第96話 軍監
【天正三年 小寺官兵衛孝高】
何かが違うと感じる。
果たしてこれが、小寺官兵衛なのか。
その名だけで、余人を感嘆させ、
天下という碁盤に雄々しく、碁を打っているはずではなかったのか。
現実は、ただの田舎の家老。唐土の三国時代の英雄にも、日ノ本の古の英雄にも、なにもかも、程遠い。
自分と同い年の山田大隅守信勝は、既に幕府の管令だというのに。
いや、別に悲観しているわけではない。他人と己を比べて一喜一憂するなど、愚物のすることではないか。
ここから、天下へ羽ばたいてやる。
小寺官兵衛、愚物と才子の狭間でもがき、そして
未だ何も成していない。
小寺官兵衛、天正三年の春。
「殿が御呼びです」
「あいわかった」
わしが、天下の軍師になるには、主君の小寺藤兵衛様が大大名になる必要があるが、藤兵衛様には、そんな野心はない。あくまでも現状維持。
ひたすらに、そればかりを願っている。
「小寺官兵衛、参りました」
「おお、官兵衛か」
好好爺のような顔をしているが、藤兵衛様はまだ
四十代だ。風月を愛し、花鳥を眺める内に、老け込んだのだろうか。
「そなたは、山田殿と親しいらしいの」
「は。気に入ってもらっております」
「そうか。では小寺の家のことをよろしく頼んでおけい」
こぶしを強く握り、震わせる。
ああ。見限れたらどんなに楽なのか。
大和の松永弾正、備前の宇喜多和泉守、この者共のように、人を人と思わず、権謀術数の限りを尽くし、己のことだけを考えられる性質であったならば、どんなに楽だったのだろうか。
ただ、それは無理だ。
人並みの、感性がある故、筆頭家老にまで引き上げてくれた藤兵衛様を足蹴にすることなどできぬ。
御着を出たわしは、そのまま姫路へと向かう。
播磨が、山田殿に膝を揃え、人質を差し出したのはわしの功績ではない。山田殿の功績だ。
挽回するしかあるまい。
挽回の機会は目の前にある。
上月城主、赤松蔵人大輔政範は幕府への臣従要求を一蹴。反幕府の旗色を鮮明にしたと聞く。
赤松蔵人は、源氏の名門赤松の分家だ。本家はすでに幕府に臣従している。
数年前、浦上家から遣わされた宇喜多和泉守に敗北してからは、浦上家の臣下扱いとなっている。
上月は小城なれど、播磨、美作、備前の国境にある要所。それに、赤松蔵人の背後には浦上、そして毛利がついている。
さらに、山田殿はこの上月攻めで、初めて播磨衆を率いる。言わば、播磨の寄親として負けられないのだ。
武士の挽回は戦のみ。
だから、この足は姫路に向かっているのだ。
「小寺官兵衛にござります」
「入れ」
襖<ふすま>の向こうですぐに山田殿の声がした。わしもすぐに襖を開け、入る。
「失礼致します」
山田殿は、こちらに目を向けずじっと畳の上においている地図を凝視していた。
「上月のことにござりますか」
差し出がましいかも知れぬが、これも構わぬことだ。成り振り構ってはいられない。
「そうだ」
山田殿は、まだ目を伏せている。気分を悪くしたかと思ったが、そんな機微、今のわしには気遣う必要はない。
「言ってくれ」
少しの間のあと、山田殿が口を開いた。その後に、すぐに苦虫を噛んだような顔をしていた。
そうか。山田殿も策を求めていたのか。
わかると、急に周りの景色が華やいだ気がした。
「申し上げます」
巻き返し、始めるのだ。小寺官兵衛の物語を。
「山田殿は今、摂津衆一万、播磨衆一万、
南但馬衆二千、尼子衆一千を持っております。ならば、これをわけるべきかと」
「……わけるというと」
「上月を攻める者共らと、備前に進行する者共らに」
「なかなか大胆だな」
呆れているわけでもなく、かといって感心しているわけでもない平坦な音を聞いた。
「上月を支援いたすは、浦上に間違いなし。なら機先を制し、備前に進行いたすべきかと」
「上月を落とした後、だれに任せる?」
「尼子殿が相応しいかと」
一瞬、山田殿が目をあげ、わしを見たが、すぐに
地図に戻った。
「……そうだな」
上月は、要所であり前線。士気高く、尚且つ見捨てることができる者共に任せるべきだ。
播磨の者を置けば、見捨てた時、ほかの播磨衆に
動揺が起こる。だが、尼子衆なら何もない。
そのことは、山田殿もわかっているはずだ。
「失礼致します」
頭を下げ、退出しようとしたところ、ふいに名前を呼ばれた。
思わず頭を上げると、山田殿はわしの顔をじっと見ていた。
「上月攻めは、藤兵衛殿の名代として参陣致すように」
「は、ははっ……」
つまりは御着勢を率いてもよいということだ。
山田殿はわしをもって御着の代表と考えてくれているのか。
よし。
姫路の地を、力強く踏み締めながら歩いた。
◇
上月攻めのために、軍が召集された。
合計すれば、二万三千もの大軍。本陣には各武将たちが顔を並べている。
別所小三郎が武将の席次筆頭に座り、その次に摂津衆が連なり、その後にわしだ。
別所殿の次か。
山田殿は、そこまでわしを評価しているのか。
その山田殿は、主将の座に座り頬杖を付いている。
山田殿が着ている赤い陣羽織の襟には、金茶で
家紋である一と刺繍されているのが、よく目立つ。
「備前侵攻は、摂津衆、南但馬衆で行う。
上月攻めは播磨衆に任す」
播磨衆を率いる山田殿の代理である軍監はだれが任命されるのか。
やはり、山田殿の古くからの家来である、前田殿や、高山殿が任命されるのであろうか。
「上月攻めは先鋒、尼子孫三郎殿。尼子の武勇をお示しあれっ!」
「お任せをっ」
席を蹴って、尼子殿は立ち上がった。
軍監の発表はまだか。すぐに、その軍監殿に
献策致したい。
策はまだ考えていないが、なんとか小寺官兵衛は軍師であることをあらわしたい。
「軍監は、小寺官兵衛っ!」
はじめ、その名前が自分の名前であることをわからなかった。だが、軍監にわしを指名したということがわかると、顔色が、青くなった気がした。
「お、おお恐れながら、某は藤兵衛様の臣であり―」
「官兵衛だっ!」
山田殿が、大声で言いきったため、一気に陣が静まる。
いや、わしは藤兵衛様の臣だ。つまりここにいるものたちよりも格下なのだ。それが播磨衆一万を率いるのか。
喉が渇き、汗が吹き出る。声が出ない気がする。
別所殿の顔をちらりと見ると、難しい顔をしている。
力無く席に座り込み右手を額につけ、目を閉じた。
「くぅ……」
わしの苦悶の声だけが、わしの頭の中で反響した。




