47 白い犬神と青い切子(後編)
雪遊びに興じた冬の日から数日後、風邪から回復した妹は父に頼んだ。
しっぽだけしか見えないけれど、犬神と一緒にいたい、と。
父があっさりと承諾したのは、妹の決断を優先すると決めていたからだろう。もっとも、頬を紅潮させて勢い込む妹の姿や、その妹にぴったりと身体としっぽを寄り添わせて絶対離れるものかと勇む犬神の姿を見れば、反対できないだろう。
妹に『雪尾』と名付けられた犬神は、白瀬家の次女の犬神として新たに受け入れられたのであった――
カラリ、と澄んだ音が手の内で鳴る。氷の音に回想から引き戻され、掌の冷たいグラスを見下ろした。透明なはずの酒は青い切子のグラスの中で色づき、窓の外からの仄かな明かりに揺れる。
「……時々、不思議に思うことがある」
揺れる青い光を見下ろしながら、呟く。
「どうして雪尾の姿が……正確にはしっぽだけが、あの子の目に見えるようになったのかってね」
白瀬の筆頭犬神や他の姉妹の犬神の姿は見えないのに、どうして雪尾だけが見えるようになったのか。
まるで、妹と離れるのを阻止するため、妹に存在を知ってもらうために、何らかの力が働いたように思える。
視線を隣へとやれば、白姫が動揺することなく静かに視線を返してきた。すでにグラスを空にしていた白姫は、くあ、と小さな欠伸を零す。
『なぜ我に尋ねる。あの二人の絆とやらが深かったのであろうよ』
「絆とは、またロマンチストのようだな」
『冷やかすでないわ。咬むぞ』
「それはやめてくれ」
くすりと笑う俺を、白姫は青い目を眇めて睨むように見てきたが、やがて組んだ前脚にぽすりと顎を乗せた。
『……あれは、あの仔が望んだこと。我はただ、方法を少し教えただけよ』
頭の中に響く声はいつもよりも細く、頼りなく揺れる。
『片割れの力を喰らい、あれは強い力を得た。しかし、あれは力を望んでなぞおらなんだ。ただ、あの子に気づいてほしいと、触れてほしいと、一心に願っておった』
月明りがグラスの色を床に落とす様は、二つの青い目が暗い部屋に浮かんでいるようにも見えた。
『犬神としての役目ではなく、片割れと共に生きることを選んだ』
幼く力の無い霊魂のままでは気づかれにくい。だから力を使い、一晩で成獣の姿へと変化した。肉体を持たぬ霊魂を固定するために無理に使用した力は、おそらく百年分と言わぬだろう。尻尾に力を蓄えることで霊力が低い主にも見えるようにして、常に力を放出することで主との結びつきを強くした。
主に姿を見てもらい、触れてもらった雪尾は歓喜した。だが、その代償は高くつく。
犬神としての長命と役目を捨て、雪尾はただ主だけを守り、側にいるだけの存在となった。その存在を保てるのも、せいぜい百年といったところだ。
可愛い仔。
哀れな仔。
……愛しい、愛おしい、我が同胞。
きっと、雪尾は白姫よりも早く消えるのだろう。
主と共に、先に去ってしまうのだろう。
解っていても、白姫は雪尾の願いを叶えた。
『……我らは、主の魂の片割れ。本来であれば、主と共に生まれ、生き、そして主と共に去るのが道理なのであろう。しかし肉体を持たぬ我らは、主よりも長く生きてしまう』
かつて白瀬の犬神の始祖となった、一匹の山犬。
彼は白瀬の当主であった女性が亡くなった後、魂を子孫に託し、春の名残の雪の上に足跡を残して、主の後を追うように姿を消した。
しかし生まれた犬神達は長命で、主を失った犬神達は白瀬家の筆頭犬神や他家の犬神として役目を得て、力尽きるまで家を守っている。
『どちらが、哀れなのであろうな……』
答えの無い問いを訊ねるような、諦めを含んだ白姫の声に、俺はつと思い出す。
昔、祖父から聞いたことがある。
白姫の主は、曾祖父の大叔母に当たる女性であった。
白瀬の直系として生まれた彼女は身体が弱く病気がちで、他家に嫁ぐ前に亡くなった。主を失った白姫は力が強かったこともあり、筆頭犬神の候補として白瀬の家を守ることになったと、そう聞いていた。
「……寂しいか?」
魂の片割れを失って。
ただひとり、この世に取り残されて。
俺の問いに、白姫は青い目をゆっくりと伏せた。ゆらゆらと暗い床の上で揺れていた青い光もまた、雲が空を覆い窓の外からの光が途切れたことで消える。
沈黙と闇が落ちる中、小さく息を付いたのは、俺だったのか。それとも白姫だったのか。
やがて月の光が戻ったとき、灯った青い目に宿るのはいつも通りの冷たく強い光だ。
『……世話の焼ける未熟な主達がおるからの。寂寥に浸る間も無いわ』
ふん、と尊大に鼻を鳴らす姿は、白瀬家を二百年近く守り、次期筆頭犬神となる気高き女狼のものに相違ない。
強く美しい青い目を見つめ、俺はふっと苦笑を零した。
「やれやれ、手厳しいな」
『お主の倅らもまだまだ手がかかりよるしのう。これからの百年も退屈することはなかろうて』
ほほ、と氷の音のように涼やかな笑い声を響かせた後、白姫はグラスを鼻でくいと押す。
『ほれ、何をしておる。さっさと注がぬか、気が利かぬ青二才め』
「これは失礼いたしました」
肩を竦めて、二つの青い切子のグラスに酒を注ぐ。
そしていつものように、何でもないことをつらつらと語り出すのだ。何事も無かったように。
「ああ、そう言えば、妹達に何かお詫びの品を送ろうと思うんだが、何がいい?」
『あの仔は相変わらず牛の乳が好きであろう』
「雪尾は牛乳で決まりか。うーん、あの子には何にしようか…」
『あやつは甘い菓子が好きであったろう。「まどれえぬ」とか…「ふなんせ」とか言ったかの』
「ああ、フィナンシェか。よし、じゃあそれにするか」
『我に決めさせるでないわ。少しは己で考えよ、愚か者め』
他愛も無い時間が過ぎる。
犬神達にすれば、きっと瞬きのような短い時。
されどもそれは、犬神と主を繋ぐための大事な時。
俺は静かに噛み締めながら、青い光を飲むようにグラスに口をつけた。




