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幕間 俊熙の大左遷

 春帝国の皇帝の、その政務の場である大極殿。

 宮城の中にある数多の建物の中でも、抜きん出て大きく、壮麗である。梁には銀の飾りが穿たれ、軒の裏には細かな彫刻が施されており、屋根に伸びる柱は彩色豊かだ。

 建物は白い二層の基壇の上に築かれており、階段を最上段まで上ってそこから見渡せば、宮城中を眼下に収めることができる。


 太極殿の奥には玉座があり、浅葱色の衣を纏った皇帝が座っていた。

 皇帝の横に控え、その手足となり、時に助言すらする侍従の俊熙が、今日は皇帝の隣にはいない。

 彼は今日、皇帝の前に膝をつき、(こうべ)を垂れている。

 皇帝の近くには初老の宰相が立っている。

 そして宰相の少し後ろには、見目麗しい若い女官たちがいる。彼女たちが手に持つのは、龍の首をかたどった水瓶と盃だ。

 皇帝が所望すれば、いつでも水を差し出せるよう、ずっと控えている。

 広い太極殿の中は灯篭が吊るされ、更に蝋燭が灯された大きな燭台があちこちに置かれていて、明るい。


 天井からは錦模様の細長い緞子(どんす)が何枚も垂れ下がり、その下で焚かれる大きな香炉の煙のせいか、ゆらゆらと揺れている。

 皇帝から少し離れた床には、赤色の分厚い長座布団が置かれている。

 俊熙はその座布団の上に両膝をつき、低頭した。

 そこへ皇帝が声をかける。


「俊熙。今朝、翰林学士の劉宇航(ユーハン)の自宅へ行ったというのは、本当か?」


 はい、と答えながら俊熙は更に頭を下げる。

 膝下の座布団のお陰で足は痛まない。だが、頭を上げるお許しがまだ貰えていないので、不自然な姿勢を取らされ続けている首が痛む。

 皇帝の前には、俊熙を殴打した宇航もいた。灰色の長い髭を顎先から垂らした、初老の官吏だ。

 彼からはすでに事実関係を聴取済みであった。


「馬車が急停車し、劉 宇航――余の義理の大叔父上は肘を打撲された。俊熙、子忠は謝罪の言葉もなく、その上車内をあらためようとしたそうじゃないか」

「被害の程度を確認する為です。そもそも子忠は、轢かれそうになっていた幼子を助けようとしたのです」


 すると宇航は目を吊り上げ、唇を尖らせた。


「私の馬車より浮浪児が優先されるとでもいうのか! ましてや、宦官ふぜいが、許しもなく私の馬車に乗り込んでこようなど、無礼にもほどがある」


 唾を飛ばして文句を言い、まだ続けようとする宇航を皇帝が片手で制止する。皇帝は頭を下げたままの俊熙に言った。


「子忠はお前の部下だ」


 俊熙はこれ以上は下げられないほど、頭を下げた。

 額が既に木組みの床につき、膝は厚みある座布団の上にあるので、背中全体が軋む。

 顔が下を向いているので、このままの状態で話しても、皇帝まで声が届きにくい。俊熙は息を吸い込み、やや大きめの声で言った。


「部下がこのような騒ぎを起こし、申し訳ございません」

「俊熙、余に対してではなく、大叔父上に謝罪するのだ」


 皇帝に促されるが、俊熙は口を開かない。

 苛立った皇帝が再度、謝罪を促す。


「俊熙!」


 俊熙は少し体勢を動かし、宇航の方へ頭を向けた。そうしてそのまま、再度叩頭く。


「私の監督不行き届きにございます。誠に申し訳ございません」


 皇帝はようやく俊熙に頭を上げるよう、命じた。

 ゆっくりと俊熙が上半身を起こすと、その場にいた皆がハッと息を呑んだ。

 俊熙の右頰に青黒い大きな痣ができていた。

 左の目の横にも赤い痣があり、切れ長の瞳が少し腫れている。

 石英のように白い俊熙の肌との対比が、あまりに痛々しい。

 皇帝はその顔を見て心を痛め、つい目を逸らした。

 そして耐えるように握りしめた指の爪先を、手の平に食い込ませた。

 苦渋の決断ではあるが、下さなければならない。

 この太極殿で皇帝が出す結論は、常に全て即座に皇太后に伝わる。そしてそれ以前に、この事件の処理方法に関しても、皇太后が既に口出しをしており、彼女は皇帝がそれに逆らわないことを、半ば確信している。


 皇帝は大極殿にいる全てのもの達に聞こえるように、腹に力を入れ大きな声で宣言した。


「蔡 俊熙。内侍省内常侍の任を解き、錦廠(きんしょう)に異動させる」


 大極殿に居合わせた官吏達は、どよめいた。

 錦廠といえば、窓際部署として有名なのだ。

 たいした仕事もなく、元々売官で私服を肥やしていた何代前かの吏部尚書が、官吏の人数を増やす為に無理やり作ったのが発端だと言われている。

 別名、「人材の墓場」だった。

 それは誰が聞いても、大左遷だ。

 騒つく周囲を無視し、皇帝は皇太后の叔父に言った。


「子忠も同じく配置換えをさせます。――ですので、どうかすぐに釈放を」


 宇航は、もったいつけた焦らすような素振りで、頷いた。


「皇帝陛下のお望みとあらば」

「大叔父上も責任が全くないわけではありません。半年間、州刺史(ちょうかん)として平雲州への赴任を命じます」


 それは名目上の懲戒でしかなかった。

 州刺史――つまり地方長官は大変な高給取りで、寧ろ私腹を肥やしたいもの達には大変人気がある職だった。その上、平雲州は帝都からそう遠くなく、経済的に豊かで風光明媚な地でもある。

 更には、半年という期限付きなのだ。


 皇帝は皇太后の外戚を罰することができない――大極殿に集った官吏達は、皆その事実を突きつけられた。

 皇太后の叔父は、満足そうにほくそ笑みながら、頷いた。


「仰せのままに」


 ひとりの宦官が馬車を止めさせたことに端を発したこの事件は、結果的に皇太后天下の現状を広く世に知らしめた。

 だが、不当にも最も重い処分を受けた俊熙が、低頭しながら不敵な微笑を浮かべていたことに、その時は誰も気がつかなかった。



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