風格があり、誰よりも美しい子爵令嬢シンシアだ。
ラデュアードはシンシアに不思議な魅力を感じ、強く惹かれていく。王子と下位貴族の令嬢という身分差がありながらも、次第に心を通わせる二人。
女性に冷たく、これまで誰にも心を開けなかったラデュアードだが、シンシアには素直に甘えられる。
シンシアは義母から虐められ、実母の形見を義妹に奪われ、実父からはいないものとして扱われていた。
ラデュアードは、何としてもシンシアを救い出し、王子妃にしようと決心した。シンシアの望みも、彼と完全に一致した。しかしそんな二人の前に、王家のしきたりと八大公爵家が立ちふさがるのだった……。
第一章を読み終え、私は本を閉じました。そしてアーティの様子を伺います。彼女は夢から覚めたような顔になり、私にすがりついてきました。
「ああ、やめないで続けて! もっと、もっとお話してくださいっ!」
「そんなに面白かった?」
「はい! どんなおとぎ話もこのお話には負けてしまいます!」
「ミルバーン家と、テイラー家以外の八大公爵家が出てきたのを覚えている?」
「八大公爵家……」
アーティはすっと立ち上がり、胸の前で両手の指を組み合わせました。また目の焦点が合わなくなり、恍惚とした表情を浮かべています。まるで頭の中で、心躍るおとぎ話を再現して楽しんでいるかのように。
「『ラデュアード様、私もあなたが好きです。この感情こそ、私がずっと求めていたもの。でもカークレイ王家が、私たちの結婚を許してくれるでしょうか。テイラー家、ミルバーン家、フォルテリ家、マロラン家、ラクレア家、バーナム家、カーター家、ハリントン家……八大公爵家も、強硬に反対してくるのではないでしょうか』」
アーティの口から言葉がすらすらと出てきました。
彼女が今、ヒロインを演じることを存分に楽しんでいるのがわかります。
レイクンが驚きにぽかんと口を開けてアーティを見ています。ハンソン博士もトーラ夫人も、明らかに驚いている。こんなに早く、この方式の効果を実感できるとは思わなかったのでしょう。
私は立ち上がると、両手でアーティの手を包み込みました。
「素晴らしいわ、アーティ。やっぱりあなたには特別な才能がある」
「え?」
恍惚状態から引き戻されたアーティが、きょとんとした顔になります。
「あなたはおとぎ話を聞くと、その世界に入り込みたくなるのでしょう? 自分もヒロインになりたくてたまらない。そして意識を集中すればするほど、周囲からはぼんやりしているように見えてしまう。馬鹿げた空想をするなって、院長先生から怒られていたでしょう?」
「そ、そうです! おっしゃる通りです!」
「ぼんやりしているあなたに、強すぎるほどの集中力と記憶力があることに誰も気付かなかったのね。お話を聞いている間、聴力まで鋭くなっていたのに。ねえアーティ、その特殊能力は神様から与えられた特別なギフトよ」
「私に……神様から与えられた、特別な才能が?」
「そう、あるのよ。その能力を上手に活用すれば、立派な淑女になるのは難しい話ではないはず。あなたをバーナード様の正妻にする計画は絶対に成功するわ」
「私……いつもいつも、みんなから怒られていたのに。嘘みたい……」
アーティの目に涙が浮かび、頬が薔薇色に染まります。
厳密に言えば、彼女が口にしたセリフは少し間違っていました。
八大公爵家の並びは叙爵された順に、フォルテリ家・ミルバーン家・マロラン家・テイラー家・ラクレア家・バーナム家・カーター家・ハリントン家と言わなければならなかった。
さっき耳で覚えたばかりの六つの家名と、先に覚えたテイラー家とミルバーン家の情報が、まぜこぜになってしまったのですね。
(でも、大したことじゃないわ。上手く整理できるように私たちが導けばいいだけ)
フェリー・ルイスの小説なら、いつまでも聞き飽きることはないでしょう。二巡目からは朗読速度を上げることで知識をどんどん詰め込める。
知識が増えるごとに、私たちが個々の情報を結び付けてやり、王侯貴族の社会の構図をはっきりさせてあげればいい。
「あなたのためにお芝居を上演してもいいかもしれないわ。目で見て覚えた方がいい内容の場合は、小説のワンシーンを完全に再現するの。視覚に訴えて頭に記憶を植え付けるのよ」
私の脳もめまぐるしく動いていました。王族が出てくる芝居の再現など、八大公爵家である我が家にとっては造作もないこと。
「そうなると、演者として貴族出身の使用人たちの協力を仰がなければならないわね。アーティがより集中できるように仮面をつけさせて、ドレスもタキシードも宝石も勲章も、我が家にあるものを余すところなく使いましょう。王室から下賜された品々も小物として使えば、よりリアリティが出るわね」
「なんて素敵、きっとロマンチックだわ……」
アーティがうっとりとため息をつきます。
私はハンソン博士とトーラ夫人に目を向けました。
「ハンソン博士、朗読の交代をお願いします。トーラ夫人はアーティのサポートを。第一章は比較的平易な言葉で書かれていましたが、第二章から難しくなってくるので補足してあげてください。私とレイクンはこれから、視覚に訴える授業について細かく検討します」
レイクンの「僕も!?」という声を聞いて、私は「もちろん」とうなずきました。それからアーティの方を向いて、優しく笑って見せます。
「アーティ。人からは奇妙で突飛だと思われていたあなたの脳は、実はとても頼りになるわ。しばらくの間、ハンソン博士の朗読にうっとりと身をゆだねてね」
「はい、イブリン様。これなら私集中できます。『淑女の心得』にはちっとも興味が持てなくて、教育じゃなくて指図としか思えなかったんです。でも『王子様と宿命の花嫁』を読んでもらって、イブリン様は本当に私のことを考えてくれているんだって、心から感動しました!」
嬉しそうに言うアーティの声に、信頼の響きがあることに私は気づきました。ゴロゴロ喉を鳴らす猫に懐かれた気分です。
私は笑みを保ったままハンソン夫人に本を手渡し、レイクンと一緒に部屋を出ました。
パタンと扉が閉まった瞬間に、私はすっと笑顔を消します。
「せいぜい頑張ってちょうだいね。でも私の『計画』というお芝居の中では、あいにくあなたは主役じゃないの。主役はあくまでも、この私」
小さくつぶやくと、レイクンがぞっとしたような顔になりました。いやだわ、私の顔はそんなに怖かったかしら。
「さあレイクン。アーティを無我夢中にさせるための、楽しいお芝居の計画を立てるのよ」
私は「ふふ」と微笑み、流れるように歩き出しました。
そして、それから瞬く間に一週間が過ぎました。アーティの教育はすべて順調、極めて順調──彼女がバーナード様を恋しがって泣くことは、ただの一度もありませんでした。
お読みいただきありがとうございます。
本日10時、第8章(バーナード視点)を更新いたします。何卒よろしくお願い申し上げます。




