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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
雪山を行く狼連れの傭兵
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猟師の帰還

 数体となったオークが後退したころ、傭兵は三人の死者を出していた。

 怪我人は多い。戦える傭兵は十三人。残りは下げざるを得なかった。代わりに酒場で休んでいた、まだ状態のましな男を引っ張り出して石を持たせている。村人も動けそうな者は同様に投石兵として配置している。完全な非戦闘員は酒場の地下室に籠めて息を潜ませている。

 打って出たことに後悔はない。ああしなかったら堀に取りつかれていた。堀を登り切られ、自陣に乗り込まれたら敵味方の士気に影響する。ようやく戦意を挫きかけたのに、敵に下手な希望を見せたくなかった。


 疲労は濃い。一度やんだ攻撃に、身体が休息を欲してどうしても気が緩む。呆然と座り込む傭兵もいて、死んだ仲間を回収することもない。闘技場で文字通り何度も死を乗り越えてきたウェンターですら、殺したオークの骸に腰掛けて目を瞑っていた。

 イアン自身も立っているのがやっとだ。刃毀れした鉄剣を足元に突き立てて身体を支えている。気が呆けて、ともすればいつまでも北の山を眺めていてしまいそうだ。


 奮い立たない。

 糸の切れた心が、闘志を湧き立たせてくれない。

 まだ敵は来るぞと自らを叱りつけても、あれほど燃え上がっていた精神に再び火が付かない。

 だからだろう。


「――――――は」


 それを見たとき、イアンの心中にはなにも浮かんでこなかった。


 敵が迫っている。

 規模は前回とほぼ同じ。オーク、ゴブリン、小人の混成部隊。

 ただでさえ人数で劣り、疲労して数を減らした傭兵では難しい相手だ。

 その上。


「ゴォオオオオオオオオオ!」


 四メートルの巨大な体躯。隆々と盛り獣毛に覆われた筋肉に、理性の窺えない一つ目。


「――――トロールかよ」


 人型では巨人に次ぐ脅威とされている魔物を見たとき、イアンの口元には乾いた笑いが浮かんでいた。


「……野郎ども、もうひと踏ん張りだ。前に出ろ」


 号令を上げて歩き出す。声は張れただろうか。あまり自信はない。仲間の反応も見ずに敵を目指した。


 トロールは三体いた。横に並んで先行している。後続の本隊はトロールの戦闘に巻き込まれるのを恐れたのか、やや離れて進軍していた。

 敵の意図を考えてみる。トロールをけしかけて、邪魔な柵や杭を蹴散らさせるつもりか。あの体躯なら空堀も大した障害にならない。トロールが堀を乗り越えて暴れている隙に、本隊がよじ登る気だろう。そうならず、たとえ化け物が堀の中で死んだとしても、死骸が足場になる寸法だ。


 なら、あれを防御陣に踏み入らせるわけにはいかない。

 あれがその腕力で逆茂木を吹き飛ばす前に、倒さなければならない。それはつまり、いままで数に劣る傭兵たちに下駄を履かせてきた地形を捨て、前に出て戦うことを示している。


 ……いや、気休め程度に柵の一つは挟ませてもらおうか。


「弓、構えろ」


 弓兵は八人に減っていた。皆無言で矢をつがえ、指示を待っている。

 恐怖はない。心は静謐に己の死を見つめている。


 ――――いや、違う。

 これは心が鎮まっているんじゃない。起伏に疲れた心が、動こうとしないのだ。


「――――――」


 束の間に呆然とした。

 これが、俺の終わりか。

 あれだけ大言壮語を吐いておきながら、こんな田舎で、誰にも知られず、ちっぽけな義理にかかずらって、あの巨体に虫のように踏みつぶされて消える命か。


「右端のトロールを狙え。胸のあたりに当てて足元から注意を逸らすんだ。……その隙に俺とウェンターが潜り込んで腱を斬る」


 ウェンターが苦笑して軽く剣を振るった。文句も言わず、付き合ってくれるらしい。

 ……彼には最後まで無理を言いっぱなしだ。悪いとは思いながらも、『客人』という特別な身の上につい寄りかかってしまった。

 どうしてこんな無謀な男についてきてくれたのだろう。何度も不思議に思ったものだった。訊ねたところで、いつものように曖昧に笑って返すだけだろうが。


 逃げ場はない。行く先もない。振り返れば屍の山。これが俺たちの築いた価値だ。

 感慨もなければいさおしもない。これはひとつの小さな傭兵団が勝ち目の薄い戦いに挑み、順当に敗れ去るだけの――


「――――――笑止な」


 踏み入ってきた、葉擦れのように微かな音量は、やけに明瞭に鼓膜を震わせた。


 一陣の風が吹く。

 風が唸り、霧が吹き付ける。

 北面の防御。北西の、ここから見て左の山。そこから、一つの紅い影が躍り出た。

 砲弾のように迫りくる。影は猛然と加速してトロールの足元に肉薄し、その脚を紅く煌めかせ地面を踏み割る勢いで跳躍した。


 ――魔力が紅い粒子を放つ。身に纏う紅銀が閃く。

 それは、刺突だったのか。


 気が付けば影は魔物の頭頂に直立していた。トロールは立ち止まったまま絶命している。こめかみに折れた槍の穂先が突き立っていて、傍から見ても即死だと理解できた。


「――――――」


 影は無言。ただ手元に青白い閃光を纏わせ、さらにもう一体のトロールに向けて跳躍する。

 閃光から無造作に引き抜いたのは二振りの片手斧。落下の勢いを乗せて豪快に振り下ろした双撃は、容易くその頭蓋を砕いて見せた。


「グォ――――」


 ――ずん、と重々しく音を立てて巨体が倒れる。

 その傍らで、がりがりと地面を削って着地しながら男は両手の斧を一息に投擲した。凶悪な回転音を上げてふたつの投斧が飛翔し、三体目のトロールの両脛を叩き割った。

 転倒したトロールが怒りの咆哮を上げた。

 男はそれを一顧だにせず、ただ肩を怒らせて胸を膨らませ、天に向けて牙を剥くように、


 ――――ゥオオオオオオオオオオオオオ……!


 その獣じみた雄叫びに、誰もが思考を忘れた。オークも、人間も、トロールですら凍り付いた。

 ……あれのどこが、ただの猟師だって?


「コーラル……」


 呆然と尋ねる。

 一体、どれほどの死線を越えてここまで辿り着いたのだろう。

 猟師の姿は、誰が見てもわかるほど満身創痍だった。

 身に纏う革鎧は爪痕と牙跡でずたずたになっていて、もはや防具としての用をなしていない。彼の象徴だった枯葉色の外套は、焦げ付き引き裂かれ原形を留めず、首に切れ端が引っ掛かっている。

 全身に返り血を浴びて肩で息をするなかで、それでも瞳は力を失っていなかった。


 ――――そう、彼だけは、今だ闘志を燃やし続けていた。


 西日を返す銀の防具。手足と額を守るそれらは、その彫刻から紅い燐光を撒き散らし男の存在を誇示している。


 之を見よ、我を見よ。

 彼の者こそが死地の戦人。新たなる我が主。

 正しく『亡霊』の跡を継ぐ、嵐のごとき――


「ふん……」


 紅い猟師は、傭兵たちを睥睨して言い放った。


「――――この程度か、雑兵ども……!」


「――――――――っ」


 息を呑む。

 ここで、今この場所で、お前はそう言うのか。

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