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73 白いしっぽと見えない私 前編


 目を開けると、白い世界が広がっていた。

 白い――草庵と荒れた庭を覆う雪景色が脳裏に浮かぶ。まだ夢の中にいるのだろうか。一度瞬きをして見上げれば、ぼやけた視界にひょいと人の顔が現れた。


「やあ、おはよう。気が付いたかい?」

「……夏貴さん?」


 聞き覚えのある柔らかな声は、義兄である大神夏貴おおがみ なつきのものとよく似ていた。

 目を凝らすと、優しげな垂れ目に泣き黒子、役者のように端正に整った顔が見える。夏貴さんの顔の向こうには白い天井があり、周囲は白いカーテンと壁で覆われていた。

 ……ここはどこで、なぜ夏貴さんがいるのだろうか。声で問わずとも視線でわかったのか、夏貴さんが安心させるように目元に笑みを浮かべる。


「気を失った君を、僕が病院に連れてきたんだ。君を助けるように義兄にいさん……達央たつひささんから頼まれてね」

「……兄さん、から?」


 兄の名前が出てきて、私は束の間混乱する。

 だが、すぐに電話越しの兄の声が蘇り、同時に、震える白いしっぽが瞼の裏にちらついた。

 気を失ったこと、その前に起こった出来事を思い出して、私は息を飲む。


「っ、ゆきお…!」

「急に起き上がったら駄目だよ。一応検査はしたけど、安静にしておかないと」


 勢いよく身を起こそうとする私を、夏貴さんが肩を押さえて制した。そうして寝かせたまま、ベッドを操作してリクライニングで上半身を起こしてくれる。


「すぐに呼んでくるから、大人しく待っていなさい」


 笑顔ながらも強い声で夏貴さんに言われて、私は渋々彼の背中を見送った。

 見下ろした自分の身体は、入院中に患者が着るような衣服を纏っていて、なんだか落ち着かない。


 私が気を失った後、何があったのだろう。

 雪尾は無事だろうか。なぜ側にいないのだろうか。


 考えることはたくさんあって、不安が募る。閉じられたドアを縋るように見つめていれば、忙しない足音が聞こえてきた。

 音も無くスライドしたドアの外にいたのは、灰色のコートを着た青年だ。見慣れたショート丈のダッフルコートと、コートの下からは黒いエプロンが覗いている。顔の造作ははっきりと見えなくとも、それが誰か分かった。


「……高階君、ですか?」


 どうして高階君がいるのか。また一つ疑問が増えるが、彼なら雪尾を見ることができるし、何か分かるかもしれない。勢い込んで、私は声を張り上げる。


「雪尾はっ……雪尾は、どこにいますか!?」


 必死の問いかけに、高階君は答えなかった。沈黙と共に空気が張り詰めていく中、彼の口元が開きかけて、きつく閉じられる。

 眼鏡が無いからはっきり見えないはずなのに、彼の目が私を――いや、正確には私の足元を見ていることが解った。


 そして、唐突に気づいた。


 ああ、もしかして――


 ゆっくりと正面を向いて、ベッドのシーツの上を見下ろす。

 少しだけ皺が寄った、何もない、白いシーツの上を。


 目は頼りなく揺らいで、ただでさえぼやけた視界が、余計にはっきりしなくなる。


 そこに、いるの?

 あなたは、いるの?


「……雪尾?」


 名を呼ぶ声は、震えていた。

 鈍くなっていた心が声に感化するように震えて、今頃になって強い波のように衝撃を与えてくる。どくどくと胸にせり上がるものが声を掻き消して、掠れた息が零れた。


「ゅ……」

「雪尾さんっ!」


 ほとんど息と同化した私の小さな声に、高階君の声が被さった。

 病室を突っ切ってきた彼はベッドの横のカーテンを開いて、窓の外を見る。さらには窓を開けて上半身を乗り出し、何かを探すように辺りを見回した。窓枠を掴む彼の手には力が籠り、横顔は何かを堪えるように強張っている。


「……俺、探しに行ってきます」


 そう言って、高階君はいきなり身を翻した。

 その後ろ姿を、私はただ見つめるだけしかできなかった。頭の中は麻痺したように考えることを拒否していて、何が起こっているのか、そして何が起こったのか、状況が把握できない。

 やがて、重い静寂に静かな声が響いた。


「……未緒みお


 名前を呼ばれて、はっと我に返る。

 声の方を見やると、兄の達央が真顔でベッドの脇に立っていた。切れ長の黒い目が、静かに私を見つめている。

 兄の顔を見た途端、様々な感情が湧き起こった。泣きたいような、怒りたいような、自分でも分からぬ感情がごちゃ混ぜになっている中で、不思議と冷たい雪に触れたときのような、すうっとした感覚が流れ込む。


 ――落ち着け。落ち着いて。

 泣くよりも怒るよりも先に、しなくちゃいけないことがある。


「っ……」


 ぐっと拳を握って堪え深呼吸を一つした後、私は兄を見上げた。


「……兄さん、ちゃんと説明して。全部教えて。私と、雪尾のことを」


 ぶつかった視線の先の黒い瞳は、揺らぐことなくしっかりと頷いた。


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