賢者によるゴブリン事情解説
顔が何やら生暖かい。あとなんか生臭い。
うつらうつらとしながら意識が浮き上がるのを感じる。……あー、なるほど今まで気絶していたのか。酷い眠気に襲われた次の瞬間にこの状況である。失神というやつは何度か体験して慣れないと、何が起きたのかすら理解できないものだ。
……世間一般に流布されている都市伝説だが、腹パンだの延髄手刀だので気絶することなんてほとんどありえない。腹や鳩尾に一撃食らったところで、生まれるのは地獄のごとき苦痛くらいだ。あと嘔吐。思えばなかなかのカウンター技である。ふはは渾身のリバースシャワーで顔面をぐちゃぐちゃにしてくれるわ、と待ち構えていたら、お袋に不思議拳法で道場の壁にめり込むまで吹っ飛ばされた経験がある。もちろん吐いたよ、自分の腹に。
あとよいこの諸君、延髄に対する攻撃は誰に対しても禁止だ。おじさんとの約束だよ。あれのおかげでどれほどの偉大なレスラーがこの世を去ったか。だというのにどうしてうちの元上司は嬉々として狙ってくるんだろう。
気絶に関する講釈が終わったところで自身の状態を確認しよう。手指の感覚……よし。足先の感覚……よし。頭痛や浮遊感……無し。舌で歯をなぞってみて……折れや欠けもなし。股間は濡れていないか……よし。尻に異物感は……無し。
粗相の有無を確認するあたり、俺がいかに玄人か窺えようというもの。さて、さっさと起きて猪を持ち帰ろう。血抜きをしないまま放置した分肉質は悪くなっているだろうが、仕方がないと諦めて―――
「―――わふ」
眼前に猛獣注意報。
「ぬぉおおおっ!?」
横たわったまま背筋のみで後退する。しかし相手もさるもの。のしのしと追従して再び俺の顔を舐め回す作業に戻った。
さっきから顔がやたらと温かかったりべたついたりするなーと思ったら、こいつの仕業か。
巨大な狼だった。体躯はロバほどもある。毛並みは艶のある灰色で触り心地がよさそうだ。こちらを見つめる目に険はなく敵意はないように見える。
……いつかの夜に出くわした、あの群れのボスだ。
なぜ、いつからここに。襲ってはこないのかと疑問に思ったところで、
「―――目が覚めたようだな」
不意に声をかけられた。
男の声だ。出所を探す。俺が間抜け面で眠りこけていたところのすぐ脇、いつの間にか焚かれたのか、ぱちぱちと景気よく燃え上がる焚火の向こう側に、そいつはいた。
燃え上がる火が男を照らす。魔術師風の赤いローブにフードを目深にかぶり、横に宝石を嵌めこんだ杖を地面に突き立てている。横倒しになった倒木に腰を下ろした男の足は、その矮躯のせいかぶらぶらと揺れている。
何より異様な男の特徴は―――
「――――――」
二足歩行するカピバラ。
絶句する。だってそうとしか形容しようがない。全身こげ茶色の体毛。つぶらな瞳に前に突き出た鼻と口。もごもご動く口に合わせてぴんと張った髭が上下する。
見紛うことなく、今や動物園でパンダと双璧をなす人気者、カピバラだった。
「……なんだね、その視線は。……さてはゴブリンを見るのは初めてかね。種族選択の際モデルが仮表示されたはずだが……ものぐさなプレイヤーなら、とばしたとしてもおかしくないか」
「ゴブリン?」
「左様。ゴブリンウィザードのタウンゼイだ」
よりにもよってウィザードと申したか。
いやいやいや、これはおかしい。一般に言うゴブリンとは小鬼をさしているはず。小柄で赤目で一本角。たまに肌は緑色。とある児童向けファンタジーでは銀行員なんて役職が与えられていた。
獣人一歩手前な毛むくじゃらは、むしろ親戚のコボルドの領分ではないか。
「……失礼だが、ゴブリンは普通、小鬼じゃなかったか」
「一般的なファンタジーではそうなっているな」
「だったらあなたはむしろ―――」
「ゴブリンだ」
「コボルド―――」
「ゴブリンだ」
「…………」
強引に言いくるめられた気がする。自称ゴブリンは納得がいかないようで、ぶつくさと文句を垂れている。
「それもこれも20世紀になってからのゲーマーが悪い。ゴブリンもコボルドも同じ妖精をさす言葉だったというのに、いつの間にかゴブリンは序盤の雑魚敵。コボルドは小柄で犬顔な獣人ポジションに収まってしまった。銀を腐らせるという伝承がある分、あちらの方がたちが悪いというのに! だから私は某蜘蛛男の映画は嫌いなんだ。あんなのグリンオークとでも名乗ればいいではないか。どうしてゴブリンにお鉢が回ってきたのだ。昨今ではコボルドは忠犬のような萌え描写されることもあると聞くが、いたずら好きな妖精という点は何も変わらないのだぞ? ……幸いなことにというか、この世界にコボルドはいないがな。犬顔種族は我らがもらっておくぞ、ざまあみろ!」
なんなんだこいつ。
ライトファンタジーでの常識に噛み付きたくて仕方ない様子の男に、返す言葉が見つからない。
「―――ああ知ってるか。とある同人作家はオークとオーガの区別がつかずに、赤鬼の胴体に豚面を据えて角を生やしたものを出展したら、指輪オタクどもに袋叩きにあったという。まさに当然の末路といえよう」
「ストップ。ストップ。話が脱線している」
「う、うむ。悪いな」
どうにかして黙らせる。そもそもこいつが何者なのかもわからないというのに。
「……さきほどからファンタジーがどうとか世界がどうとか言っているが、あなたはひょっとするとプレイヤーか」
「いや違う。現時点で私ほどの位階に到達しているプレイヤーはいない。だが近い存在ではある。言うなれば自動AIによるGMのようなものだ。もっとも、製作側から『神の声』のような指示は受けたことがないがね」
「GMのようなもの、とは」
「そのままの意味だよ。私は君たちの言うNPCが突然変異によって生じたものだ。生まれは第一紀。およそ七百年ほど生きている計算になる。初めの頃はほかの連中と一緒になって、外敵からきゃーきゃー逃げ回る雑魚でしかなかったが」
ちらり、とゴブリンが目の前の焚火を見やった。ぼん、と音を上げて炎が勢いを増す。薪入らずで便利なことだ。
「まあともかく、そこに座るといい。話をしよう」




